今無 ヅイ / 第2話

第二話 忘却の外縁へ

 顔合わせが済んだ途端、班はもう歩き始めていた。  挨拶と確認が終われば、あとは現場へ向かうだけだ。依頼書の重みも、前金の重みも、歩き出してしまえばだいたい同じ形で肩に乗る。  グランドゲートの門をくぐってしばらくは、まだ街の延長だった。  石畳は続き、荷車は行き交い、朝の商いはむしろ勢いを増していた。通り沿いでは、魚を運ぶハーフリングが威勢よく声を張り上げ、反対側では二人組のエボニーエルフが巻紙の束を抱えて役所へ急いでいる。城壁が遠ざかっても、人の営みはしばらく途切れない。  梓は荷鞄の肩紐を持ち直した。  重い。  正確には、荷物そのものはそこまで重くない。筆記具、保存紙、乾燥剤、薄手の補修布、現場用の小瓶、食料少々。問題は、必要なものを必要な位置に入れているので、誰かに持たれると困ることだ。  そして、困るからといって自分で持つと、肩が早々に抗議を始めることだ。  冒険者という職業は、つくづく本に優しくない。  前を歩くガレスが、振り返りもせずに言った。 「遅れるな」 「もう少し励ましとか、いたわりとかは」 「現場でやる」 「現場でやられても遅いんですよ」  その横で、ログが気の毒そうに梓を見た。 「本当に担がなくていいのか?」 「まだそこまで行ってません」 「まだって言ったな」 「言いましたが、そういう意味ではなく」  リネアが鼻を鳴らした。 「歩幅が合ってないんだよ、本持ち。足の長いやつらに合わせるな。刻め。歩数を増やして呼吸を合わせろ」  言い方はぶっきらぼうだったが、内容は親切だった。梓は小さく息を吸い、意識して歩幅を狭めた。すると確かに、さっきより息が乱れにくい。 「……少しましです」 「だろうね」 「ありがとうございます」 「礼はいらん。運ぶ羽目になるのが面倒なだけさ」  最後尾近くを静かに歩いていたフェイロンが、そのやり取りに薄く目を細めた。 「助言を素直に聞くのは良いことだ」 「助言は助言としてありがたく聞きます。体力がないことに反論の余地がないので」 「自己認識が正確だな」 「長所です」 「短所でもある」 「それもそうです」  会話はそれで終わった。  気まずいわけではない。ただ、無駄に喋る班ではないのだろうと梓は思った。必要なことを言い、必要がなければ黙る。そういう集団の歩き方だ。  もっとも、梓が外から来た人間だということは、この班のうち少なくとも班長と補助員には共有されているはずだった。依頼の性質上、判断に関わる情報は伏せない。グランドゲートは、そういうところだけは妙にまともだ。  ひとつ角を曲がると、街の密度が少し落ちた。  建物の並びはまばらになり、代わりに倉庫や荷車溜まりが増える。鍛冶場の音は遠くなり、城壁の内側にあった活気は、今や背中側にあるものになっていた。通りを行く人間の顔も、買い物客や役人より、荷役や調査員や巡回兵のものが増えていく。  外へ向かう顔だ。  その変化が、梓には少しだけ分かるようになっていた。  日本で司書をしていたころ、人の顔を読むことは少なかった。だがこの世界へ来てからは、ギルドの受付、依頼主、学者、護衛、荷役、そしてローン窓口の担当者まで、いろんな種類の切迫した目を見るようになった。  帰ってくる前提で動いている人間と、帰れなくても前へ進まねばならない人間では、朝の顔つきが違う。  それを知ってしまったのは、あまりうれしい成長ではなかった。  やがて街道脇の畑が途切れた。  最後に見えたのは、低い石垣に囲まれた豆畑と、そこへ水を引くための簡易水路だった。農地の向こうに見える監視塔は新しく、道そのものもここまではまだ行政の手が入っていると分かる。  そこを越えると、道は古くなった。  敷石の間に草が増え、排水溝には落ち葉が詰まり、かつて標石だったものの何本かは途中で折れている。補修の手が止まり、けれど完全には捨てきれずに残されているもの特有の、宙ぶらりんな風景だった。  ガレスが短く言う。 「ここから先は外縁寄りだ。雑談は小さくしろ。先遣班の札を見落とすな」  急に、というほど急ではない。けれど、確かに空気は変わった。街から完全に切り離されたわけではないのに、もう街の理屈だけでは動いていない気配がある。  人の音が減る。  風が通る。  草が伸びる。  その全部のあいだに、少しだけ、頁の余白みたいなものが混じり始める。  忘却の外縁。  誰も読んでいない、あるいは読めなくなったページの端。  この世界をそんなふうに捉えるようになったのは、いつからだったろう。最初はただの比喩だった。今では、かなり正確な説明に思える。  梓は道脇の石柱に目を留めた。  朽ちた標石に、新しい結索が一本だけ巻かれている。先遣班のものだ。色は規定どおり。結び方も雑ではない。  だが。 「待ってください」  先頭のガレスが即座に止まる。