芦名 雅 / 第14話

第13章 ただ人数が減っていく

※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。 特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません 残ったのは五人だった。 灯子は五人の名前を頭の中で繰り返した。声に出すと何かが起きそうで、唇だけを動かした。 灯子。千鶴。澄江。夏子。律子。 十三人の名前を一息で言えたころがあった。いま最初から言おうとすると、途中で順番が分からなくなる。かなの次は誰だったか。美代と富美、どちらが先に座っていたか。 忘れたわけではない。忘れていないはずなのに、疲労と恐怖が記憶の棚を勝手に入れ替えていた。 澄江のノートがあることだけが、灯子には少し怖い安心だった。自分の頭が壊れても、紙の上には名前がある。 灯子。 千鶴。 澄江。 夏子。 律子。 朝から砲撃は遠かった。 空は薄い雲を浮かべた青で、木漏れ日が地面へ丸い模様を落としていた。昨日までなら美しいと思ったはずだった。灯子は、その静けさを信用できなかった。砲声がしない時間ほど、次の一発を待って身体が固くなった。 鳥の声が聞こえた。 律子が靴を脱いだ。 踵の皮が剥けて血が出ていた。 「ちょっと待って」 みんなが止まった。 律子は布を巻いた。 「痛い?」 夏子が聞いた。 「痛い」 「歩ける?」 「歩く」 律子は結び目を締めた。 そのとき、森の向こうから一発だけ飛んできた。 誰を狙ったものか分からない。 近くで爆発した。 灯子は倒れた。 口の中に土が入った。 舌の上で砂がじゃり、と鳴った。耳は塞がったように遠く、視界の端だけが白く明滅した。灯子は自分の身体がどこまで無事なのかを、手、腕、脚の順に確かめた。そうしてから律子を探した。その順番を、あとで何度も憎んだ。 顔を上げた。 律子がいなかった。 数歩先に倒れていた。 「律子」 返事はなかった。 千鶴が近づいた。 すぐに首を振った。 律子は、靴を履き直そうとして死んだ。 誰かを庇ったわけでもない。 残ると決めたわけでもない。 正しいことを選んだわけでもない。 ただ砲弾がそこへ落ちた。 律子が巻きかけていた布は、片方だけ地面に残っていた。ほんの少し前まで「痛い」と言っていた声と、その布切れがどうしても同じ世界のものに思えなかった。灯子は拾おうとしたが、夏子に腕を引かれた。次の砲弾が来るかもしれなかった。 四人は歩いた。 誰も律子の死について話さなかった。 話さなかったというより、話を始める場所がなかった。さっき「痛い」と言った。布を巻いた。砲弾が落ちた。死んだ。それ以上でも以下でもなかった。 夏子が一度だけ後ろを振り返った。 「布、置いてきた」 律子が足へ巻こうとしていた布のことだった。 灯子は返事をしなかった。取りに戻る理由も、戻らない理由も、どちらも同じくらい空しかった。 昼過ぎ、開けた斜面を一人ずつ渡った。 千鶴が先に行った。 無事に向こう側へ着いた。 灯子も渡った。 澄江も渡った。 夏子が最後に来た。 その途中で砲撃が始まった。 「走って!」 灯子が叫んだ。 夏子が走った。 一発が斜面の下へ落ちた。 二発目。 千鶴が灯子を地面へ引いた。 土煙で何も見えなくなった。 音が止まった。 灯子は立った。 「夏子?」 夏子は少し離れたところに伏せていた。 動いた。 生きていた。 「千鶴?」 返事がない。 千鶴は灯子のすぐ横にいた。 さっきまで灯子の肩を掴んでいた手が、もう動かなかった。 破片が胸に入っていた。 灯子は理解できなかった。 夏子の方が砲撃の中を走っていた。 千鶴は伏せていた。 それでも千鶴が死んだ。 灯子の肩には、千鶴に引き倒されたときの指の痛みがまだ残っていた。身体には確かに触れられた感覚があるのに、その手の持ち主だけがもう返事をしない。因果が途中で切れたようだった。助けた方が死に、助けられた自分が生きている。そこに意味を探すほど、頭の中が壊れそうになった。 「なんで」 誰も答えられなかった。 千鶴は何も言わなかった。 言う時間がなかった。 三人になった。 夕方、澄江が咳き込んだ。 ノートを胸に入れて歩いていた。 「持つよ」 灯子が言った。 澄江は頷いてノートを渡した。 それだけだった。 しばらくして銃声が聞こえた。 三人は走った。 どこから撃たれているのか分からない。 木の陰へ入った。 灯子は夏子を見た。 夏子はいた。 「澄江?」 自分の声が森の中へ吸い込まれた。少し前まで背後にあった足音がないことに、灯子はそのとき初めて気づいた。いつから聞こえなくなっていたのか分からない。友達一人分の音が消えていたことすら、逃げる間は気づけなかった。 いなかった。 戻ると、数十歩後ろに倒れていた。 灯子が名前を呼んだ。 澄江はもう動かなかった。 銃弾だったのか、破片だったのか、分からなかった。 ノートは少し前に灯子へ渡していた。 だから残った。 託すつもりだったのかもしれない。 ただ重かったから渡しただけかもしれない。 もう聞けなかった。 二人になった。 夕方、灯子と夏子は尾根へ出た。 海が見えた。 空が赤かった。 夏子が言った。 「ねえ、灯子」 「何?」 「私さ――」 爆発音がした。 灯子は地面へ伏せた。 顔を上げた。 夏子が倒れていた。 「夏子」 返事がない。 灯子は這って行った。 「夏子」 何度呼んでも返事がない。 夏子が何を言おうとしていたのか分からなかった。 アイスのことだったのか。 家族のことだったのか。 何でもない冗談だったのか。 最後まで分からなかった。 灯子は一人になった。 反射的に「千鶴」と呼びそうになった。危ないとき、迷ったとき、灯子はずっと千鶴の名前を先に呼んでいた。その習慣だけが身体に残っていた。 声に出す直前で、もう返事がないことを思い出した。 灯子は口を閉じた。 しばらくすると、背後で足音がした気がした。振り返る。誰もいない。木の葉から落ちた水滴だった。 また歩く。今度は夏子が息を切らす音が聞こえた気がした。 いない。 怖かったのは幽霊ではなかった。自分の頭が、まだ友達のいる世界の音を作り続けていることだった。 一人、という言葉は人数を表すだけのはずなのに、身体の周囲から空気までなくなったように感じた。返事を期待して名前を呼ぶ相手がいない。歩幅を合わせる足音もない。怖いと言えば聞いてくれる人さえいない。灯子は初めて、自分の呼吸の音がうるさいと思った。 一日のうちに四人いなくなった。 あとから思い返しても、そこに整った別れは一つもなかった。 言いかけた言葉も、帰ったらするはずだったことも、砲声の向こうへ途中のまま消えた。 朝には五人いた。昼には三人になり、夕方には二人になり、やがて灯子だけになった。数字だけが簡単になっていった。

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