今無 ヅイ / 第21話

第三話 同じ方です

 旧市街へ向かう途中、梓はずっと風呂のことを考えていた。  湯。  石鹸。  乾いた泥を落とせる場所。  できれば誰も話しかけてこない場所。  それらは、今の梓にとって王都閉架棚の希少写本よりも切実だった。 「お風呂は」 「照会後です」  隣を歩くファリンが、顔色ひとつ変えずに答えた。 「人権は」 「宿帳にも関わる重要語ですね」  反対側からミルカが真面目に言った。 「同業者が真面目に拾ってくる」 「言葉は拾える時に拾うものです」 「正しい。正しいけど、今は違う」  梓は肩を落とした。  グランドゲートの旧市街は、冒険者ギルド本部周辺とはまた違う騒がしさを持っている。  ギルド本部周辺の騒がしさが、外縁へ出る者と帰ってきた者のざわめきだとすれば、旧市街の騒がしさは、暮らしている者たちの音だった。  干した布が窓辺で揺れている。路地の奥から、煮込みの匂いが流れてくる。ハーフリングの子どもが籠を抱えて走り、ゴブリンの帳場係が店先で銅貨を数え、ナーガ種の青年が広めに造られた石畳の溝をゆっくり進んでいる。  段差の少ない道。  幅の広い戸口。  低い者にも高い者にも届く掲示板。  濡れても滑りにくい床石。  多種族都市は、看板に「多種族歓迎」と書くだけでは成り立たない。  暮らすためには、体に合わせた道がいる。 「こちらです」  ファリンが立ち止まった。  そこにあったのは、古い旅籠だった。  看板には、共通筆記で《三つ水路亭》と書かれている。その下に、ハーフリング語の丸みのある略字と、ナーガ語系らしい流線形の補助表記が添えられていた。  建物は低く横に広い。正面の戸口は大きく、扉の横には濡れた布を干せる棚と、尾や外套膜を傷めないための柔らかい敷物が置いてある。 「ちゃんと、泊まる人の身体に合わせてある……」  梓が思わず呟くと、入口から小柄な女性が出てきた。  丸顔のハーフリングで、エプロンの紐をきっちり結んでいる。年齢は梓より上だろう。柔らかそうな雰囲気だが、目は実務の人間のそれだった。 「宿ですから」  女性はそう言って、ファリンへ頭を下げた。 「お越しいただいて助かります。メリッサです。この宿を預かっています」 「冒険者ギルドのファリンです。こちらが高位解読士のマミヤさん、記録課付き一般解読士のミルカさん。それから、ナーガ種の名乗り確認のため、サイラさんにも来ていただきました」  サイラは静かに頷いた。  忘却の外縁から戻ったばかりだというのに、鱗についた砂はもう綺麗に払われている。梓とは乾燥からの復帰能力が違いすぎた。 「お願いします」  メリッサはそう言うと、声を少しだけ落とした。 「うちは泊める宿です。台帳に弾かれたから泊められません、なんて言いたくありません」  その言葉で、梓は少しだけ姿勢を正した。  宿は、人を泊める場所である。  図書館が、本を返せと言うように。 「状況を見せてください」 「こちらへ」  案内された帳場は、よく整っていた。  低い机と高い机が両方あり、椅子もいくつかの高さに分かれている。壁には鍵札が並び、部屋番号の横に、湿度、床長、寝具種別、段差の有無が小さく記されていた。  梓はその細かさに感心した。  ただし、感心している余裕はあまりない。  帳場の中央に、宿帳が開かれていた。  その横には、荷物預かり票、前払い控え、ギルド紹介状、古い名継ぎ札が並んでいる。  問題の客は、帳場の奥にいた。  ナーガ種の男性だった。上半身は細身で、下半身の蛇体は深い緑。旅装は乾いた街道向けのものだが、首元には水辺の共同体で使うらしい細い飾り紐を巻いている。 「セイル・ナグルだ」  彼は落ち着いた声で名乗った。 「あるいは、ナグルの緩流にいるセイル。どちらでも私だ」 「マミヤです」  梓は礼を返し、宿帳へ視線を落とした。  宿帳には、二つの名前があった。  セイル・ナグル。  ナグルの緩流にいるセイル。  字そのものは共通筆記で、読みにくくはない。だが問題は、文字の読みにくさではなかった。  宿泊者欄では、二名扱い。  