蒼井瑠水 / 第15話

愛ゆえの狂気。

 私は、ひたすら来るなと祈った朝を迎えてしまった。  そして、来てしまった。  学校の、校舎に。  昇降口で上履きに履き替えて、思う。  やるしか、ない。やらなければならない。  でも、なにをすればいいのか。  私は、取り返しのつかない事をやる前のように、心臓が妙に重く、はっきりと脈を打つのが指先からも感じた。  夏の蒸し暑い中なのに、ぞわりと肌寒く、全身に伝わる鼓動が気色悪い。  まるで、これから犯罪を犯して、人生を汚すような、胸の底から恐怖で震える、嫌な感じ。  手のひらが小刻みに震えて、しっかり握ろうとしても上手く動かせない。  呼吸も荒くなって、息が震える。  急に喉の奥がつっかえて、思わず胃液を吐き出しそうになった。  これは、まずい。  ひとまず、身体を落ち着けよう。息をゆっくり吸えて、胸の奥がすっきり晴れるような、そんな場所に逃げなければ。  全身が心臓になったように、どくん、どくんと身体を揺らしながら、もろくておぼつかない足先を、廊下に確かに乗せてゆく。  気持ち悪い、吐きたい、助けて。  そんな中、音が聞こえた。  ひとつひとつが整っていて、いびつな氷を優しく溶かすような、ほんわかと優しい形をした音だ。  これは、楽器の音? 音楽室の渡り廊下を通るたびに聞き慣れた、懐かしくも聴こえる音。  その音に導かれるように、危うい足取りで辿って、次第には壁伝いに歩いた。  そして、まるで助けを乞うような、みっともない姿のケダモノは、見てしまった。    吹奏楽部が練習をしている音楽室が、色々な音色に重なって、暖かな色に光り輝くのを。  不格好な体勢で見つめる私に、変な目を向ける吹奏楽部員もいた。  響き渡る金管楽器の澄んだ音色。丁寧に手入れされた譜面台。それらすべてが、醜く覗く私の瞳には、誰かの命を削って作り上げられた、あまりにもきらびやかで、心地よい熱さえも感じる「幸福の残骸」に見えた。 (この音は、この光は優しすぎる。この幸せ達が存在するだけで、死んでしまうあの子が不幸だと証明してしまう)   誰かに声をかけられた。けれど、返事をするための喉は、もう、言葉を紡ぐ機能を失っていた。代わりに、暗く、冷たい、獣のような衝動が、指先から這い上がってくる。  消さなきゃ、あいつらがあの子を嘲笑っている。  助けなきゃ、あいつらを消せばあの子は幸せになれる。  不幸だと証明できなければ、あそこの幸福が彼の幸せになる。  そうだ、いけ。  そうだ、やれ。   私は、ゆっくりと、しかし確実な足取りで、その「幸福」の真ん中へと踏み出した。  ――まず、この音を殺そう。   私は、近くにあった譜面台を、無造作に、しかし迷いなく薙ぎ倒した。 「きゃー!」 「あんた、なによ!」  倒れる譜面台を蹴飛ばし、近くにいた女の子から、光り輝く金管楽器を奪い取る。  真鍮なのに、奏者の女の子が持っていたからか、少し生暖かい。  でも、そんなのどうでもいい。 「やめて!」  女の子の悲鳴が聞こえる。  やめて、やめて。  私だってやめたいよ。  でも、ここでやめたら、ケイくんが死ぬ。  そんな怖がった目で見るな。  お前らが幸せなのが悪いんだから。  できなくなるだろ。こっちを向くな、やめろ。  やるしか、ないんだから。 「ぁぁああああ!!」  自分でも驚くぐらい、喉が裂けてしまいそうな激しい咆哮が迸った。  表面的でもいい、形からはいるように、私は狂気に胸を昂らせる。  そうだ、狂え。くだらないことは考えるな。  余計なものは、視界にいれるな。  私という、女子高生の形をしただけの獣は、悲鳴のような咆哮と共に重い楽器振り回す。  女の子が軽く持ち上げて構えてるように見えて、意外にも重い。  思うようには打ち振る事はできず、ガシャン、と鈍い音と共に、誰かの「痛い!」という短い悲鳴。  視線を向ければ、女の子が額から血を流してうずくまっていた。  微かに、鉄臭い匂いと、女の子特有の柔軟剤の匂い。  そして、 「あ……」  怪我をさせてしまった、事実。  その事を確認して、心がしんと静まる。  罪悪感がのしかかるはずなのに、それよりも焦燥感がじわじわと溢れ出て、早くしろとせがんでくる。  ……足りない。  まだ能力の前兆すら感じないんだ。  この子の怪我くらいじゃ、あの子の命の重さと釣り合わない。  もっと、もっと重い罪を。  神様が目を背けたくなるような、決定的な「悪」にならなきゃ。  私が地獄に落ちる代わりに、あの子を三途の川から引きずり戻すんだ。  思考は冷え切っていた。目の前の吹奏楽部の生徒たちが、人間ではなく、ただの「天秤の重り」に見えた。 「……ごめんなさい」  謝罪は口をついて出たけれど、足は止まらなかった。  