芦名 雅 / 第12話

第11章 聞き取れなかった

※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。 特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません 夜明け前に出た。空はまだ青黒く、木の葉の縁だけがわずかに白んでいた。森には夜の湿気が残り、足元の草が制服の裾を濡らした。鳥が一羽だけ鳴いた。日常なら朝の始まりを知らせる声なのに、灯子には「まだ生きているものがいる」という事実そのものが不思議に聞こえた。 昌子が先頭。 澄江が簡単な地図を持った。 朝子を千鶴と灯子が支えた。 律子、夏子、初江が後ろを歩いた。 白いリボンは全員ポケットへ入れた。 出発前、昌子はまた人数を数えた。 一、二、三、四、五、六、七。 それから自分を含めるように小さく「八」と呟いた。 灯子は初めて先生の靴を見た。踵が擦り切れ、足首には赤い血が滲んでいた。先生も同じ道を歩いていたのだと、当たり前のことにそのとき気づいた。 「痛くないの?」 「痛いわよ」 昌子はあっさり答えた。 「先生も痛いって言うんだ」 夏子が言う。 「先生を何だと思ってるの」 一瞬だけ、学校にいたころと同じ口調だった。 その短いやり取りを、灯子はあとで何度も思い出した。最期の言葉ではなく、ただ足が痛いと言った先生の声として。 開けた道を避けた。 木陰を選んだ。 音を立てないように歩いた。 少女たちはできることを全部やった。 昼前、沢を見つけた。 細い水だった。 昌子が上流を見た。 安全とは言えなかった。 それでも飲んだ。 夏子が手ですくった水を飲んだ。 「冷たい」 千鶴が笑った。 朝子も少し飲んだ。 数歩だけ自分で歩いた。 「歩ける」 朝子が自分の足で立った瞬間、灯子の胸の奥に小さな熱が戻った。助かる、という言葉を思うのが怖くて口にはしなかった。それでも千鶴の顔が少し緩み、夏子が水滴を指で弾いた。希望は、認めた途端に壊されそうなほど小さかった。 その声に、みんなが少しだけ笑った。 灯子も笑った。 それは希望と呼べるほど大きなものではなかった。 ただ、その瞬間だけ死なずに済んでいた。 昼過ぎ、森を抜ける前に航空機の音がした。 「伏せて!」 昌子が叫んだ。 全員が地面へ伏せた。 一発目は遠かった。 二発目も遠かった。 三発目が近かった。 木の枝が折れた。 土が跳ねた。 灯子は頭を抱えた。 音が遠ざかった。 「先生?」 誰かが言った。 昌子は伏せたまま動かなかった。 「先生」 灯子が肩に触れた。 返事がない。 背中に小さな破片が入っていた。 傷は外から見れば大きくなかった。 制服の布に滲む色も、最初はほんの掌ほどだった。だから灯子は「大丈夫かもしれない」と思った。壕で見てきたもっと酷い傷より、ずっと軽く見えた。その比較そのものが、いつの間にか自分の中へ染みついていることに気づかなかった。 千鶴が圧迫した。 初江が布を出した。 律子が呼び続けた。 昌子は一度だけ目を開けた。 何か言おうとしたように見えた。 声は出なかった。 「先生、何?」 灯子が顔を近づけた。 昌子の唇が動いた。 聞き取れなかった。 もう一度動くことはなかった。 それが最後だった。 灯子は聞き取れなかった自分を責めた。もっと近くへ顔を寄せればよかったのか。呼びかけず黙っていれば声が聞こえたのか。そんな考えが次々浮かんだ。けれどどれも、昌子の胸をもう一度動かすことにはつながらなかった。 何を言おうとしたのか、誰にも分からなかった。 『生きなさい』だったのかもしれない。 誰かの名前だったのかもしれない。 ただ痛かっただけかもしれない。 意味を決めることはできなかった。 少女たちは止血を続けた。 知っている処置を全部した。 それでも昌子は死んだ。 「先生」 灯子が呼んだ。 返事はなかった。 何度呼んでも同じだった。 少し前まで先頭を歩いていた。 沢を見つけていた。 朝子に水を飲ませていた。 それだけで終わった。 墓を掘る時間はなかった。 七人は昌子を木の根元へ残した。 誰も別れの言葉を言えなかった。 言えば本当に置いていくことになる気がした。 だから何も言わずに歩いた。 数十歩進んでから、灯子は振り返った。木々の間に白い服の一部が見えた気がした。次の一歩を踏み出すと見えなくなった。戻ればまだ先生がそこにいる。進めば、先生のいない世界が始まる。足だけが先に進み、心がその場へ残った。

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