今無 ヅイ / 第3話

第三話 外より来し者へ

 裂け目の上で、ログが小さく息を呑んだ。 「外から来た者……?」  問いというより、思わず零れた独り言に近かった。  だが、その場で聞き流した者はいない。  そして今、この文言は明らかに判断へ関わる。 「ここで使われている外は、城外や国外を指す語じゃありません」  ガレスが問う。 「なら、どこの外だ」 「世界そのものをひとつの内側としたとき、その外を指す古い用法です」  誰も、すぐには口を開かなかった。  梓は視線を文字へ戻した。 「……続き、読めます」  梓は崩れた一文を目で追った。古代北エルヴィン語特有の、格調だけは異様に高い修辞が何重にも重なっている。主語へ敬辞が二つも三つもかかり、動詞は後ろへ逃げ、肝心の要件は最後まで顔を出さない。  読める。読めるが、腹は立つ。 「第一行は献辞です。外より来し客人へ、安らぎと正しき導きを」 「客人」  トーマが眉をひそめる。 「続けろ」 「第二行。名を記し、右の導きに従い、前廊を乱さず進め」  リネアが首を傾げた。 「前廊?」 「廊下です。たぶん」 「そのたぶんは何なんだい」 「修辞が多すぎるんです。この時代の文。大げさに言い換えすぎて、普通の言葉が見えにくい」  梓は少し顔をしかめた。 「たとえば歩を乱さず進めって書いてありますけど、要するに走るなです」  一拍遅れて、ログが吹き出した。 「走るな?」 「走るなです」 「今その情報いるか?」 「古代語は、雰囲気だけで遺跡を荘厳な神殿に見せてくるので」  フェイロンが扉枠の文字を静かに見たまま言った。 「その先は」 「帰路を望む客は、西の扉を正しき順に開けよ」  梓はそこで言葉を切った。  嫌な予感がする。  危険の予感ではない。もっと別の種類のものだ。 「どうした」  ガレスが問う。  梓は本当に嫌そうな顔をした。 「これ、たぶん。扉の開け方です」  沈黙。  風が裂け目の底を、ひどく行儀よく吹き抜けた。  トーマが腕を組む。 「待て。帰路を望む客西の扉正しき順。普通なら封印解除か何かだろ」 「普通なら、ですね」  梓は乾いた声で返した。 「でも古代北エルヴィン語は、接客案内でも封印解除みたいな顔をしてくるんです」 「そんな言語ある?」 「今まさにその言語を読まされています」  フェイロンがごく小さく頷いた。 「少なくとも、侵入者を拒む文ではないな」 「そうですね。客を導く文です」  ガレスが綱を握り直す。 「なら読む価値はある。浅層だけ見よう。リネア、ログ、フェイロン。降りるぞ。トーマ、お前の班から一人借りる」 「俺が行く」 「無理するな。腕が死んでる」 「利き手じゃない」 「顔色が死んでる」  トーマは舌打ちし、後ろの若い班員を顎で呼んだ。やせたヒュームの女で、額には汗が滲んでいるが、目の焦点はしっかりしている。 「ミレイユ。道だけ見ろ。深入りはするな」 「了解」  梓は扉枠の文字をもう一度確かめ、綱から手を離した。 「右列、前廊、西の扉、ですね」 「歩けるか」 「降りたので、もう歩くしかないです」 「言い方は気に入らんが正しいな」  ガレスが先に足を下ろし、続いてリネア、ログ、フェイロンが裂け目へ降りてくる。全員が揃うと、地上にいたときより空気が狭くなった。暗く、乾いていて、少しだけ古い紙の気配がする。  梓は扉枠の先を見た。  通路がある。  まっすぐではない。だが迷路でもない。人が通ることを前提に作られた幅だ。荷車は厳しいが、人間二人が並んで歩くくらいなら問題ない。  ただし、足元の模様がやけに細かい。  石床には、線と点の文様が連なっている。装飾に見えなくもない。だが梓には、それが装飾ではなく、何かの記号列に見えた。 「待ってください」  ログの足が止まる。 「またか」 「はい、またです」  梓は足元を指した。 「そこ、道じゃないです」 「床だろ」 「床ですけど、踏んでいい場所じゃない」 「何だそれ」 「句切りです」  今度はガレスが振り返った。 「……何だと」 「文章の切れ目です。たぶん、導線制御に使ってる。通路として歩くべき線と、区切りの記号が混ざってるんです」  リネアがしゃがみ込み、石床を見た。 「装飾文様じゃないのかい」 「見た目はそうです。でも左右が非対称……。人の歩幅に合わせた繰り返しにしては、ここだけ間隔が狭い。意図的に切ってある」 「踏んだらどうなる」 「たぶん、位置感覚がずれます」 「たぶん、ねえ」  ログが小石を投げた。  句切りらしき石へ当たった瞬間、通路の奥行きが一瞬だけぶれた。距離が伸びたように見え、次の瞬間には戻る。まるで、視線だけが別の頁へ滑りかけたみたいだった。  