今無 ヅイ / 第1話

第一話 帰還の本は高くつく

 朝の光は、間宮梓の部屋ではあまり役に立たない。  窓は南向きだ。契約書にも重要事項説明にも、確かにそう書いてあった。だがその光の大半は、窓際に林立する書架と、その前に増築されたように積み上がる木箱の陰で、遠慮がちに床を舐めるだけに終わっている。  代わりに部屋じゅうへ均一に行き届いているのは、乾いた空気だった。  壁際の術式板が淡い青を帯び、かすかな唸りを立てている。書物保存用乾式術式。月額定額。光熱費別。水道代別。ついでに食費も別。自炊すれば安いですよ、と契約時に言われたことを梓は覚えている。 覚えているが、書庫の乾燥を維持する費用と比べれば、豆と根菜の値上がりなど誤差である。  静かに暮らしたい人間にとって、静かな暮らしは案外うるさく金がかかる。  梓は机の上の原稿束をめくった。  王都大学から回ってきた査読依頼。題は『後期南方祈祷碑文における敬称変遷についての再検討』。 内容は悪くない。悪くないが、第五章の注記が甘く、引用元の写本系統も雑だ。寝不足の頭にはややつらい。  羽根ペンを取り、欄外へ細い字で書き込む。  原碑文ではなく後代写本を参照していませんか。  この語は敬称変化ではなく語幹交替。  誤植。  最後の一言だけ、少し力が入った。 「……寝不足のときに査読するものではないなあ」  独り言に返事をする相手はいない。  返事はないが、請求はある。  机の右端には書類束が整然と並んでいた。今月の返済予定表。月三百金貨。光熱費見積もり。水道代通知。乾式術式の維持契約。生活費のメモ。 いずれも静かで、整っていて、容赦がない。  その一番下にある残債欄を、梓は見ないようにした。見ても減らないものは、見ないほうが精神衛生にいい。  代わりに視線は、本棚の最上段に置いた一冊の布包みへ向かう。  他の本と違って、それだけは背を見せていない。見せたくないのではない。見てしまうと考えてしまうからだ。  本の世界に入る本があるなら、元の世界に戻る本も、世界のどこかにあるはずだ。  願いというより仮説に近い。祈りというより、分類の延長だった。入口だけが存在して出口のない記述体系なんて、蔵書として気持ちが悪い。  そう思わなければ、やっていられない。  梓は首を振って原稿に向き直りかけた、そのときだった。  こん、こん、と扉が鳴る。  予定のない時間帯だ。査読依頼主ならこんな朝早く来ない。近所のパン屋ならもっと遠慮がない。 「……はい」 「マミヤさん。寝てますか?」  扉越しに聞こえた声に、梓は顔を覆った。 「最悪だ……」 「開けますよ」 「まだ開けていいって言ってません」 「返答ができているので起きてますね」 「理不尽」  扉が開く。  入ってきたのは、冒険者ギルド・グランドゲート本部の事務員、ファリンさんだった。三十代半ばほど。栗色の髪をきっちりまとめ、動きやすさ優先の事務服を着ている。頭がよく、冒険者をあやす(?)ことに慣れていて、しかもその自覚がある女だ。  今日も手には分厚い封筒がある。  嫌な予感しかしない厚みだった。 「おはようございます」 「おはようございますじゃないんですよ。嫌です、その封筒」 「高額案件です」 「なお嫌です」  ファリンさんは机の端に書類をそろえ、部屋を一瞥した。 「乾式術式は安定していますね。快適で、紙の反りがありません」 「そこは命綱なので」 「食事は?」 「昨夜は食べました」 「今朝は?」 「まだです」 「後で何か食べましょうね」 「はい」  素直に返事をした時点で負けだと、梓は経験上知っている。案の定、彼女は封筒を差し出した。 「マミヤさん向けの指名依頼です」 「帰ってください」 「もう来ています」 「そういう意味ではなく」  ファリンさんは向かいに腰を下ろし、逃がさない姿勢で封を切った。 「忘却の外縁、南西縁部。地下遺構の新規発見です」  梓は指の隙間から片目だけ出した。 「新規」 「はい。外縁地下に大規模空洞が見つかりまして、先遣班が浅層のみ確認。古文書断片が出たので、本格調査の前に読解要員が必要になりました」 「手すきの学者は?」 「現場投入前提で、古代北エルヴィン語まで扱える方となると、結局マミヤさんしかいませんでした」 「嫌な最適解だ……」  ファリンは淡々と書類を並べる。依頼書。予算執行承認書。共同調査許可証。先遣班報告。最後に、簡易ブリーフィング。  梓は嫌々それを覗き込み、すぐに眉をひそめた。  ・原生生物変異体複数確認  ・遺跡内魔導防衛個体複数確認  ・認識阻害、現在地撹乱魔術確認  ・回収文書断片、封鎖機構関連の可能性高し 「一行ごとに帰りたさが増すんですが」 「丁寧でよい備考欄ですね」 「丁寧に死因を分類してませんかこれ」 「先遣班二名軽傷、一名一時錯乱とのことです」 「追撃やめてください」 「重要事項ですので」  ファリンは次の紙を差し出した。 「さて、大事な報酬です」 「聞きたくないです」 「前金で五百金貨。帰還時、情報または遺物の持ち帰りで追加報酬あり」  梓はしばらく黙った。 「……五百」 「はい」 「前金」 「はい」 「全額」 「第一段階の契約分については全額前渡しです」  梓は机に額をつけた。 「帰ってこない前提の予算書では……?」 「そこまでは申しません」 「言ってますよね?」 「顔で言ってるのは否定しません」  五百金貨。  王都の新人官吏が三か月近く働いてようやく届く額だ。梓にとっては、来月の返済と、乾式術式と、水道代と、少しまともな食事をまとめて救う金額でもある。  高額案件は危険だ。前金が高額な案件は、依頼主もその危険を理解している。つまり、ろくでもない。  ファリンは最後の一枚を、少しだけ丁寧に梓の前へ滑らせた。薄い羊皮紙に写された、回収文書の断片。 「あと、これです」  梓の肩が止まる。 「……どこから」 「地下第二層手前の封鎖扉脇です」  文字列は細く、曲線が多く、しかも妙に古い綴りの癖を残していた。大陸公用語ではない。現代南エルヴ公用語とも違う。もっと面倒で、もっと性格が悪い。 「古代の北エルヴィン語……」 「読めますよね」 「読めますけど、読みたいとは言ってません」  ぶつぶつ言いながらも、指先はもう文字を追っていた。  第一行。装飾句。  第二行。手順書の型。  第三行。欠損。  そして、その途中で梓の息が止まる。 「……これ」 「何かありましたか」 「この語、普通なら閉じるです。でも後続の格が違う」 「違う、というと?」 「門を閉じるじゃない。頁を閉じて還すの構文に近い」  ファリンが黙る。  梓も黙った。  下の欠損部に、かろうじて残った数文字。崩れた一画。だがその並びには見覚えがあった。  ――外より来し者。  そう読める、可能性がある。  本の世界に入る本があるなら、戻る本もあるはずだ。  この世界に来て立てた仮説が、急に慰めではなくなる。 「……マミヤさん」 「嫌です」 「はい」 「嫌なんですけど」 「はい」 「これは、見ないふりができないやつです」  ファリンはそこでようやく、小さく息をついた。 「そうだと思っていました」  静かすぎる返事だった。静かすぎて、逃げ道がない。  梓は両手で顔を覆い、十秒ほど固まったあと、呻くように言った。 「……受けます」 「ありがとうございます」 「お礼を言わないでください。三秒くらいは悩みました」 「十分長いです」  ファリンは契約書を差し出した。梓が署名する間に、前金受領証、出発確認票、簡易編成表を並べていく。  梓は最後の紙で目を止めた。  班長兼前衛 一名。  荷役兼護衛 一名。  構造見立て 一名。  補助員 一名。  解読要員 アズサ・マミヤ。  備考欄には短くこうある。  ・荷役兼護衛は、必要に応じて同行員の搬送補助を行うこと。  梓は遠い目になった。 「……私、完全に運搬対象込みで編成されてません?」 「安全配慮です」 「安全配慮義務が痛い」 「グランドゲートは外来者を珍獣扱いしません。希少技能を持つ人材として扱います」 「言い方が絶妙にうれしくないですね……」 「雑に扱わない、という意味です」  それは事実だった。  グランドゲート本部は、外来者を珍しがりはする。だが見世物にはしない。必要な情報は管理し、必要以上には騒がない。そのうえで、使える技能にはきちんと報酬を払う。  少なくとも、梓がここまで生き延びてこれた理由の半分は、その実務的なまともさにあった。 「出発は本日正午です」 「今日!?」 「前金はすでに用意しています」 「額で殴るのやめてください」 「昼まで二時間あります。身支度を整えて、何か食べてください。寝る時間はたぶんありません」 「現実的」  ファリンは机の端へ金貨袋を置いた。重い音がした。現実の音だった。 「本当に五百……」 「はい」 「これを出発前に置いていくんですね」 「依頼主は誠実ですので」 「危険度も理解してるんですよね」 「はい」  扉の前で、ファリンは振り返る。 「マミヤさん」 「何ですか」 「お気をつけて。