前払い記録は、セイル・ナグル。  荷物預かり票は、ナグルの緩流にいるセイル。  ギルド通行証は、セイル・ナグル。  古い名継ぎ札には、二つの名前が併記されている。  そして宿帳の端には、灰色の輪が浮かんでいた。 「灰色ですね」  ミルカが言った。 「はい」  メリッサの声には、静かな苛立ちがあった。 「青なら通る。赤なら明確な不一致。灰色は」 「同一人物として保証できない、です」  ミルカが補った。  メリッサは眉を寄せた。 「本人は目の前にいます」 「はい」 「昨日も泊まりました。前にも何度も泊まっています。荷物の中身も言えますし、私も顔を覚えています」 「はい」 「それでも、紙が駄目だと言うんですか」  ミルカは少しだけ耳を伏せた。 「紙が駄目と言っているのではありません。照合印が、同一名義として保証できないと言っています」  梓は灰色の輪を見た。 「それはだいぶ、紙が駄目と言っていますね」 「マミヤさん」 「すみません」  ファリンに軽くたしなめられ、梓は咳払いした。  ミルカは宿帳の隅を指す。 「この名寄せ照合印は、宿帳名、ギルド登録、通行証、荷物預かり票、前払い記録、それから旧名継ぎ札の写しを照合します。青は処理可能。赤は明確な不一致。灰色は、同じかもしれないが保証できない」 「一番実務が止まる色ですね」 「はい」  ミルカは短く頷いた。 「偽名と断定しているわけではありません。ですが、別人ではないとも保証できません」 「別人の荷物を渡さないための仕組み、ということですね」 「そうです」 「正しいですね」 「はい」 「正しいのに、困りますね」 「はい」  メリッサが深く息を吐いた。 「部屋は空いています。前払いも受けています。荷物も預かっています。でもこのままだと、ギルド紹介客としての宿泊記録が通りません。万一の時の保険も効きませんし、荷物も正式には返せません」 「宿側が勝手に泊めることは?」  梓が尋ねると、メリッサは首を横に振った。 「常連さんを床に転がすくらいなら、私の部屋でも泊めますよ。でも、それは宿屋として泊めたことになりません。何かあった時、この方がここにいた記録が灰色のまま残る」  セイルが静かに言った。 「私は泊まれればよいと思っていたが、メリッサが困る」 「お客様にそう言わせるのが、いちばん嫌なんです」  メリッサの声は穏やかだった。  穏やかな分、重かった。  梓は宿帳に視線を戻す。  紙が人を泊めるわけではない。  だが、紙が通らなければ、宿は宿として人を泊めたことにならない。  それは、とても嫌だった。 「セイルさん」 「なんだ」 「二つの名前について、確認してもいいですか」 「もちろんだ」  セイルは尾を少し丸めた。 「セイル・ナグルは、乾いた道や公用登録で使う名だ。短い。商人にも役人にも言いやすい」 「ナグルの緩流にいるセイル、は」 「水辺の親族や、湿地の古い共同体で使う名だ。ナグルの水筋のうち、緩い流れの側に属すという意味が入っている」  サイラが頷いた。 「珍しくはない。ナーガの名は、身体だけを指すとは限らない。どの流れにいるか、誰の水辺に属すか、乾いた道を行くか。それも名に入る」 「名前が、住所と所属と状態を兼ねている」  梓が言うと、サイラは少し考えてから頷いた。 「近い。だが住所より、流れの中の位置だ」 「流れの中の位置」 「同じ水でも、上流と淀みと緩流では違う。そこにいる者の名も違う」 「なるほど」  梓は宿帳の二つの名前を見比べた。  短い名前は、扱いやすい。  長い名前は、正確だ。  どちらが本当か、ではない。  どちらも本当で、使う場所が違う。 「昔は、宿でも両方を書いた」  セイルが続けた。 「祖父の代は、旧市街の宿に泊まる時、短い名と水辺の名を並べて書いたと聞いている。今は短い名だけで通ることが多い」 「今回は荷物預かり票が長い名で、前払い記録が短い名」 「荷物は親族から送られたものだ。だから長い名で届いた」 「前払いはご本人が街道側で?」 「そうだ」  梓は頷いた。  道筋は見えてきた。  ただ、道筋が見えてくるほど、嫌な感じも濃くなる。 