今無 ヅイ / 第8話

第八話 不本意な下見

 翌朝、梓はギルド本部の相談机の前で、たいへん嫌そうな顔をしていた。  目の前には、日本語の手帳。  横には、西区の苦情票。  さらにその横には、迎賓館跡の報告書控え。  嫌なものばかり、きれいに並んでいる。  ファリンはその三つを順番に見て、静かに言った。 「なるほど。下見は必要ですね」 「です」  梓は即答した。即答したが、声にやる気はなかった。 「正式依頼へ上げる前に、現地確認をしましょう。まだ苦情の段階です。規模も不明ですし、迎賓館跡の件と同系統かどうかも断定できません」 「はい」 「ですので、小回りの利く一班を出します」  そこまで聞いて、梓は少しだけ視線を伏せた。  行きたくない。  それは本心だった。  西区は街の中だ。人が住み、パンを焼き、洗濯物を干し、荷を運び、子どもが走る場所だ。そういう日常の中で、古代の半壊れ導線が噛んでいるかもしれない、というのがもう嫌だった。  しかも、手帳の文は現場前提だ。  角を数えるな。  受付を探せ。  匂いを見ろ。  台所を探せ。  机の上で読めるのは半分までで、残り半分は、実際に歩かなければ分からない。  そこまで分かっていて、なお知らないふりをするのは、もっと嫌だった。  梓は小さく息を吸ってから言った。 「……班、なんですけど」  ファリンが目を上げる。 「はい」 「できれば、前回の迎賓館跡に入った班でお願いします」  数秒、室内が静かになった。  その沈黙を破ったのはスィレアだった。 「あらあら〜」 「何ですか」 「マミヤさんが人を指名してます〜」 「必要だからです」 「ええ、分かってます〜」  ファリンは肘をつかずに、ただ書類を閉じた。 「理由を聞いても?」 「迎賓館跡の導線異常を実見していて、説明の前提を共有できているからです。今回も同系統なら、現場で話が早い。下見の段階で、護衛と構造見立てと観察の役が揃っていた方がいいです」 「あと?」  スィレアがにこにこと促す。  梓は少しだけ視線を逸らした。 「……ログさんは本当に人を落とさないので」  スィレアが吹き出した。 「そこだけ妙に具体的ですねえ」 「重要です」  ファリンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 「分かりました。前回と同じ班に声をかけます。ただし、今回は正式依頼ではなく事前確認です。手当はつきますが、あくまで下見扱いで」 「はい」 「それから」  ファリンは苦情票を指で軽く叩いた。 「まだ苦情のうちです」 「でしょうね」 「ですので、行きたくないという顔をしていても構いません」 「そういうことをわざわざ言いますか」 「ええ。マミヤさんは、顔に出た方が働きやすいので」 「最悪ですね」 「いい意味で、です」  スィレアが、横から楽しそうに言う。 「お人よしですもんねえ」 「違います」  ファリンはそれ以上は追及しなかった。ただ、手元の書類へ短く何かを書き込み、立ち上がる。 「再招集をかけます。出発は昼前。半日で戻る想定です」 「半日で終わるといいですね」 「終わらないと嫌ですか」 「終わらないと、正式依頼になるのでもっと嫌です」  その理屈に、ファリンは静かに頷いた。      ◇  再招集に最初に現れたのはログだった。 「お、ほんとに指名だ」  書類室前へ顔を出したなり、妙に機嫌がいい。今日も荷役用の背負子を背負っていて、なぜか前回よりさらに丈夫そうな革帯が増えていた。 「出世した気分だな」 「どういう出世ですか」 「本持ちご指名の荷役役」 「字面がだいぶ嫌なんですが」 「でもお前が選んだんだろ?」 「そうですけど」 「じゃあ受ける」  妙にあっさりしている。  次に来たリネアは、書類を見るなり鼻を鳴らした。 「西区の下見?遺跡より嫌だね。