止まり方に無駄がない。ログも、リネアも、フェイロンも続けて足を止めた。 「何だ」 「その札、進路確認じゃないです」  ログが目を丸くする。 「え?」 「退避標です。結び目が逆」  ガレスが振り返り、標石に視線を落とした。リネアが先に近づき、指先で結索をつまむ。 「……ああ。ほんとだ。右残しになってる」 「通常は左残しです。戻りながら打ったか、急ぎで打ち替えたかのどちらかだと思います」  フェイロンが低く言った。 「結び目の締めも浅い。慌てているな」 「先遣班報告では、一時撤退の可能性に触れていたな」 「そうだな」  ガレスが短く応じる。  ログが少しだけ声を潜めた。 「急にいやな感じになってきたな」 「最初からいやな感じの案件です」 「それはそうなんだけど、そういう意味じゃなくて」 「分かります。私も今、業務上のいやさから、現場のいやさへ移行しつつあります」 「器用だなその分類」 「便利なので」  軽口を言いながらも、梓は標石の根元を見ていた。土の表面には浅い足跡が乱れている。三人分、いや四人分か。戻る向きに踏まれた跡が多く、そのうち一つはやたらに軌道がぶれていた。  先遣班二名軽傷、一名一時錯乱。  依頼書の備考欄が、いやに現実味を帯びてくる。 「先へ行きますか」  梓は自分でも確認のつもりで言った。  ガレスは答えを迷わない。 「行く。だが速度は落とす」 「了解です」 「お前がなぜ了解した顔をしてるんだ」 「班の一員ですので」 「戦列の後ろで置いていかれそうになっていた一員が?」 「いたわりが遅いんですよ」  ログが吹き出した。  ガレスはため息をつき、だがそれ以上は何も言わなかった。  そのまま進むにつれ、景色のまとまりが少しずつ悪くなっていった。  木々の間隔が妙に均一だ。岩の苔が、揃いすぎた向きで生えている。倒木が一本、道を塞ぐように横たわっている。そこまでは自然だ。  その先で、ほとんど同じ角度の倒木が見えた。  梓は眉をひそめる。  さらに二十歩進んだ先に、また似たものがあった。  そこで足が止まった。 「……あれ」 「どうした」  ガレスの問いに、梓は言葉を探す。 「同じです」 「何がだ」 「倒木の角度。苔の付き方。根の浮き方。さっき見たものと、ほとんど同じ」  ログが目を細めて前を見た。 「同じ木ってことか?」 「違います。同じ木じゃない。同じ……」  一拍、考える。 「同じ書き方です」  数瞬の沈黙。 「分からん」  リネアが即答した。 「だろうと思いました」  フェイロンが周囲の木々へ静かに視線を走らせる。 「……なるほど。認識阻害だな。景色を複写している、と」 「はい。たぶん」  梓は少し右手の岩場を指した。 「このまま左へ誘導したいんだと思います。倒木の置き方がそっちを自然に見せてる。でも右側だけ、継ぎ目が甘い」 「継ぎ目?」 「景色がうまく繋がってないんです。草の密度が急に変わる。岩肌の削れ方が別の場所のものに見える」  ログが小さく唸った。 「マジで読むんだな、お前」 「読まないと帰れないので」 「説得力があるようなないような」  ガレスが顎で示す。 「リネア」 「あいよ」  リネアは短い棒を抜き、梓の示した岩場へ近づいた。慎重に足元を確かめ、地面を突き、さらに二歩進む。  何も起きない。  三歩目。  空気が、ふっと変わった。  さっきまで見えていた倒木の並びが、ほどけるように消えた。  いや、消えたのではない。「そこにあることになっていた景色」が解け、その奥にあった本来の地形が見えただけだ。  浅い谷。  崩れた石段。  地面に打ち込まれた仮杭。  薄布の目印。  先遣班の簡易封鎖線。  ログが息を呑む。 「うわ……」  その先、谷の底に大きく口を開けた裂け目があった。地面が陥没し、その縁から古い石組みが覗いている。崩れた梁、半ば埋もれた柱頭、土に呑まれかけた扉枠。  ただの自然地形ではない。  地下遺構の新規発見。  書類の上では平たい単語が、目の前では急に重量を持つ。  ガレスが短く舌打ちした。 「なるほどな。先遣班が急いで引くわけだ」  仮設幕の脇には、先遣班らしき人影が二つあった。一人は腕を吊って座り込み、もう一人は毛布にくるまって虚ろな目で地面を見ている。さらに少し離れた仮設机のそばに、もう一人。頬に浅い裂傷を負い、左手に包帯を巻いたヒュームの男だった。  錯乱したのは、たぶんあちらだ。  さらにその奥、仮設机の上に回収物が並んでいる。泥のついた石板片。折れた測量具。紐を巻き直された巻紙筒。乾ききらない血のついた手袋。  雑然としている。だが、雑ではない。慌てて引いた現場の机だ。  梓は裂け目の縁まで歩み寄り、足を止めた。  冷たい空気が下から上がってくる。  土の湿り気と、古い石の匂い。そこに、ほんの少しだけ、湿った紙に似た気配が混じっていた。 