芦名 雅 / 第9話

八日目

朝、目を覚ますと、嫌な予感がした。 理由は分からない。 ただ、この部屋の扉を開けてはいけないような気がした。 しばらくベッドの上で動くことができなかった。 やがて覚悟を決め、扉の前に置いていた机を動かした。 鍵を外し、ゆっくりと扉を開ける。 廊下は血で染まっていた。 昨日まで以上だった。 床だけではない。 壁も。 天井も。 赤黒い血で覆われている。 私は言葉を失った。 部屋を出て山荘の中を歩いた。 昨日まで血に染まっていた部屋は、そのままだった。 暖炉のある広間も変わらない。 いや、山荘全体が昨日と変わらないと言うべきなのだろう。 昨日の時点で、この山荘はすでに正常ではなかった。 どこへ行っても血。 誰もいない。 死体もない。 それでも、ここでは確かに何かが起きている。 私は暖炉の前へ戻った。 炎だけは今日も静かに燃えていた。 血で染まった広間の中で、その炎だけが何事もなかったかのように揺れている。 その光景が、かえって恐ろしかった。 私は炎を見つめながら考えた。 この山荘に残るか。 それとも吹雪の中へ出るか。 どちらを選んでも死ぬかもしれない。 それでも、この山荘にはもういたくなかった。 私は荷物をまとめ始めた。 残っていた食料。 水。 防寒具。 そして、このノート。 このノートを持っていくべきかは迷った。 もし私がこの吹雪の中で死ねば、誰も私がここにいたことに気づかないかもしれない。 この山荘へノートだけでも残しておけば、いつか誰かが見つけてくれるかもしれない。 私に何が起きたのか。 この山荘で何が起きたのか。 それだけは伝わるかもしれない。 だが、なぜだかこのノートだけは持ち出さなければならない。 そんな思いだけが強く心に残っていた。 理由は今でも分からない。 ただ、あの時の私は、その考えに逆らうことができなかった。 私はノートを荷物へしまった。 玄関の前に立つ。 扉を開けると、目の前には白い世界しかなかった。 空と雪の境界も分からない。 どこまでが地面で、どこからが空なのかさえ分からないほどの吹雪だった。 一度だけ山荘を振り返る。 窓の向こうでは暖炉の火が揺れていた。 あれが私にとって最後に見た山荘の姿だった。 もう二度と戻ることはない。 そんな予感だけが、不思議とはっきり胸に残っている。 私は山荘をあとにした。 風は想像していた以上に強かった。 一歩進むだけで身体が押し戻される。 雪は容赦なく顔へ叩きつけられた。 どちらへ向かえばいいのか分からない。 それでも歩き続けた。 何度も転んだ。 そのたびに立ち上がった。 歩き続けるしかなかった。 どれくらい歩いただろうか。 時間の感覚は失われていた。 足の感覚も、手の感覚も少しずつ消えていく。 意識もぼんやりとしてきた。 そのときだった。 山が鳴った。 地面が震えた。 低く重い音が山の上から近づいてくる。 振り返る。 白い壁だった。 巨大な雪の塊が、山を埋め尽くすように私へ迫っていた。 逃げようとした。 だが、間に合わなかった。 私は思わずノートを胸へ抱き寄せた。 次の瞬間、世界は真っ白になった。 私が覚えているのは、ここまでだ。

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