今無 ヅイ / 第7話

第七話 角を数えるな

 手帳の最初の頁を見たまま、梓はしばらく動かなかった。  紙の上にあるのは、この世界のどの文字でもない。大陸公用語でも、エルヴィン語でも、ドワーフ銘文でも、ゴブリンの急速記法でもない。  日本語だった。  乱れた筆圧。走り書き。急いで書いた字。紙の端には薄い油染みがあり、下のほうには黒ずんだ指跡まで残っている。綺麗に保存されることを前提に書かれたものではない。使いながら、持ち歩きながら、必要に迫られて書いた文字だ。  そこに、こうある。  西区で迷ったら、角を数えるな。  受付を探せ。 「……マミヤさん?」  スィレアの声で、梓はようやく息をした。 「読めます」 「何て書いてあります?」  書類室の外は相変わらず騒がしい。依頼札の貼り替え、窓口のやり取り、誰かの笑い声、帳簿を閉じる音。いつもと同じギルドの朝だ。その音が、今だけ妙に遠く聞こえた。  梓はもう一度、手帳へ目を落とす。 「日本語です」  スィレアが一瞬だけ黙る。 「……それは」 「はい。この世界の言葉じゃないです」  その言い方は少しだけ冷たかった。自分でも分かっていたが、声を柔らかくする余裕がなかった。  スィレアは表情を消さなかった。ただ、笑みだけを引っ込めた。 「続き、読めます?」 「たぶん、いえ、読めます。たぶんじゃなくて、読めます」  梓は椅子へ座った。立ったまま読むには、少し心臓に悪い。スィレアも向かいへ身体を寄せ、脚の何本かで書類棚と床に安定を作る。逃がさない位置取りだが、追い詰める感じではない。実務の人の距離感だった。  梓は頁をめくった。  二頁目。三頁目。字は雑だ。だが、読める。読めてしまう。 「……これ、日記っていうより、仕事手帳ですね」 「どう違うんです?」 「気分じゃなくて、用件が先に書いてある」 「忘れると困ることから書く人の書き方です」  頁の上には、短い分量メモがあった。  豆 二、塩 少し多め  西区の水は硬い  粉は朝に捏ねるな  その下に、同じ手でこう続く。  角を数えるな。数えると同じ場所へ戻る。  匂いを見ろ。  乾いた粉と焦げた油の匂いがする方が、表。  梓は眉を寄せた。 「料理人だ……」 「分かるんですか?」 「仕事メモが混ざってます。食材の分量、水の癖、火の通り。厨房に立つ人の書き方です」 「でも、その下に道案内もありますよね?」 「あります。たぶん、料理人で、たぶん……」  梓は少しだけ迷ってから言った。 「冒険者だったんだと思います」  スィレアの細い指が机の上で止まる。 「どうして?」 「持ち歩き方が、宿帳でも台所帳簿でもないんです。食材メモと一緒に、現場の危険と道順が書いてあって、あと、書き方が次に来る自分”に向けてる。……現場仕事の人です」  頁をさらにめくる。  客を通す場所には、だいたい火と水がある。  迎えるなら飯がいるから。  表の廊下が駄目なら、台所を探せ。  その下。  受付を飛ばすな。  宿っていうか、客を仕分ける場所だ。  帰る方法そのものは、まだ見つかってない。  そこで、梓の指が止まった。  まだ見つかってない。  見つからなかった、ではない。  探していた最中の書き方だ。  スィレアが、今度は少しだけ慎重に聞いた。 「……悪い内容ですか?」  梓は、手帳から目を離さずに答えた。 「悪いというより、嫌な方向によくできてます」 「はい」 「この人も、帰る方法を探してた」  その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。  スィレアは何も言わなかった。下手な慰めを挟まないところが、ありがたい。  梓は小さく息を吐き、読み進める。  西区で迷ったら角を数えるな。  数は信用するな。  受付か、水場か、火床を探せ。  客の導線と飯の導線はだいたい近い。  西二門は客の帰り口。  でも荷は別。  帳面を見ろ。帳面が先。 