場所なんてどこでもいい。  一番近くの、罪を犯しやすいところだ。  廊下を練り歩く私は、嗚咽も漏らさず、ただ静かに瞳から涙を流していた。  地味に蒸し暑い、薄暗い廊下。  自身の汗が、脂汗のようににじみ出ていて。  制服のワイシャツに、嫌に纏わりつく。  気持ち悪い。涙を流してしまう私も、身体に纏わりつく妙な暑さも。  私は、今どんな顔してるのか。壊れた表情なのか、泣きそうな顔をしてるのか。    感情の壊れた表情筋を伝って、顎下を乱雑に揺れる水滴は、ぽつりぽつりと淋しそうにこぼれる。  私が辿ったあとは、まるで涙でできた悲劇への花道のよう。  ガシャン、ゴシャ。 「な、なんだお前! みんな、作品を守れ!」  手頃な場所に美術室があったから、作業中の部員に近付いた。  彫刻を薙ぎ倒し、掴んで投げる。  作品がちゃんと磨けてないから、ささくれが指に刺さって痛い。  ちゃんと磨けよ、ばかやろう。  投げて、投げてはガラリと壊れて、破壊音に倣うように、私の心もガラリと音をたてる。 (苦しい、なんでこんなに人を陥れているのに……)  思って気付いた。  そうだ、一線を踏み越えてないんだ。  ふと視界に黄色いカッターが横切る。  これしかない。  そう手を伸ばして、私の一歩を後押しするように、ケイくんの笑顔がちらついた。  でも守りたいあの笑顔が、なぜか今は、邪魔だ。  どけ、消えろ。  手にしたカッターの刃を押し出す。つるつるととしたプラスチックの表面が、手汗で少し滑る。  落としては、ならない。これは、彼の人生を変えてくれる伝説の武器。光り輝く、一筋の刃。  強く握って、しっかり掴む。  出っ張りのスライダーに指をかけて、押し出しに重さを感じた。  人の人生、人の幸福、人の尊厳、人の……命。  どれも重くて、それが指の動きを、一瞬止める。  でも、殺るんだ。重くても、絶対、動かせ。    そして、カチ、カチリ、という乾いた音が鳴ってくれて。  私の人生の終わる音に聞こえた。  誰でもいい。誰かを傷つけて、私が「加害者」になれば。  その代償として、奇跡は起きるはずだ。  私だけが、悪魔になればいい。 「い、いや、たすけて」  ふらり、ふらりとにじり寄る私に、女子生徒は壁際に追い詰められて咄嗟に顔を隠す。  ひっ、ひっと、息がきれる音がする。  女の子の唇が震えて、呼吸も震えて。  彼女から移るように、私の喉元からも聴こえた気がしたけど、それは、知らない。  私の口周りがわなないて、歯がカチカチと鳴ってるのもきっと、気の所為。  そんなことより、さっさと、殺せ。 (逃げて……!)    心で叫びちらかすもう一人の私を押し殺し、身体は殺意の形を模倣していく。  震える手を、確かに支えて。反論する私を抑え込むように。 「だ、誰かあそこにいるマツリカちゃんを助けて!!」  誰かが、こちらを指差して叫ぶ。 (へえ、マツリカちゃんっていうんだ、今から殺すこの子が)  マツリカ。その花の花言葉は、幸福。愛らしさ。  ふーん、愛されてるんだ。じゃあ生贄にするにはちょうどいいね。  そういえばこの子の顔、渡り廊下で見たことある。  同級生と笑いながら歩く、幸せそうな可愛らしい顔立ちの女の子。  いつもそのあどけない笑顔が、憎たらしくて、目障りだった。  ちょうどいい。君のこと、思い出した。  そこらにいる奴らより、一際苛ついていたんだ。  よかったね、彼の命に、君はなれるんだよ? とっても、幸せだ。  あなたが死ねば、世界の等価交換で彼が助かる。あなたには夢も家族もあるだろうけど、私の世界には彼しかいない。  ごめんね。そして、ありがとう。  私の前に現れてくれて。    だから、死んで。   というか、死ね。  私という悪魔は彼の命のために、獲物を見つけて喜んでいる。  もう一人の『高木柊』はまるでみっともなく泣き喚く幼子のように、殺したくない、そんな事したくないとほざいていて。  目の前の女の子は無様に泣き喚いている。  私の手も無様に泣き震えている。  あと一歩踏み込むだけなのに、身体が凍りついたように動かせない。    やめて、私の前で泣かないで。  まだ人間をやめられなくなる。そんな顔みたら弱くなってしまう。  もう一人の私が、表に出てしまう。    あの子のために強くなれない。  あの子が生きるなら、私は人殺しでいいんだから。  もういいんだ、『高木柊』の人生はもういらない。  ケイくんの笑顔がこれからも見れれば、もうどうなったっていい。  これまでの腐った人生もチャラだ。  やれ、いけ。  やめて、そんなこと。  うるさい、だまれ。  いやだ! 誰も……。  よし、殺れ! そのまま……!   