芦名 雅 / 第8話

第7章 撤退

※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。 特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません 病院は夜のうちに移動することになった。 日が落ちると、山の輪郭だけが黒く残った。月は雲に隠れ、道は自分の足元さえ見失うほど暗い。遠くで燃える町の赤い光だけが、ときどき木の幹を照らした。少女たちは声を潜め、互いの制服の裾や担架の端を頼りに進んだ。 患者全員は連れていけない。 歩ける者。 担架で運べる者。 残される者。 軍医が短い言葉で分けていった。 シズは軍医の後ろを歩き、患者の札を一枚ずつ確かめていた。歩ける者に肩を貸し、残される者の枕元には水を置いた。手つきだけはいつもと同じだった。 灯子は聞いた。 「シズさんは?」 「私はあとから」 「一緒じゃないんですか」 「仕事が残ってる」 それ以上は答えなかった。 本当にあとから来たのか、灯子は知らない。新しい壕でシズを見かけることはなかった。死んだという知らせもなかった。生き延びたという知らせもなかった。 戦場では、別れた人間の結末まで知る権利が与えられないことがあった。 灯子たちは残される患者へ水を置いた。 包帯を置いた。 それで何かが救われるわけではないことは分かっていた。 壕を出る直前、暗闇の奥から声がした。 「待ってくれ」 「まだ生きてる」 「置いていかないでくれ」 灯子は振り返った。 誰の声か分からない。 戻れば連れていけるのかも分からない。 「行け!」 別の兵士が怒鳴った。 「早く行け!」 助けてほしい声と、逃げろという声が同じ暗闇から聞こえた。 少女たちは泣きながら外へ出た。 灯子は耳を塞ぎたかったが、担架を持つ両手を離せなかった。歩くほど声は遠くなった。遠くなることが救いであるはずなのに、聞こえなくなった瞬間、胸の中へもっと大きな声が残った。「まだ生きてる」。その言葉だけが、足音に合わせて何度も繰り返された。 夜道を進んだ。 灯子は千鶴と担架を持った。 美代は少し後ろを歩いていた。 富美はその隣にいた。 良子もいた。 文も節子もいた。 少なくとも、最初はいた。 富美が担架の持ち手を節子と交代しようとして、「私の方が力あるから」と言った。節子は「それ毎回言う」と小声で文句を言った。 良子は美代の背中に土がついているのを見つけて払い、美代は「今それ気にする?」と笑った。文は誰かが落とした布袋を拾って、自分の荷物へ括りつけた。中身を確認する余裕もなかった。 何でもないやり取りだった。 それが、五人について灯子が最後にはっきり覚えている会話になった。 谷へ入ったところで照明弾が上がった。 空が真っ白になった。 「伏せろ!」 砲撃が始まった。 誰がどこへ伏せたのか分からなくなった。 土。 石。 悲鳴。 担架。 暗闇。 また白い光。 灯子は千鶴の袖を掴んでいた。 握った布だけを離さなかった。 どれくらい続いたのか分からない。 静かになったとき、列はばらばらだった。 「進め!」 兵士が叫んだ。 誰かが人数を数えた。 合わなかった。 もう一度数えた。 「美代は?」 返事がない。 「さっきいたよ」 「どこに?」 「分かんない」 「富美は?」 「良子は?」 名前を呼んだ。 返事なのか、離れた場所の別人の声なのか分からない音が返った。 文がいない。 節子もいない。 五人がいなかった。 谷には砲煙が溜まり、数歩先の木さえ輪郭がぼやけていた。灯子は目を凝らした。誰かが立っているように見え、名前を呼ぶ。煙が流れるとただの折れた枝だった。次は岩が人影に見えた。見たいものが、何でも友達の姿になった。 死体を見た者はいなかった。 血痕も見つけられなかった。 戻って探す時間もなかった。 昌子は何度も後ろを見た。 灯子も見た。 暗い谷しかなかった。 「先生」 「行くの」 昌子の声は掠れていた。 「でも、いるかもしれない」 「分かってる」 「生きてるかもしれない」 「分かってる」 それでも歩いた。 五人を見捨てると決めたわけではなかった。 決める時間そのものがなかった。 翌朝、新しい壕で人数を数えた。 七人しかいなかった。 初江は谷を走ったときに足首をひねっていた。歩けはしたが、片足をかばっていた。 澄江はノートを開き、五人の名前の横へ『撤退時行方不明』とだけ書いた。 美代。 富美。 良子。 文。 節子。 五つの名前が、行方不明になった。 その夜のどこで死んだのか。 誰が最後まで生きていたのか。 互いに一緒だったのか。 誰にも分からなかった。

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