「ミルカさん」 「はい」 「これ、西区の導線異常の意味登録と似ていますが、違います」  ミルカの耳が動いた。 「まだ聞いていませんが」 「聞かれそうだったので」 「聞こうと思っていました」 「では、先に答えました」  ミルカは少しだけ黙った。 「西区の記録、確認しました?」 「書いたので」 「何人分ですか」 「優先登録だけなら九十人弱です。関連名簿込みだと、百三十人くらいだったと思います」  帳場が静かになった。  メリッサが宿帳の向こうで動きを止める。 「覚えているんですか」 「全部ではありません。必要な範囲だけです」 「それを全部と言うのでは」  ミルカが低く呟いた。  ファリンは否定しなかった。  梓は少しだけ不満だった。 「名前だけを丸暗記しているわけではありません。ミラさんはパン屋《炉の小窓》の店主で、火床管理者。バルトさんは商人組合側の荷口関係者。ロウさんは井戸番で、水場常住者。エノルダさんは通称エノさんで、ハーフリング系の短縮名。ニコさんはパン屋見習いで、女将さんがつけた名前です」  さらに静かになった。  梓は首を傾げる。 「何か」 「高位解読士って、そういうものなんですか」  ミルカが尋ねた。 「違います」  ファリンが答えた。  即答だった。 「違うんですか」 「違います」  ミルカは梓を見た。  梓は目をそらした。 「仕事で使った名前なので」 「仕事で使った名前を百人単位で、意味と職能と帰路ごと覚えるのは普通ではありません」 「覚えるというより、引けるだけです」 「引ける」 「はい」  梓は少し考えた。  昨日の夕食は、正確には思い出せない。  たぶん豆の煮込みだった。あるいは芋だったかもしれない。パンは食べた気がする。パンはだいたい食べている。  けれど、一度仕事として読んだ名前は違う。  名前。語源。屋号。職能。住所。帰路。注記。照合した文書。  それらは忘れるというより、棚に入る。  宮殿ではない。  順路を歩いて思い出すのではない。  梓の頭の中にあるのは、図書館だった。  必要な言葉が、必要な時に、背表紙をこちらへ向ける。  だから、梓は覚えているというより、引いている。  ただし、棚が崩れると大惨事になる。 「名前の流れを覚えているのだな」  サイラが静かに言った。 「名前の流れなら、少し」 「それは、かなり変だ」 「同族の方に言われると重いですね」  梓は咳払いをして、宿帳に意識を戻した。 「とにかく、西区の時は、名前を街の導線に接続する作業でした。誰がどこに住み、何をして、どこへ帰るのかを、古い帳面に意味として通す必要があった」 「今回は?」  ファリンが促す。 「すでに繋がっていた名前同士の橋が切れています」  ミルカが筆を取った。 「名継ぎの断絶」 「はい」  梓は古い名継ぎ札を手に取った。  薄い木札に、細かな文字が刻まれている。共通筆記の横に、古いナーガ語系の補助記号と、レグナ交易語由来の実務注記が重なっていた。  面倒な混ざり方だった。 「嫌な混植ですね」 「読めますか」  メリッサが不安そうに聞く。 「読めます。読みたくはないですが」  梓は名継ぎ札を机に置き、角度を変えた。  短名。  水辺名。  通行名。  預かり名。  宿泊名。  それらは別々の人間を指す欄ではない。  むしろ、同じ者へ戻すための欄だった。 「この古い札、本来は名前を分けるためではありません」  梓は言った。 「繋ぐためのものです」  ミルカの筆が止まる。 「繋ぐ」 「はい。短い名と長い名を、状況ごとに使い分けるための橋だった。乾いた道では短い名。水辺や親族圏では長い名。荷物がどちらの名前で来ても、宿泊者がどちらの名前で記録されても、同じ人へ戻せるようにしていたんです」 「では、今回の灰色は」 「橋が切れている場所で、照合印が渡っていいか分からなくなっています」  梓は灰色の認証紋を指した。 「この照合印は、嘘を見抜いたんじゃありません。別人を同じ人として扱わないよう、安全側に倒れた。それ自体は正しいです」 「正しいんですね」  メリッサが苦い顔をした。 「正しいです。