今回は本当に、あなたが見た方がいい案件です」 「やめてください、その言い方」 「やめません」 「ひどい」 「戻られたら、今度こそ家計相談もしてくださいね」 「生きて帰ってから言ってください」 「ええ。ですので、生きて帰ってきてください」  そう言い残して、ファリンは去っていった。  部屋に静けさが戻る。  だがさっきまでの静けさとはもう違った。机の上には契約書。金貨袋。古代北エルヴィン語の断片。どれも静かで、どれも騒がしい。  梓はしばらく羊皮紙を見つめ、やがて荷鞄を引き寄せた。  まず湯を沸かそう。  それから何か食べる。  筆記具は三本。現場用の墨。保存紙。小さな乾燥剤袋。  そして、体力のない解読士にふさわしくない量の不安。  どうせ落ち着かないなら、早めに出たほうがましだ。  身支度を整え、部屋の戸締まりを確認し、乾式術式の稼働灯を見てから、梓はようやく外へ出た。  グランドゲートの朝は、静かではないが、秩序がないわけでもなかった。  通りの角では、若いオークの行商人が荷車いっぱいの薬草束を並べ、通りすがりの宿屋女将に「今日は乾燥ミントが安いぞ」と声を張っている。力仕事向きの体つきなのに、秤の扱いは妙に繊細だった。  その横を、濃紺の上着に金縁の帳面を抱えたゴブリンの銀行員が、小走りで抜けていく。靴はよく磨かれ、髪はきっちり撫でつけられていて、誰より急いでいるくせに書類の角ひとつ乱れていない。たぶん朝一番の融資審査か差し押さえか、そのどちらかだ。  向かいの軒先では、ハーフリングの夫婦が平焼きパンを並べていた。パンそのものより、添えられた蜂蜜バターの瓶のほうに行列ができているあたり、グランドゲートの冒険者たちは朝から妙に正直である。  さらにその奥では、長毛のコボルドが荷役用の縄を肩で引き、短毛のコボルドがその横で帳票を切っていた。同じ種族でも、毛並みが違うだけで動き方まで違うのが、梓には少し面白い。  誰も、珍しいものを見る目では互いを見ない。  ただ、急いでいるやつと、商売しているやつと、これから外縁へ出るやつの顔をしているだけだ。  その雑多さを抜け、ギルド裏手の集合場へ向かうと、すでに四人の姿があった。  先頭に立つのは、肩幅の広いヒュームの男。年季の入った革鎧に、使い込まれた剣。  その隣で、若いオークの青年が荷の固定具を締め直していた。振り向いた彼は、梓を見るなり目を丸くした。 「……ちっさいな。ハーフリングか?」 「ヒュームです!」  即答だった。  青年は一瞬きょとんとし、それから素直に頭を下げた。 「悪い。ログだ」 「荷役兼護衛。荷物と、人を運ぶ役らしい」 「はい、どうも。運ばれる役です」 「班長に絶対に落とすなって言われてる」 「完全に私じゃないですか」  横から、ずんぐりした体つきのドワーフの女が鼻を鳴らした。 「安心しな。本当に担ぐ羽目になる前に、歩き方くらいは教えてやるよ」 「優しいんだか怖いんだか分からないですね」 「リネアだ。構造見立てと罠見。で、お前は本持ちだな」 「雑なくくりが本当に多い」  最後に、長い耳を持つ老いたアイボリーエルフの男が、細い目をわずかに細めた。古い象牙めいた淡い肌に、灰がかった淡金の髪。乾いた紙を思わせる静かな顔立ちの男だった。 「フェイロンだ。補助と観察をやる。読めるのだろう、マミヤ殿」 「読めます」 「歩けるか」 「歩けます」 「長距離は?」 「嫌いです」 「正直でよろしい」  そこで初めて、ヒュームの男が口を開いた。 「ガレスだ。班長兼前衛。さて、時間だ。列に入れ」  梓は小さく息を吸った。  本を読んで暮らしたかっただけなのに。  そう思いながら、荷鞄の肩紐を握り直す。  ログが、自分の背負子の位置を少しずらしてから言った。 「無理なら言えよ。本当に落とすなって言われてるからな」 「その指示、班内共有なんですか……」 「ギルド内共有だ。高度な安全配慮らしい」 「ギルド、そこだけ妙にちゃんとしてるんですよね……」  ガレスが踵を返した。 「行くぞ」  短い一言で、班の空気が切り替わる。  ログが荷を担ぎ直し、リネアは肩を回し、フェイロンは外縁側の空を一度だけ見た。梓も列の後方へ入り、歩幅を合わせる。  石畳の上で靴底が小さく鳴る。  グランドゲートの門は開いていて、その向こうには、まだ街の延長みたいな朝の光があった。  帰るために読む。  そのために、今日も私は帰りたくない場所へ向かう。  そして梓は、外縁へ向かう班の一歩目を、ようやく自分の足で踏み出した。

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