今無 ヅイ / 第22話

第四話 融通が利かない名寄せ印

 風呂に入った。  寝た。  起きた。  不思議なことに、照会票が増えていた。  間宮梓は、グランドゲート冒険者ギルド本部の記録室で、机の上に並んだ紙束を見下ろしていた。  宿帳照会が二件。  倉庫票照会が一件。  銀行の小口口座照会が一件。  ギルド仮登録照会が一件。  昨日、《三つ水路亭》でナーガ種の宿泊名義を通した時点では、まだ「似たようなことがあるかもしれない」くらいだった。希望的観測を混ぜるなら、宿屋一軒の古い名継ぎ札がたまたま不具合を起こしただけ、という可能性もあった。  だが、朝になると可能性は紙束になる。  そして紙束は、だいたい現実だった。 「おはようございます、マミヤさん」  ファリンが、いつもの調子で言った。 「名寄せ照合関係の追加照会です」 「朝の挨拶に混ぜていい単語ではありません」 「では、改めます。おはようございます」 「おはようございます」 「名寄せ照合関係の追加照会です」 「分割しても嫌なものは嫌です」  梓は椅子に座り、額を押さえた。  昨日の泥は落ちた。髪も洗った。身体も休めた。  だが、頭の奥にまだ薄く紙の匂いが残っている。  風呂に入れば疲労が落ちる。  寝れば体力は戻る。  しかし照会票は増える。  世界は、便利なようでいて、ときどき根本のところで人間に厳しい。 「種類が嫌ですね」  梓は言った。 「数ではなく?」  記録室の向かい側で、ミルカ・レインが紙束を揃えながら訊いた。  短毛のコボルド族であるミルカは、昨日と同じく丸眼鏡をかけ、胸元に一般解読士の職能章を下げていた。朝からすでに紙の扱いが早い。紙束の角がすべて揃っている。  記録課付きの人間は、紙が相手になると強い。 「宿帳だけなら、宿屋組合の範囲で済む可能性がありました」  梓は並んだ照会票を指で示した。 「でも、倉庫票、銀行口座、ギルド仮登録まで出ています。使っている場所が違うのに、同じ症状が出ている」 「灰色の認証紋」 「はい。青でも赤でもなく、灰色。嘘だとは言っていない。でも同一人物として保証できない」  梓は深く息を吐いた。 「一番実務が止まる色です」 「同感です」  ミルカは宿帳照会二件を左に、倉庫票を中央に、銀行口座と仮登録を右に置いた。  さらに、その下へ小さな札を差し込む。 「宿帳系、荷預かり系、金融系、ギルド登録系。処理場所は違いますが、押印系統が近いです」 「旧市街系ですか」 「はい。すべて旧市街の名継ぎ札写しを参照しています」  ファリンが別の帳簿を開いた。 「発行母体は、市庁旧記録局。現管理は、ギルド記録課と市庁記録局の共同管理です」 「共同管理という言葉は、責任の所在が複数ある時に出てくるやつですね」 「その通りです」 「否定してください」 「できません」  梓は机に突っ伏したくなった。  だが、机の上には照会票がある。  紙に突っ伏すと、紙が曲がる。  紙が曲がると、あとで自分が嫌になる。  だから突っ伏せない。  紙は人間の精神にも制限をかける。 「そもそも、名寄せ照合印は悪い道具ではありません」  ミルカが言った。  その声は、一般解読士というより記録課職員のものだった。 「名前を複数持つ方は珍しくありません。公用登録名、商業名、宿帳名、共同体名、通行名、婚姻後名、脱皮後名、潮名、陸名、旧名。これらを毎回手作業で確認していたら、旧市街の実務は止まります」 「だから照合印で、同じ人物として扱ってよいか保証する」 「はい。偽名を弾くというより、同名異人を混ぜないことと、別名義を正しく繋ぐことが目的です」 「人を疑う道具ではなく、人の名前を見失わないための道具」  梓は呟いた。  それなら、なおさら厄介だった。  悪い道具なら、止めればいい。  間違った制度なら、直せばいい。  けれど、正しい目的で作られた便利な道具が、正しい目的のまま、人を弾いている。  こういう時が一番面倒だ。  誰も悪くない。  なのに、人が困る。 「まずは実例を見ます」  ミルカは一枚目の照会票を差し出した。 「宿帳照会。半陸棲種の方です。陸上宿泊名、プラシュ・ミナ。