神成仁 / 第3話

01

ラジオから軽快な男性の声とジングル。 このカフェにはテレビはない。 「どうぞ、マダム」 初老の、黒エプロンの男性が私のテーブルに小さなクロワッサンを置いた。 朝には必ずといっていいほどクロワッサンを食べる私にとって、 焼きたてで何層にも重なるサクサクの生地は自由と生きる喜びを感じさせてくれる。 今日だって二日酔いの翌日には珍しくなんとか早朝カフェへ這い出てきて、目覚めのパンとコーヒーで最高の朝を──そう思って注文したのだ。 ただ、今朝は予想以上にコンディションが悪かった。 どうにも食が進まず、なかなかパンには手が伸びない。 セットのブラックコーヒーをちびちび飲むのがやっとだ。 クロワッサンが自由と喜びなら、コーヒーは現実と理性だ。 ──現実は嫌い。 「ご注文はお揃いかな?」 マスターが私のテーブルをちらりと見て、片目でウィンクする。 「ええ、どうも。」 その瞬間、目の前に気まずくなるものを見つけてしまい、私は思わず顔を少し伏せた。彼が自分の前にいるその男に気づいたら厄介だ、と少し焦りながらも、私は軽く笑顔を返した。 マスターは「ごゆっくり」と呟いて厨房へ。 ほっとしたついでに観念してもう一度クロワッサンを手に取る。 だが目線の先、安っぽいワイシャツ越しに広げられた新聞がどうしても目に入ってしまう。 なんとも居心地が悪いのはカラーで大きく見出しをつけた記事を見つけてしまったからだ。 ――「タンジー・ウィンターにロイヤルな一撃」。 なんでよりにもよって、"あんな記事"が……。 紙面の中心で、クラッチバッグで盛大に振りかぶる私と、その"強烈なヒット"を食らってよろめくブロンド令嬢。まるで絵画のワンシーンみたいな完璧な一枚の絵だ。 ただ、絵面はともかくその写真に映る私はかなりイケてた。 ふとそう思ったのは、ヴェルサーチのブラックドレスにゴールドのエナメルヒールで完璧に決めた自分がそこにいたから。どこから見ても最高にゴージャス。 そして、ヴァレンティノのゴールドのクラッチ。 お気に入りだったのに昨晩は一瞬で"凶器"に変わった。これで相手にカウンターを食らわせた衝撃で、鞄の角のラメは哀れにも剥げ落ち、彼女の顔に星屑のように散り金色に瞬いた。 その痛快な一撃でのけぞった彼女をセキュリティが慌てて支えようするも真っ赤なレッドカーペットに彼女は倒れ込み、大好きな熱視線を欲しいままにしたのだ。 さすがはお騒がせ令嬢タンジー、 噂どおりの目立ちたがりで、彼女みたいな視線の亡者には最高の舞台だ。 一撃を受けた鼻というと、 ほんの"ちょっとだけ"というか、そうちょっとぶつかっただけって感じだけど…でのまぁ、やりすぎだったかもと思うくらいにはかなり赤く腫れていた。 自分の鼻血にパニックになりながらも私に飛び掛かろうとする相手に参列者やスタッフが制止する間もなく、どこからか黒ずくめの二人が彼女を抱え後方へ。あまりにも一瞬。あの一面は、まさに奇跡の一枚。 誰が撮ったのか知らないけど、これはもうピューリッツァー賞ものだ。 私はこめかみを押さえながらも昨夜の出来事を思い出そうとカップのティースプーンをクルクルとかき回した。 (つづく)

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