ミレイユが小さく息を呑む。 「副責任者が言ってた同じ場所へ戻るか……」  フェイロンが短く言った。 「なるほど、導線だな。本来は客を正しく流すためのものだ」 「たぶん、壊れてるんです」  梓は眉を寄せた。 「壊れてるか、条件が抜けてるか。元はもっと分かりやすかったはずです」 「客が迷わないようにか」 「推測ですが、そういう意図を感じます」  ガレスが手で順を示した。 「マミヤが先を見る。フェイロンが足元。リネアとログで左右。言われなくても変な石は踏むな」 「了解」  誰も反論しなかった。  通路は短かった。  扉枠から先へ数十歩で、小さな広間へ出る。 天井の一部が崩れており、そこから落ちる光が床を四角く照らしていた。 広間の壁沿いには低い石の台が並び、片側には浅い水盤のようなものがある。 さらに奥には、柱と柱のあいだへ木片の残骸が立てかけられていた。  ログが周囲を見回す。 「祭壇……じゃないよな、これ」 「待合室ですね」  梓が即答した。 「は?」 「水盤。腰掛け。広い前室。導線が一方向。どう見ても、いったん人を止める場所です」  フェイロンが水盤の縁を撫でた。 「浄めの場ではなく、手洗いだな」 「はい」  梓は木片の残骸へ近づいた。  腐って崩れているが、穴の位置と支柱の跡から見て、何かの立て札か案内板だったように見える。 「これ、掲示板かも」  リネアが鼻で笑う。 「なんだか、思ったよりずいぶん俗だね」 「古代の人も客を座らせて待たせてた、ってだけの話かもしれません」  ログが広間の隅から何かを拾い上げた。薄い石板片だ。 「おい、これ字じゃないか?」  梓が受け取る。  欠けている。だが、十分読める。  梓は石板片を目で追い、しばらく黙った。 「……要約しますね」 「頼む」 「名前を登録するので、並んでお待ちください」  沈黙。  ログが口を開けたまま止まる。 「……え?」  梓は石板から目を離さないまま続けた。 「厳密に翻訳するなら、来訪の名を記し、順を違えず、静かに前にて待て。要するに、受付で名前を書いて待て、です」  リネアが吹き出した。 「そんなことある?」 「……なんというか、格式を盛りすぎて、内容が事務になることはよくあります」  フェイロンが低く言った。 「建物は」  梓は周囲を見回した。  前廊。水盤。腰掛け。掲示板。順路制御。 「……迎賓館ですね」  そこまでは平坦に言えた。  だが次の一言で、少しだけ梓の声が死んだ。 「もっと正確に言うと、外から来た客向けの宿泊施設です。要するに、ホテルみたいなものです」  ログが目を瞬かせる。 「へえ……そういう施設、昔からあったんだな」  リネアが水盤の縁を軽く叩く。 「前廊、腰掛け、水、泥靴置き場。たしかに宿だね。思ったより真っ当に客を迎える気がある」  フェイロンが壁の文字を見たまま言う。 「外来者を通すシステム、または制度があったのだろう。一人や二人のために、ここまでの導線は引かん」  ガレスは短くうなずいた。 「なら収穫だ。封印施設でなくても構わん。外から来る者と、帰路を望む客を区別していた。それだけで十分情報になる」  梓だけが石板を見たまま、しばらく黙っていた。 「……そうですね」  声が少しだけ平たくなる。  還る。  外より来し者。  帰路を望む客。  そこまで並べられて、ようやく掴んだものが、丁寧すぎる接客導線だった。 「どうした?」  ガレスが聞く。  梓は石板を裏返し、乾いた声で答えた。 「……帰る方法かと思ったら、ホテルの受付案内でした、というのがなんとも、ですね」  一拍置いて、ログが困ったように笑う。 「あー……まあ、マミヤはそうなるか」 「そうなりますよこれは」  その言い方に、リネアまで少しだけ口元を緩めた。  広間の奥には、左右へ分かれる通路が二つあった。右は少し広く、左は細い。右の壁には、擦れた文字列が横長に走っている。  梓はそちらへ近づいた。 「案内板ですね」 「また案内板か」 「この遺跡、たぶん八割くらい案内板です」  今度はログがこらえきれずに肩を揺らした。  だが梓は笑えなかった。  読めるからだ。  壁の文は長い。格式ばった言い回しを何枚も重ね、そのうえでようやく要件が出てくる。実に古代北エルヴィン語らしい、嫌な文章だった。 「ええと……。外より来し客人において、長き旅路ののち帰路を望む者は、西二門へ導き、記録を整え、見送りの詞を欠かすことなかれ」  リネアが首を傾げる。 「見送りの詞?」 「接客指針です。丁寧に送り出しましょう、ですね」 「帰路を望む者、ってのは」 「お帰りになるお客様」 「……還る方法じゃないのか」 「還るはあります」  梓は乾いた声で続けた。 