潮辺共同体名、浅潮のミナ、柔らかい岩の側」 「長いですね」 「長いです」 「でも長い方が正確なんでしょうね」 「おそらく」  梓は照会票を覗き込んだ。  大陸公用語で書かれた短い宿帳名。  その横に、潮庭語由来の長い名が補助記入されている。塩分、浅さ、岩場、潮の戻り方を示す語が前にあり、その後ろに個体名らしき部分が付いている。  ヒューム式の名前欄に入れると、ひどく座りが悪い。 「これは名前というより、状態付きの居場所ですね」 「宿帳欄に入りません」 「欄が狭いんです」 「帳票設計への苦情ですか」 「はい」  梓は真面目に頷いた。 「名前の方を削る前に、欄の方を疑うべきです」  ミルカは少しだけ耳を動かし、記録紙に書いた。 「欄の設計が、名乗りの構造に追いついていない可能性あり」 「そのまま書くんですか」 「記録課なので」 「強い」  二枚目は、リザードマン種の照会だった。  旧名、暖石の下に休むラゴ。  現名、乾き尾のラゴ。  宿帳照会のはずだが、添付された古い照合結果に妙な参照が混じっている。  梓はそこを見て、目を細めた。 「死亡名簿参照?」 「はい」  ミルカの声も少し硬くなった。 「旧名が死亡、または失効名扱いになっています。ただし、本人は生存。現名での登録もあります」 「これは死んだんじゃありません。名前が更新されたんです」 「脱皮後名ですか」 「おそらく。リザードマン種の一部では、脱皮や年齢段階で名を変えることがあります。前の名を完全に捨てるわけではなく、古い身体段階の名として残る」  梓は照会票を指先で押さえた。 「この照合印、古い名を“過去に使っていた名”ではなく、“もう使われない名”として扱っています。そこから死亡名簿に近い欄を見に行っている」 「最悪ですね」 「最悪です」  ファリンが静かに筆を走らせた。 「旧名、脱皮後名、死亡名簿参照の誤接続。保存期限や医療記録にも影響する可能性があります」 「医療記録」  梓は嫌な単語を聞いた顔をした。 「薬の履歴や体質記録が旧名側に残っていたら、まずいですね」 「まずいです」 「まずいことが紙から増えていく」 「紙は増えます」 「真理みたいに言わないでください」  三枚目は、倉庫票だった。  半陸棲種の荷物である。受取人の潮名と陸名が違い、保存期限つきの薬材が倉庫に止まっている。  四枚目は、銀行の小口口座。  公用登録名、ボルク・ニム。  商業名、ニム商会第三帳場ボルク。  銀行の照会票には、怒りの跡が見えた。筆圧が強い。 「怒っていますね」  梓が言うと、ファリンは頷いた。 「怒っています」 「まだ本人に会っていないのに、怒りの存在感だけが強い」 「ゴブリン銀行員ですので」  梓は口座照会を読んだ。  公用登録名は個人を示す。  商業名は、所属商会、帳場、責任範囲を含む。  つまり、ニム商会第三帳場ボルクは、ただの別名ではない。どの帳場の、どの取引責任者として動いているかを示す、商業上の名義だった。 「これを別人扱いすると、責任の紐が切れますね」 「はい」  ミルカは頷いた。 「口座そのものは少額ですが、商業名と公用登録名の接続が切れると、帳場責任、支払い、受領印、融資履歴に影響します」 「ゴブリン銀行員が怒るわけです」 「すでに二通目の催促が来ています」 「早い」 「金融なので」 「金融、怖い」  最後はギルド仮登録照会だった。  外縁へ出る前の短期雇用者が、職能登録名と共同体内の呼び名で二重に引っかかっている。依頼報酬の支払いそのものはまだ発生していないが、仮登録が灰色のままでは出発前確認が通らない。  つまり、仕事に出られない。 「広いですね」  梓は言った。 「広いです」  ミルカは同意した。  宿に泊まれない。  荷物を受け取れない。  口座を動かせない。  依頼へ出られない。  どれもまだ一件ずつなら小さい。だが、小さい穴が別々の場所に開いている方が、かえって嫌だった。  水漏れなら一箇所を塞げばいい。  紙漏れは、どこから増えるか分からない。 「押印番号を見せてください」  梓が言うと、ミルカはすぐに照会票の端を揃えた。  名寄せ照合印の印影は、どれもよく似ている。  円形の認証紋。外周の細い点列。