人が住んでるぶん、壊すと怒られる」 「私もそう思います」 「で、班の指名までしたのかい」 「しました」 「へえ」  リネアはそこで、少しだけ口元を歪めた。 「やっと人を使う気になったかい」 「必要な人員を選んだだけです」 「そのほうが仕事が早い」  最後に来たフェイロンは、やっぱり静かだった。 「事情は聞いた」 「はい」 「西区の導線異常と、迎賓館跡の関連性を見たい」 「そうです」 「合理的だな。前回の異常を知る者が揃っている方がよい」  それだけ言って、壁際へ下がる。こちらの気を楽にするために黙っているのか、本当に必要なこと以外は言うつもりがないのか、そのあたりは相変わらず分からない。  ガレスは少し遅れて来た。  班長は今日も短かった。 「資料は」 「これです」  梓は苦情票の写しと、日本語手帳の抜粋を並べた。日本語そのものは読めないので、手帳については梓の注記つきだ。  ガレスは迎賓館跡報告と西区苦情票を並べて見比べる。 「迷い方が似てるな」 「はい。“同じ角を二回曲がる”、“表通りへ出たはずが元の店の前へ戻る”、“搬入口を抜けたら反対の路地へ出る”。……迎賓館跡の導線異常と、傾向が近いです」 「手帳は?」 「現場のメモです。迎賓館と同系統らしい場所について書いてある。たぶん、西区そのものか、その周辺」  ログが手を上げた。 「質問」 「何ですか」 「たぶんが多くないか?」 「腹立たしいことに断定できるほど確証がまだないので」  リネアが笑った。 「いつも通りだねえ」  ガレスは資料をまとめて返した。 「よし。半日で見る。まず苦情票の出た路地、古い宿場跡、地下搬入口、パン屋の並び、最後に水場。それで何もなければ帰る」 「何かあったら?」  ログが聞く。  ガレスより先に、梓が答えた。 「その場で正式依頼でに格上げです」  誰も異論を唱えなかった。      ◇  王都西区は、グランドゲート周辺より少しだけ古い匂いがする。  道幅が狭い。建物同士の肩が近い。石畳は擦り減り、排水溝の切り方も古い。表通りには店が並んでいるが、一歩裏へ入ると、そこはもう住まいと作業場と倉庫の境界が曖昧になる。  パン屋の前を通ると、朝より少し遅い時間だというのに、まだ焼きたての匂いが残っていた。乾いた粉の匂い。焦げる一歩手前の油。温め直した窯の石の熱。日本語手帳の一文が頭をよぎる。  乾いた粉と焦げた油の匂いがする方が、表。  梓は顔をしかめた。 「嫌ですね」 「まだ何も起きてないぞ」  ログが言う。 「まだ何も起きてない段階で手帳の文と町の匂いが噛み合うのが、いちばん嫌なんですよ」  ガレスが先に立ち、苦情票の出た最初の路地へ入る。  両脇は煉瓦壁。途中に小さな井戸跡。樽置き場。片側には洗濯紐が張ってあり、下をくぐらなければならない。生活の路地だ。遺跡の通路ではない。  なのに、少し進んだところで梓は足を止めた。 「……待ってください」  リネアがすぐに周囲を見る。 「何だい」 「この角」 「ただの角だろ」 「そうなんですけど、曲がった先の見え方が変です」  ログが顔を出す。 「変って?」 「奥行きが浅い……いえ、違う。浅く見せてる?向こうの壁とこっちの壁の繋がりが、ちょっとだけ不自然です」  フェイロンが路地の上を見た。 「日差しの角度もずれている」 「そう、それです」  ガレスは短く手を上げた。 「一度戻る」  全員が数歩下がる。梓は角の手前まで戻ってから、今度は匂いを確かめるように息を吸った。  粉。  油。  それから、少し湿った石。 「……表は、こっちじゃない」  自分でも、そう口にした瞬間に嫌になった。 「パン屋の匂いが近すぎる」 「こっちは、戻す導線です」  リネアが壁へ手を当てる。 「導線って、街の壁の中まで入り込んでるのかい」 「迎賓館が単独施設じゃないなら、ありえます。生活導線の古い骨組みに噛んでる可能性がある」  ログが唸る。 「だいぶ嫌だな、それ」 「はい」  梓は心底うんざりした声で言った。 