「……書庫の匂いがする」  口にしてから、自分でも変なことを言ったと思った。だがフェイロンは笑わなかった。 「なら当たりだろう」 「うれしくない当たりです」 「高額案件に付属する当たりは、だいたいそういうものだ」  その間に、先遣班の一人がこちらへ気づいて立ち上がった。ヒュームの男だ。頬に浅い裂傷、左手には包帯。顔色は悪いが意識ははっきりしている。 「……後続か」 「グランドゲート本部からだ。ガレス班」 「助かった。班長は?」 「私だ」 「先遣班副責任者のトーマ。下は見たか?」 「見た。あれが入口で間違いないな」 「たぶん。だが、たぶんって言い方しかできねえ。中に入るたび、位置感覚がずれる。一本道を進んだはずなのに、戻ると入口脇に出る。別の横穴へ入った奴が、同じ場所から戻ってきた」  梓は耳を傾けた。 「それで退避標を?」 「読める奴なら気づくように、って置いた。……あんたがそうか」  トーマの視線が梓へ向く。 「マミヤです」 「ああ、古代語読みのマミヤか。……なんだか、現場に来るって顔じゃないな」 「私もそう思います」  トーマの口元が少しだけ緩んだ。 「一人、下で壁の文を読んだと言い張って、急に『帰れない』って騒ぎ始めた。止めると暴れた。連れ出してからも、何を読んだか説明できねえ」 「文字はあったんですね」 「見えた、とは皆言う。だが毎回形が違う。俺にはただの擦れに見えた」  フェイロンが静かに問う。 「罠か、認識攪乱か、あるいはその複合か」 「分からん。だから読める奴を待ってた」  ガレスが振り返った。 「マミヤ」 「はい」 「読めるか」  裂け目の奥、崩れた扉枠の片側に、かすかに線が見えた。土に埋もれ、欠け、擦れ、それでも完全には消えていない文字の痕だ。  梓は喉の奥で小さく息を呑む。 「近くまで行けば」 「行くか」 「行きます」  言いながら、荷鞄の中の筆記具の位置を確かめた。現場用の墨、保存紙、細紐、乾燥剤。全部ある。心の準備だけが相変わらずない。  トーマが仮設幕の脇から一本の補助綱を持ってきた。 「降りるならこれを使え。足場は悪い。右壁沿いならまだましだ」 「ありがとうございます」 「無理だと思ったら引け。先遣班は一度、無理をした」 「はい」  その返事だけは、梓も素直だった。  現場で無理をして英雄になる気はない。生きて帰ることは、この世界で働くうえで最低限の礼儀だ。少なくとも梓はそう思っているし、ファリンもたぶん同じだろう。  綱を手に、裂け目の縁へ立つ。  下は暗い。だが、真っ暗ではない。途中で崩れた天井から光が落ち、古い石壁の一部だけをぼんやり照らしている。その、光の当たる場所に文字があった。  近づく前から、嫌な予感がする。  読めてしまう予感だ。  ガレスが最後に言った。 「無茶はするな。だが読め」 「仕事の指示が雑なんですよ」 「簡潔と言え」 「現場向きですね」  ログが後ろで笑いをこらえた気配がした。  梓は綱を握り直し、右壁沿いに足を下ろす。崩れた石に靴底が滑り、ひやりとしたが、すぐ上でリネアが綱を張って支えてくれた。 「落ちるなよ、本持ち」 「努力します」 「その返しは不安だね」 「最善を尽くします」 「それならいい」  数歩、慎重に降りる。  空気は下へ行くほど冷たく、乾いていた。奇妙だ。地中の湿気より、むしろ保管庫に近い乾き方をしている。石の間を風が抜けているのかもしれない。  やがて扉枠の前までたどり着く。  近くで見ると、それは完全な扉ではなかった。もともと二枚扉だったものが外れ、片側だけが枠を残している。その脇に刻まれた文字列は、土と摩耗で欠けているが、文の型はまだ読める。  梓は指先で触れないよう、目だけを近づけた。  装飾句。  献辞。  層標ではない。  封鎖文でもない。  呼吸が浅くなる。  後ろからガレスの声が落ちてきた。 「どうだ」  梓はすぐには答えなかった。  第一行を追う。  第二行。  第三行。  そこで、はっきりと分かった。 「……これ」 「読めるか」  梓は崩れた文字を見たまま、乾いた声で言った。 「封鎖文じゃない」  上で誰かが息を止める音がした。 「何だと」 「案内文です」  自分でも、言葉にするたび背筋が冷える。 「しかも、普通の侵入者向けじゃない」  ガレスの声が一段低くなる。 「どういう意味だ」  梓は最後の欠けた一行へ目をやった。  崩れている。  だが、読める。読めてしまう。 「……【外より来し者へ】」  裂け目の上で、ログが小さく息を呑んだ。 「外から来た者……?」  冷たい風が、小さく鳴った。  梓はその音を聞きながら、目の前の文字から視線を外せなかった。  帰るために読む。  その理屈が、今ようやく、慰めではなく現実の形を取り始めている気がした。

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