中央の名継ぎ記号。下部に小さく入った再校正番号。  梓はそれを眺めた。 「この三つ、昨日の《三つ水路亭》のものと近いですね」  ミルカが手を止めた。 「覚えているんですか」 「見たので」 「見たもの全部を覚えているわけではないんですよね」 「もちろんです」 「昨日の夕食は覚えていますか」 「……豆、だった気がします」 「高位解読士とは」 「夕食は職能外です」  ファリンが記録帳から昨日の控えを取り出した。 「印影番号、確認します」  梓が示した三枚と、《三つ水路亭》の宿帳控えが並べられる。  ミルカは丸眼鏡の奥で目を細めた。 「……本当です。連番ではありませんが、同じ再校正ロットです」 「やっぱり」 「印の端にある点列が同じです。旧市街第六保管庫で再校正した印だと思います」  梓が言うと、ミルカはしばらく黙った。 「そこまで見ましたか」 「見えたので」  ファリンが顔を上げる。 「マミヤさんの“見えた”は、説明として不十分です」 「私もそう思います」  ミルカが同意した。 「でも見えたものは仕方ないじゃないですか」  梓は少しだけ不満だった。  覚えている、という感覚ではない。  昨日見た印影が、今日の印影と同じ棚に並んだだけである。外周の点列、再校正番号の癖、旧市街第六保管庫の管理記号。必要になったから、背表紙がこちらを向いた。  夕食は棚に入っていない。  印影は入る。  人間としてどうかとは思うが、解読士としては便利だった。 「旧市街第六保管庫」  ファリンが管理帳をめくった。 「ありました。西区導線異常後、市庁旧記録局とギルド記録課が共同で、旧市街系の帳票類と照合印を安全確認しています」 「人と荷の誤分類を防ぐため、ですね」 「はい。古い自動照合術式の暴走、未登録者と未登録荷物の混入、帰路導線と荷口導線の混線を避けるためです」 「正しい」  梓は椅子にもたれた。 「ものすごく正しい」 「はい」 「正しいのに、困る」 「はい」 「一番嫌なやつです」  ファリンは淡々と頷いた。 「西区の報告書が、かなり重く受け止められましたので」 「私のせいですか」 「違います」  ファリンは即答した。  ミルカが続ける。 「ですが、マミヤさんの仕事によって、見過ごされていた不整合が可視化されました」 「それを世間では、かなり私のせいと言いませんか」 「記録上は言いません」 「記録外の含み」  梓は天井を見た。  安全確認は正しい。  人と荷の誤分類を防ぐのは正しい。  古い照合印を曖昧に通さないのも正しい。  だが、今まで曖昧さによって救われていた名前の橋が、その正しさによって切れている。  昔の名継ぎ札は、複数の名前を一人へ戻すための橋だった。  いまの照合印は、その橋が本当に橋かどうかを確かめようとして、渡れなくなっている。 「照合印は嘘をついていません」  梓は言った。 「ただ、古い名前の橋を渡れなくなっています」  記録室が少し静かになった。  ミルカが、その言葉を記録紙に写す。 「書くんですか」 「要点なので」 「もう少し事務的にしてください」 「古名接続規則の不全による灰色判定の頻発」 「急に硬い」 「記録課なので」  梓は照会票を順に見た。 「暫定対応が要ります」 「お願いします」  ファリンがすぐに筆を構えた。  その速度が怖い。 「今のは独り言でした」 「聞こえました」 「聞こえないことに」 「できません」  梓は諦めた。 「まず、灰色判定の照会は記録課へ集約してください。宿や倉庫や銀行が、独自判断で赤扱いにしないように」 「はい」 「本人確認済みの場合、生活実務を止めないための臨時注記を使います。ただし、注記には期限と範囲を必ず書く。宿泊期間、荷物受け取り一件、口座照会一回、依頼仮登録など」 「範囲外使用禁止ですね」 「はい。便利だからといって恒久処理に使わない。あと、保存期限のある荷物、宿泊、医療、報酬支払いは優先」 「医療を入れますか」 「入れます。旧名と現名の接続が切れているなら、薬歴や禁忌が分断される可能性があります」 「分かりました」  ファリンの筆は止まらない。  ミルカも横で分類表を作っている。 