別人に荷物を渡したら大問題ですし、別人の前払い記録を使ったら宿も客も困ります」 「でも、今は困っています」 「はい。正しい仕組みが、正しい人を通せていません」  セイルが静かに宿帳を見た。 「私は、ここにいる」 「はい」 「だが、帳の上では二人になっている」 「はい」 「厄介だな」 「とても」  梓は頷いた。  ミルカが記録紙を差し出す。 「臨時注記を作りましょう。宿泊期間内に限り、二名義を同一人物として扱う。恒久処理はギルド記録課へ照会」 「はい」  梓は筆を取った。  書くべきことは多い。  だが、多すぎてはいけない。  宿屋が使えなければ意味がない。  梓は短く息を整え、共通筆記で書き始めた。  公用登録名セイル・ナグルと、湿地共同体名ナグルの緩流にいるセイルは、同一人物を指す。  本宿泊、荷物預かり、前払い記録、通行照会において、同一名義として扱う。  本注記は当該宿泊期間に限る。恒久処理は冒険者ギルド記録課へ照会する。  ミルカが横から補助注記を加える。  名継ぎ札の旧式欄は、別個体表示ではなく条件名接続欄として扱うこと。 「これで」 「足ります」  ミルカが頷いた。 「ただ、押印権限が要ります」 「こちらで」  ファリンがギルドの照会印を取り出した。  淡々としているが、動きに迷いがない。梓が読んで、ミルカが整理し、ファリンが権限を通す。こういう時、ファリンがいると話が早い。  注記にギルド照会印が押される。  宿帳の端に、名寄せ照合印を再度押す。  灰色の輪が一度薄れた。  帳場の空気が止まる。  次に浮かんだのは、青い認証紋だった。  メリッサが大きく息を吐いた。 「泊められますね」 「はい」 「荷物も返せますね」 「はい」 「前払いも通りますね」 「通ります」  メリッサはセイルへ向き直った。 「お待たせしました。いつもの湿り床のお部屋、空いています。荷物はすぐにお持ちします」  セイルは静かに頭を下げた。 「助かる」 「宿ですから」  メリッサはそう言った。  その一言だけで、梓は少しだけ救われた気がした。  宿は、人を泊める場所である。  紙がそれを邪魔するなら、紙の方を読み直さなければならない。 「では、これで」  梓がそっと一歩下がる。 「お風呂へ」 「マミヤさん」  ファリンの声がした。 「はい」 「まだ確認があります」 「今、青くなりました」 「この一件は」 「この一件は」  ファリンは静かに繰り返した。  嫌な言い方だった。  メリッサが申し訳なさそうに手を上げる。 「あの、実は」  梓は目を閉じた。  実は。  その二文字は、だいたい仕事を連れてくる。 「昨日も、似たようなことがありました。半陸棲のお客さんで、陸名と潮名が別になっていて」 「昨日も」 「一昨日は、リザードマンの方でした。脱皮前の名と、今の名が混ざっていたとか」 「一昨日も」 「その時は古い帳簿を手で確認して、なんとか通したんですが」  ミルカがすでに記録紙を取り出していた。  梓はそれを見た。 「早いですね」 「記録課なので」 「記録課、便利ですね」 「褒め言葉として受け取ります」  ファリンが梓を見る。  梓は即座に言った。 「見ないでください」 「見ていません」 「見ています」 「照会先を確認しています」 「見ています」  サイラが宿帳の青い紋を見つめながら、低く言った。 「流れが変わっているな」 「そういう詩的な言い方で事件を大きくしないでください」 「詩ではない。水が変わる前は、端から濁る」 「それ、もっと嫌な言い方ですね」  梓はこめかみを押さえた。  宿屋一軒で済むならよかった。  だが、宿帳、荷物預かり票、前払い記録、通行証。これらは宿だけで完結していない。倉庫、銀行、ギルド登録、商人組合、市警備隊の通行記録にも繋がっている。  名前は、呼ぶためだけのものではない。  宿に泊まるためのものでもある。  荷物を受け取るためのものでもある。  金を預け、仕事を受け、報酬をもらい、門を通り、帰る場所を示すためのものでもある。  名前がずれれば、人は社会の中で迷子になる。  