「ありますけど、今のところは宿から帰るの方が近いです」  ログが苦笑する。 「めちゃくちゃ期待させておいてそれかあ」 「私が一番期待してたんですよ」  ガレスは壁の文字の先を顎で示した。 「その先は」 「欠けてますが、地名か施設名が残ってる」  梓は崩れた箇所の下を指した。 「中央還路庁……かもしれない。字が欠けてて断定はできませんけど、中央と還路はかなり濃いです」  フェイロンの目が細くなる。 「ここは本館ではない、と」 「そうですね。南西の客用前廊、みたいな立ち位置かもしれません」  ガレスが短く息を吐いた。 「支所か」 「そんな感じです」 「ホテルの分館で、帰る客は中央窓口へ、ってことか」 「古代語の格調を落とすと、たぶんそうです」  その瞬間、広間の左奥で何かが軋んだ。  全員の視線がそちらへ走る。  細い通路の先、半ば埋もれた壁面から、白い光が一本だけすっと走った。 次いで、床に眠っていた文様がうっすら浮かぶ。導線制御の術式が、遅れて息を吹き返したみたいだった。  ミレイユが息を詰める。 「……まだ生きてる」 「全部じゃない」  梓は即座に言った。 「一部だけです。たぶん来訪者導線の補助術式。でも壊れてる。今のまま動いたら、また位置感覚がずれます」 「撤収だな」  ガレスの判断は早かった。 「収穫は十分ある。案内板、石板、文字の写しを取って戻る」 「マミヤ、必要な箇所だけ抜け」 「はい」  梓は鞄から保存紙と炭筆を抜いた。  こういうときだけ、指は迷わない。  案内板の重要語を写す。  外より来し者。  帰路を望む客。  西二門。  中央還路庁。  どれも今すぐ帰還へ結びつくわけではない。けれど、ただの慰めでもない。  この世界は昔から、外から来る者を知っていた。  帰る者という概念も知っていた。  そして、そのための施設を作るくらいには、制度として扱っていた。  梓は最後の一行を写し終え、小さく息をつく。  リネアが聞いた。 「何て書いてあった」 「見送りの詞を欠かすことなかれです」 「最後まで接客だねえ」 「徹底してます」  ログが肩をすくめる。 「でもまあ、ゼロじゃないんだろ?本館か何かが別にあるなら、次があるってことだ」 「そうですね」  梓は紙を乾燥剤袋へ入れながら答えた。 「ゼロではないです。ただ、今日は、思ったよりだいぶホテルでした」  その言い方が妙に真顔だったので、今度はガレスまで口元を少しだけ歪めた。 「よし。戻るぞ。泥靴を脱ぐ前に、命が脱げたら笑えん」 「その表現はどうかと思います」 「現場向きだ」 「雑なんですよ」  来た道を戻りながら、梓は広間を振り返った。  崩れた天井から落ちる光の下で、古代の待合は静かだった。かつてここに、本当に外から来た誰かが腰を下ろし、泥靴を脱ぎ、案内を待ったのだろうか。  だとしたら、その誰かは、どこから来て、どこへ還ったのだろう。  裂け目の上へ出るころには、導線の光はまた弱まっていた。  トーマが駆け寄る。 「どうだった」  ガレスが先に答える。 「封印施設じゃない」 「じゃあ何だ」  梓が保存紙を抱えたまま、少しだけ遠い目で言った。 「迎賓館です」 「は?」 「もっと正確には、外来者向けの宿泊施設です。要するにホテルみたいなものでした」  トーマは数秒、瞬きもせずに梓を見た。 「……その結論になることある?」 「古代北エルヴィン語が回りくどいので」 「便利だな、その理由」 「便利ではないです」  梓はすぐに紙を差し出した。 「ただ、収穫はあります。外より来し者は本物でした。あと帰路を望む客も。それから、中央の別施設らしき名称が出ています」  トーマの顔つきが変わる。 「別施設?」 「南西の前廊か、分館か、その類だと思います」  フェイロンが後ろから補った。 「客を通す施設なら、記録と帰路の本処は別にあるのが自然だ」  トーマは低く唸った。 「……なるほどな」  ガレスが綱をまとめながら言う。 「いったん地上へ戻る。写しを突き合わせて、導線を復旧できるか判断する。手順が組めるなら、日のあるうちにもう一度入る」 「了解」  トーマが頷く。  梓はもう一度だけ、裂け目の底を見た。  ホテル。  迎賓館。  どちらでもいい。重要なのは、そこが「外から来た者」を前提に作られていたことだ。  帰るために読む。  その理屈は、どうやら古代にも存在していたらしい。  なら、次も読むしかない。  たとえその先に待っているのが、また丁寧すぎる案内板だったとしても。

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