「だから最初から嫌だって言ってるんですよ」  ガレスは角を見たまま言う。 「じゃあ表はどこだ」  梓は手帳を開き、さっきの頁を見た。  角を数えるな。  受付を探せ。  客の導線と飯の導線はだいたい近い。 「……パン屋の裏口ですかね」 「は?」  ログが素で聞き返した。 「台所を探せ、って書いてあるんです。客を迎える場所と飯を出す場所は近い、って。この路地、生活導線じゃなくて、迎賓館系の古い客導線が混ざってる。表を取るなら、店の正面じゃなく、供給側の裏が基準の可能性があります」 「つまり?」 「パン屋の裏へ回ります」 「急に嫌な下見が具体的になったな……」  だが、理屈は通っていた。  いったん表通りへ戻り、件のパン屋の横を抜け、裏手へ回る。そこには小さな搬入口と、粉袋置き場、灰捨て場、それに半ば埋もれた古い石段があった。  リネアがしゃがみ込む。 「この石段、後から埋めたね」 「ええ。でも元は降りられたはずです」  フェイロンが灰捨て場の脇を見た。 「風の抜けがある」 「地下に空間があるかもしれません」  その瞬間、搬入口から小柄な少年が飛び出してきた。パン屋の使いだろう。布袋を抱え、慌てた顔で表通りのほうへ走ろうとして、角をひとつ曲がる。  そして、次の瞬間には、また同じ搬入口の前へ戻ってきた。  少年が立ち止まる。  袋を抱えたまま、ぽかんとする。 「……え?」  梓の胃が冷えた。  ログが即座に動き、少年の肩を掴んで止める。 「おい、落ち着け」 「い、今、表に……!」 「行ってない。行って戻された」  少年の顔から血の気が引いていく。  ガレスが短く言った。 「リネア、導線を見る。フェイロン、風。ログ、その子を離すな。マミヤ」 「はい」 「苦情のうち、ではなくなったな」  梓は、手帳を握る指へ少しだけ力を込めた。  行きたくない。  面倒だ。  不本意だ。  そして今、目の前で一人、戻された。  これを見てなお「まだ下見です」で済ませるのは、たぶんもう無理だった。 「……はい」  梓は小さく答えた。 「案件です」  少年はまだ混乱した顔で、粉の袋を抱えたまま立っている。パン屋の裏口からは、別の声が飛んだ。 「おい、何してる! 早く塩を持ってこい!」  生活は、何も知らない顔で続いている。  パンは焼かれ続ける。  塩は運ばれなければならない。  昼前の窯は待ってくれない。  そのすぐ脇で、古い導線だけが、半端に生きたまま人を戻している。  梓は目を閉じたい気分になったが、閉じなかった。 「ファリンさんに連絡、ですかね」 「だな」  ガレスが答える。 「これは正式に上げる」 「最悪です」 「知ってる」  ログが、まだ青い顔の少年へできるだけ穏やかな声を出した。 「大丈夫だ。今のはお前のせいじゃない」  その言い方が自然だったので、梓は少しだけ息をついた。  そうだ。  だからこの班を指名したのだ。  導線異常を知っている。  遺跡じみたものを遺跡として騒ぎすぎない。  でも、目の前の人間を置いていかない。  ファリンさんやスィレアさんが、それを「お人よし」と呼ぶのなら、たぶんこの班も、そういう意味では似たようなものなのだろう。  梓は嫌そうな顔のまま、しかしはっきりと言った。 「地下、見ますか」  ガレスがうなずく。 「入口だけだ。正式手配が来るまで、深入りはしない」 「分かりました」  嫌な予感しかしない石段の下から、冷えた風が上がってくる。粉と油と石の匂いが、そこでひとつに混ざっていた。  日本語の手帳の料理人は、たぶんここを知っていた。  だから書いたのだ。  角を数えるな。  受付を探せ。  パンの匂いを追え。  梓は手帳を閉じた。  不本意な下見は、たった今、完全に仕事へ変わった。

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