しかも、この街は多種族都市だ。  ヒュームの公用登録名だけで済む者もいれば、流れの名を持つ者もいる。潮の名を持つ者もいる。脱皮の前後で名を変える者もいる。商売上の短い名を使う者もいる。家族圏や共同体でだけ通じる長い名を持つ者もいる。  それらを、ただ一つの欄に押し込めればよいという話ではない。 「ファリンさん」 「はい」 「旧市街の名寄せ照合印、最近まとめて更新か再確認が入りましたか」  ファリンは少しだけ目を細めた。 「西区の導線異常後、人と荷の誤分類に関わる古い帳票類の安全確認が入っています」 「やっぱり」 「ただし、今回の件がそれに由来するかは、まだ断定できません」 「断定はしません。嫌な予感が増えただけです」 「嫌な予感は、報告書に書けません」 「でしょうね」  メリッサが不安そうに尋ねた。 「これ、うちだけではないんですか」 「まだ分かりません」  梓は正直に答えた。 「ただ、似た照合印を使っている宿や倉庫では、同じことが起きるかもしれません」 「倉庫」  メリッサの顔がさらに曇った。 「セイルさんの荷物、親族からの薬材も入っています。あれが止まっていたら困りました」 「薬材ですか」 「はい。湿地性のものなので、長く置くと状態が変わります」  梓は天井を見た。  風呂が遠い。  とても遠い。      ◇  ギルドへ戻る頃には、日は少し傾いていた。  梓は疲れていた。  外縁帰りの疲労に、旧市街歩きと宿帳確認と名継ぎ札の読解が積み重なっている。言語酔いまではいかないが、頭の奥で小さな紙束が倒れそうな気配があった。  記録室に戻ると、机の上に新しい照会票が置かれていた。  ファリンはそれを見て、ほんの少しだけ沈黙した。  梓はその沈黙で察した。 「増えましたね」 「はい」 「何件ですか」 「宿帳が二件。倉庫票が一件。銀行の小口口座が一件」 「種類が増えましたね」 「はい」  ミルカが照会票を一枚取り、目を通した。 「半陸棲種の潮名と陸名。こちらは荷預かり票ですね。もう一枚は、リザードマン種の脱皮前名と現名。銀行口座は……ゴブリン商業名と公用登録名の不一致です」 「ゴブリン銀行員が怒りそうですね」 「すでに怒っています」  ファリンが言った。  梓は目を閉じた。  そこまで早く怒らなくてもいいのに、金融関係者は信用に関わる異常への反応が早い。 「マミヤさん」 「はい」 「追加で三件、確認をお願いします」 「名声って、照会状の束になるんですか」  ミルカが真面目な顔で頷いた。 「実務上は、かなり」 「実務上を禁止語にしませんか」 「実務上、難しいです」 「今のはわざとですね」 「少し」  一般解読士は、思ったより油断ならない。  梓は椅子に座り、照会票を見下ろした。  名前が並んでいる。  短い名。  長い名。  古い名。  今の名。  仕事の名。  家の名。  水の名。  乾いた道の名。  どれも、誰かが生きるために使っている名前だった。  梓は深く息を吐いた。 「まず、宿帳二件から見ます。倉庫票は保存期限がある荷物を優先。銀行口座は、金額が動く前に止めてください」 「承知しました」  ファリンが筆を取る。 「ミルカさん、照合票の種類ごとに並べ替えをお願いします」 「はい」 「サイラさん」 「なんだ」 「ナーガ系の名乗りがもう一件出たら、確認をお願いしてもいいですか」 「構わない。名は流れに戻した方がいい」 「ありがとうございます。できれば、事件も小川くらいで済んでほしいです」 「濁りは、見えた時には上流にある」 「やめましょう、その不吉な水辺表現」  それでも、梓は照会票を手に取った。  嫌だった。  とても嫌だった。  だが、紙の上で迷子になった人間を、そのままにしておくのはもっと嫌だった。  宿は人を泊めたい。  倉庫は荷物を持ち主へ返したい。  銀行は信用を繋ぎたい。  なら、解読士は読むしかない。  梓は一枚目の照会票を開いた。  そこには、灰色の認証紋が薄く浮かんでいた。

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