「帳面……」  梓は呟いた。 「何の帳面ですかね」 「記録簿とか?」 「かもしれません。迎賓館の受付台帳か、中央の記録簿か……少なくとも、この人は導線を読むより、帳面を読め”って言ってる」  スィレアがすぐに引き取った。 「つまり、現場に行く前に書類を見ろ、ですね」 「嫌なほど実務寄り」 「好きですねえ」 「分かりたくないところで親近感が出るの、やめてほしいんですが」  スィレアは少しだけ笑い、すぐ真面目な顔へ戻った。 「西区の苦情票、増えてます」 「何件ですか」 「朝は三件でしたけど、さっき書類室へ来る途中で一件増えました。裏通りを抜けたはずがパン屋の前へ戻った”と」  パン屋。  梓は手帳へ目を落とす。  乾いた粉と焦げた油の匂いがする方が、表。  嫌な一致だった。 「……行きたくないなあ」 「そうでしょうねえ」 「まだ案件じゃないんですよね?」 「今のところは苦情です〜」 「その今のところは”が一番嫌なんですよ」  梓は手帳を閉じた。革表紙が思ったより柔らかい。長く使われた物の手触りだった。  そして、その手触りと一緒に、別のことが遅れて梓の胸へ落ちてきた。  この人、たぶん、グランドゲートに痕跡を残している。  梓はもう一度、さっきの頁を開いた。  粉は朝に捏ねるな。  西区の水は硬い。  豆は先に潰す。  香草を減らすと、あいつらにはこっちの方が受ける。  平焼きに甘じょっぱい具を挟むと売れる。  思わず、声が漏れた。 「……ああ」  スィレアが首を傾げる。 「どうしました?」 「この人、料理人で、たぶん現場の飯もやってた。で、こっちの材料であっち寄りの味”を作ろうとしてる」  梓は頁を指でなぞった。 「豆を先に潰す」 「香草を減らす」 「焦がし油と塩で押す」 「平焼きに甘じょっぱい具を挟む」 「……ハーフリングの屋台、たまに妙に落ち着く味の時あるんですよね」  言ってから、自分で少しだけ驚いた。  焼き菓子の蜂蜜の甘さ。  朝の平焼きパン。  豆煮込みのやけに胃へ優しい塩気。  どうやらグランドゲートで梓好みの味に少し寄ったものが食べられるのは、この人のおかげらしかった。  急に、その人が「いた」のだと実感した。  文字だけではなく、味の方から。 「……なんだか、それは」  スィレアが少し言葉を探す。 「不思議ですねえ」 「ええ」  梓は頷いた。 「帰還の手がかりより先に、朝飯の痕跡で殴られるとは思いませんでした」 「いい殴られ方ですか?」 「……だいぶ、困る殴られ方です」  困る。  でも嫌ではない。  嫌ではないから困る。  頁をめくる。今度は筆圧が少し荒れていた。  西区の表は表じゃない時がある。  角を見るな。  看板も信用するな。  煙と水の流れを見ろ。  中央は後。先に西区の受付。  さらに次。  西二門は客。  荷は別。  帳面を開かないと、街まで響く。  梓はそこでもう一度止まった。 「……街まで響く」 「それは?」 「迎賓館の件と同じなら、末端の施設だけじゃなくて、導線全体の話です」  スィレアが表情を少しだけ硬くした。 「西区全体に関わる?」 「まだ断定はできません」 「でも、迎賓館跡の受付を通した時、導線が安定した直後に西区で、角を二度曲がる苦情が出ている。しかも手帳は街まで響く”って書いてる」  梓は自分で言いながら、胃のあたりが冷えていくのを感じた。  手帳の料理人は、たぶんこれを知っていた。  知っていて、メモを残した。  帰る方法を探しながら、同時に、街の導線が壊れることも見ていた。  スィレアが静かに言う。 「下見が要りますね」 「はい」 「正式依頼に上げる前に?」 「上げる前に見たいです」 「理由は?」  梓は答えを少しだけ考えた。考える必要は本当はなかった。最初から、もう分かっていた。 「手帳の文は、現場を見ないと半分しか読めないですし、迎賓館跡の導線異常を実見していて、西区の苦情と繋げられるのも、今のところ私が一番近い」  そこまで言って、少しだけ言葉を切った。 