蒼井瑠水 / 第16話

なぜ、君は……。

「何か変わりましたか?」  病室で二度目に会った彼は全て知った顔をしていた。  なんだよ。何なんだよ、お前。 「その様子じゃ何も変わらなかったみたいですね」  ここまでしたのに、なんで死ぬんだよ。  なんで……。 「センパイ、こっそり屋上行きませんか」 「……うん」  ……いいよ、そんなの。行かなくて。  水色の病院服に身を包んだ彼。  彼は、その服より色の濃い空を見上げていた。 「センパイ、こうしてみるとオレたちちっぽけじゃないですか?」 「……そんなの知らない」  私はただ俯き、無愛想に答えた。 「あれ、あんなに明るくなったセンパイが逆戻りですか? あれ~?」  なぜへらへらしてられるんだよ。  これからお前は死ぬかもしれないんだぞ。 「ま、こんないい天気を見てると気分晴れると思うんですけど、オレだけかな?」  知らないよ。 「もういいでしょ。そろそろ部屋に戻ろう」  彼は白いフェンスに両手で掴まり、よっ、よっと身体を後ろに倒したり起こしたり。  まるで鉄棒遊びのように、彼はひょいとフェンスの上に腰掛けた。  「危ないよ、降りなよ」   「はは、平気っすよ」    仕方ないと私が嘆息し、室内に入ろうと振り返ると、彼も肩を連動させて振り返ってきて。  表情は見ていないけど、笑ってた気がした。 「私、もう戻るね」  そう言い歩き出すと、しばらくして彼の声が聞こえて。 「センパイ、じゃあね〜」  何バカ言ってるの。  軽い切迫感を感じて振り返った。  そして突然、私は彼に向かって走り出した。  彼はフェンスの向こう側に飛び降りていた。いや、空中に浮いていた。  それは、この屋上、五階もある病院の下の土地が顔を下に向ければ見えるわけで。  やめて! こっちに戻って! そこから降りちゃいや! 「じゃ!」  そう軽く手を上げ、振り返りながら空へ倒れ込む彼は、風を孕むように手を広げていた。  刹那に見えた横顔は、潤んだ瞳の、温かい、覚悟を決めた笑顔だった。  私は、一生懸命走る。  屋上床の土臭い匂いが鼻の奥を刺す。オレンジに染まりかけた空に、妙にギラつく太陽。注ぐ熱線が眼球につんざくように感じて、今だけやけに眩しい。  自分の足音だけが聞こえる。息の音が、どこかに消えた。  床が硬い。走るたびに膝から衝撃が突き上げてくる。でも痛みじゃない。  ただ世界が、恐ろしいくらいはっきりしている。  水色の、小さな背中が。  空に向かって、傾いていく。  彼に追いつかないのは知っている。明らかに分かることだ。  でも、まだ諦められない。諦めるわけにはいかないんだ。  だって、まだ彼に『好きだ』と伝えられていない。  もっと速く。足が動かない。でも、止められない。  右手を伸ばす。届かない。伸ばす。届かない。  必死に、届かない距離でも、彼に届くよう手を伸ばした。  でも、だめだった。  私がもつれかかる足で転びそうになる頃には、『高木柊』の世界を壊すような重く乾いた音がして。  病院の下で響くその音が、ただ私に事実を突きつける。  私は、まだそんなんで悟りたくない。  ツギハギでもいいから、まだ世界を保ちたいんだ。  だから、でも。なのに。  ガシャリと、私がフェンスを掴んで下を覗き込む頃には、女性の悲鳴と人だかりができていて。  少し覗いただけで見えてしまった彼の身体には、赤い花が咲いていた。  瞬間的に身体が嗚咽を漏らして反応するけど、綺麗だと思ってしまった。  水色の蝶が赤い優雅な花にとまっているようで、現実離れした美しい光景だった。  あの日、化粧をした彼が人間離れして見えたのは、彼がもう半分、彼岸に足をかけていたからだったのかもしれない。

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