「押印番号、再校正ロット、参照元台帳番号を記録してください。灰色が出た名前については、公用登録名だけでなく、共同体名、商業名、環境条件名、旧名、現名の区別を可能な範囲で」 「項目が増えますね」 「増えます」 「嫌ですね」 「はい」 「でも必要ですね」 「はい」  ミルカは深く頷いた。 「同業者として、とても嫌ですが、記録課としては助かります」 「立場が分裂していますね」 「解読士はよく分裂します」 「分かります」  二人で少しだけ頷き合った。  ファリンはその間にも、きっちり業務指示の形に整えている。 「暫定運用通知を出します。旧市街の宿、倉庫、銀行窓口、ギルド仮登録窓口へ。灰色判定は即時拒否ではなく、記録課照会へ回すこと。生活実務に支障が出る場合は、本人確認と臨時注記で暫定処理。ただし範囲と期限を明記」 「私が全部見るという意味ではありません」 「必要なところだけお願いします」 「必要なところが増殖しているんです」 「増殖を抑えるための暫定運用です」 「正しい」  梓は敗北した。  正しさに負けることが多すぎる。  その時、記録室の扉が叩かれた。  ファリンが顔を上げる。 「どうぞ」  入ってきたのは、小柄なハーフリングの男性だった。  白髪混じりの髪をきっちり撫でつけ、古いがよく手入れされた上着を着ている。背は低いが、立ち方に芯があった。  その後ろには、メリッサがいる。  《三つ水路亭》の女主人は、昨日より少し疲れた顔をしていた。 「失礼します」  白髪のハーフリングが帽子を取った。 「旧市街宿屋組合のトマス・ペルです。こちらで、名寄せ照合印の件を扱っていると聞きまして」  ファリンが席を立つ。 「冒険者ギルドのファリンです。昨日の《三つ水路亭》の件ですね」 「はい。ですが、あの宿だけではありません」  トマスは静かに言った。 「今朝から、組合に似た相談が来ています。ナーガの方、半陸棲の方、リザードマンの方。名前が二つある。古い名と今の名が違う。宿帳が灰色を出す。荷物が返せない。前払いが通らない」  梓は机の上の照会票を見た。  予想はしていた。  予想はしていたが、予想が人の口から正式に来ると、やはり重い。 「宿帳は」  トマスは、帽子を胸の前で持ったまま続けた。 「人を断るためにつけているんじゃありません」  記録室が静かになった。  梓は、昨日のメリッサの言葉を思い出した。  うちは泊める宿です。  台帳に弾かれたから泊められません、なんて言いたくありません。  それは宿屋の矜持だった。  そして今、組合長も同じことを言っている。  宿帳は人を断るためのものではない。  泊めた人を、ちゃんと泊めたと記録するためのものだ。 「分かりました」  ファリンが言った。 「正式な照会として受理します」  梓は反射的に顔を上げた。 「正式」 「はい」  ミルカが隣で頷く。 「正式になると、記録しやすくなります」 「喜ぶところですか」 「記録課としては」 「同業者なのに、だんだん敵陣営に見えてきました」  ミルカは真面目な顔で言った。 「敵ではありません。紙の上では味方です」 「紙の外では?」 「努力します」 「不安な返事」  ファリンが新しい用紙を出した。  旧市街宿屋組合からの正式照会。  名寄せ照合印の灰色判定多発に関する暫定対応要請。  宛先欄は、まだ空白だった。  梓はその空白を見て、嫌な予感を覚えた。  ファリンが筆を取る。 「マミヤさん」 「はい」 「照会先として、お名前を」 「やめましょう」 「必要です」 「必要という言葉を、やはり一度封印した方がいいと思います」 「必要なので無理です」  ミルカが横から、そっと言った。 「実務上も」 「禁止語が増えました」  梓は額を押さえた。  名寄せ照合印は融通が利かない。  宿帳は人を泊めたい。  倉庫は荷物を返したい。  銀行は信用を繋ぎたい。  そして解読士は、紙の上で切れた橋を読まなければならない。  梓は、空白の宛先欄に自分の名が書かれていくのを見た。  高位解読士マミヤ殿。  またひとつ、照会先が増えた。

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