さあ、手を振り上げ…… 「やめなさい!」  すんでのところで、教師の叫び声が耳に入った。  ビクッと肩が跳ねて、極限まで張り詰めていた糸が切れる。  カラン。  手に持ったカッターが、あっけなく床に落ちた。  しまった。落としてしまった。  いや、手を放せたのか。  違う。なにもかも、違う。    頭をかき乱す目まぐるしい感情の刹那、ホッとしている自分がいた。最低な自分に、安堵している馬鹿がいた。 「何してるんだ、人を殺す気か!」  先生が私を取り押さえる。床の冷たさが頬に触れる。  そうじゃない。そうだけど、違う。私は、ただあの子を助けたくて。 「とりあえずこの事は、保護者に連絡するからな! 職員室に来なさい」  無抵抗になった私を、強引に職員室に連れて行った教師は、しばらく私を叱って、母を学校に呼んだ。 「柊さんの今回の問題はうちで処理します。今日の事は精神状態もありますので、しばらく停学というのは……」 「すみません、うちの娘が……」  何も変わらなかった。  ただ、大好きな母を困らせただけだった。  残ったのは両親の失望と学校の停学処分。  私は、このぽっかりと胸に空いた穴を埋める方法が分からず、気付けばいつの間にか嗚咽を漏らし、頬を濡らしていた。  その夜だった。    家に帰って、シャワーを浴びようとして洗面台の前に立ったとき、気づいた。    右手の親指の爪の、ごく浅い隙間に。茶色く固まった何かがあった。    乾いた血だ。    吹奏楽部の、あの女の子の。    蛇口をひねって、お湯を出す。    爪の先を、ゆっくりと流した。    血は溶けて、渦を描いて、排水口に消えていく。  それだけだった。    頭痛は来なかった。    いつも能力が動くとき、頭の奥からじわじわと広がる、あの重くて鋭い予感が来なかった。    完全な、静寂だった。    鏡の中の自分を見た。腫れた目、乱れた髪、シャツの袖に薄くにじんだ泥の跡。    ただ私がそこにいるだけで、何も変わっていない。  何も、変わっていない。    等価交換は、成立しなかった。    私は蛇口を止めた。   お湯が止まって、洗面台が静かになる。  自分の呼吸の音だけが聞こえる。    涙が出ると思っていたのに、出なかった。泣き叫ぶかと思ったのに、何も来なかった。    ただ、鏡の中の自分が、知らない顔をしていた。    私は誰かを傷つけた。    それでも、ケイくんの未来は何も変わっていない。  つまり私の理論は、最初から間違っていたのかもしれない。    それとも、まだ代償が足りないのか。  あと何人傷つければ、釣り合うのか。   (あと何人……)    その言葉が頭の中で転がった瞬間、腹の底から何かが冷えた。    恐ろしい、と思った。考えている自分が。それでも止まれない自分が。    洗面台の縁をゆっくりと掴んで、私はその冷たい感触だけを頼りに立っていた。  私は間違っていたのか。つばきちゃんを助けたあれは、なにかの間違いなのか?  それとも、ケイくん、君はなにか秘密を持っているのか?  まるで呪いが反発でもしてるかのように、彼に関わる未来はほとんど見れないし、能力の副作用もない。  いつもなら、誰かに手を伸ばした瞬間に呪いが動く。    あの子供の頃の、頭をつんざく激痛と引き換えに、誰かの未来が流れ込んでくる、あの感覚。  でも今夜は、なにも来なかった。  なにもなかったんだ。それどころか。 (……なにか弾かれた、あの感じ)  まるで水面に手を伸ばした瞬間、見えない何かに押し返されたような。  触れたと思ったら、それは鏡に映った反射で。残念、間違えちゃったね、と小賢しい生意気な子供に騙されてるような。  私の呪いに、似たような魔法がぶつかってきて、時に惑わしてる、変な感覚。  今までなかった、初めての感触だ。  分からないその魔法。呪いとは、雰囲気が違う。よく分からない、温かく光るものだ。  一体、なんだというんだ。    君は、何者なんだ。    ケイくん。  いつもの、小生意気な微笑み。    あの笑顔が、あの声が、脳裏をよぎる。  あの子が震わせた指先が。    私には教えてくれなかった、あの小さな震えが。    ケイくん、なんで私に何も言ってくれなかったんだよ。    だから私は、こんなになってしまった。    あなたが教えてくれれば、一緒に考えられたのに。    怒りなのか悲しみなのか分からない感情が胸の奥でくすぶって、それでも涙にはならなかった。  ただ、静かに燃えていた。    彼の運命を変えられなかった。

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