「それと」 「それと?」 「……放っておいて、本当に街まで響いたら嫌なんですよ」 「嫌、ですか」 「困る、じゃなくて、嫌です」  梓は手帳を閉じた。  行きたくない。  それは本心だった。  けれど、この手帳は現場前提のメモだ。机の上だけでは半分しか読めない。迎賓館跡の導線異常を実見していて、西区の苦情がただの迷子話ではないと結びつけられる人間は、たぶん今のところ自分がいちばん近い。  そして何より、こういうまだ苦情のうち”みたいな段階を放っておくと、たいてい後でろくなことにならない。  嫌な可能性が見えてしまった以上、見なかったことにするほうがもっと嫌だった。 「……ファリン呼びます?」  スィレアが聞いた。 「休ませてあげたい気持ちはありますが……この手帳は、休み明けまで机に置いておくには、ちょっと強いです」  梓は頷いた。 「呼びましょう。緊急”ではなくかなり嫌な予感がする”くらいの温度で」 「だいぶ強いですねえ」 「私は今、かなり嫌な予感がしています」  スィレアは立ち上がる代わりに、身体の向きを少し変えた。後方の脚の一本で、器用に伝声板の留め金を外す。 「ファリンさーん、起きてますか〜。マミヤさんがかなり嫌な顔をしています〜」 「雑なんですよ!」 「でも分かりやすいです〜」  そのあいだに、梓はもう一度手帳を開いた。  頁の隅に、別の短い走り書きがあった。  塩が高い。  でも帰るよりは安い。  梓はそこで、少しだけ目を細めた。  笑うところなのかもしれない。  少なくとも書いた本人は、笑うつもりで書いたのかもしれない。  でも今は、うまく笑えなかった。  その人が帰れたのかどうか、まだ分からないからだ。  頁をめくる。次には、もっと切迫した字があった。  中央は後。  先に西区の受付。  表から入るな。  パンの匂いを追え。  そこまで読んだところで、梓は顔を上げた。 「スィレアさん」 「はい〜?」 「これ、下見が要ります」 「ええ」 「正式依頼じゃなくていいです」 「むしろ正式依頼になる前に見たい」 「理由は?」 「今のうちに見れば、苦情のうちで止まるかもしれないからです」  スィレアの笑みが、今度は少しだけやわらいだ。 「そういうところですよねえ」 「何ですか」 「お人よしです」 「違います」 「違いませんよ〜。理屈の顔して、ちゃんと放っておけないんですから」  梓は眉を寄せた。 「冒険者なんですから、人助けくらいしますもん」  言ってから、自分でも少し子どもっぽかったと思ったのか、梓は露骨に不機嫌そうな顔をした。  スィレアは喉の奥でくすくす笑う。 「ほら、そういうところです〜」 「だから何なんですか」  伝声板の向こうで、かすかな反応音が鳴る。どうやらファリンは起きていたらしい。あるいは、最初から完全には寝ていなかったのかもしれない。  その間にも、ギルドの外では誰かが笑い、誰かが札を貼り替え、誰かが今日の荷を運んでいる。生活は続いている。パンも焼かれている。融資審査も進んでいる。  その生活のすぐ脇で、まだ読んでいない頁が、もう一枚だけ口を開けた。  梓は手帳を閉じ、革紐を結んだ。 「……明日ですかね」 「下見ですか〜?」 「はい」 「行きたくないですけど」  スィレアは即答した。 「行くんですねえ」 「理屈が全部そろってるので。そういうの、一番嫌なんですよ」  たぶん、それがこの町で働くということなのだ。  梓は手帳を鞄へしまい、焼き菓子の最後の一つを見た。甘いものは、だいたい気分の悪さに少し効く。少しだけだが。  だから半分だけ食べて、残り半分はあとでにした。  明日の下見は、不本意だ。  でもたぶん、行かなければもっと面倒になる。  そういう種類の確信が、今の梓にはいちばん重かった。

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