芦名 雅 / 第4話

第4話 不器用な人

数週間が経つ頃には、公爵邸の人々がクロエを見る目も変わっていた。 最初は「婚約破棄された元聖女候補」だった。 次に「閣下が拾ってきた令嬢」になった。 そして今では、「財務室へ行けばだいたいいる人」である。 「クロエ様、北倉庫の棚卸し表です」 「ありがとうございます。そこへ置いてください」 「南部街道の補修費も」 「そちらは先に見ます」 昼食時になると、侍女が迎えに来る。 夕食時にも迎えに来る。 放っておくと夜まで仕事をすることが、すっかり知られてしまった。 変わったのは、ジークハルトというより、クロエの彼を見る目の方だった。 氷の公爵は、確かに口数が少ない。 顔も怖い。 部下の報告に「そうか」「分かった」「却下だ」の三語で済ませることも珍しくない。 しかし、決して人を雑には扱わなかった。 負傷した兵の家族には密かに補償金を増額している。 凶作の村には、税を免除しただけでなく翌年用の種籾まで配っていた。 使用人の名も驚くほど覚えている。 ある朝、厨房の少年が熱を出したと聞いたときなど、会議の途中で「医師は診たか」と確認した。 本人はそれを特別なことだと思っていない。 だからこそ、周囲は彼を信頼しているのだ。 クロエがそれに気づくたび、社交界で聞いていた「氷の公爵」という呼び名が少しずつ実像から離れていった。確かに冷たい。だが、その冷たさは人に関心がないからではなく、余計な言葉で飾らないだけなのだ。 誰かを助けても恩に着せず、褒められても否定する。気遣いを指摘されれば合理性の話にすり替える。 ――本当に、不器用な方。 そう評する自分の声が、以前よりずっと柔らかくなっていることに、クロエ自身はまだ気づいていなかった。 ある夜。 クロエは財務室で一人、書類を整理していた。 窓の外はすでに真っ暗だった。 「……ここを直せば、来年の冬季備蓄費が三パーセント……」 扉が開く。 「まだいたのか」 「閣下」 ジークハルトだった。 両手には、なぜか茶器が乗った盆がある。 クロエは思わず立ち上がった。 「……閣下が、こんなことを?」 「使用人は休ませた」 「だからといって、公爵閣下自らお茶を?」 「廊下に置いてあった」 「明らかに二人分ございますが」 「……細かいことを気にするな」 クロエは笑いを堪えた。 ジークハルトが置いた茶から、柔らかな花の香りが立つ。 最近クロエが好んでいる、北方産の香草茶だった。 「これ、わたくしが好きなものですね」 「そうなのか」 「知らなかったのですか?」 「偶然だ」 明らかに嘘だった。 クロエはカップを両手で包む。 温かい。 「ありがとうございます」 「礼を言われるようなことはしていない」 いつもの返事だった。 それでも、ジークハルトは向かいの椅子に座った。 「仕事は」 「あと少しです」 「その言葉は信用できないとオズワルドから聞いた」 「家令殿は余計なことを」 「今日は終われ」 「ですが」 「明日できることを、今日倒れるまでやる必要はない」 クロエは口を閉じた。 それは、自分が一度も教わったことのない考え方だった。 伯爵家では、できるならやれと言われた。 できなくても、努力が足りないと言われた。 疲れたと言えば、聖女は弱音を吐かないと言われた。 「……閣下は、存外お優しい方なのですね」 「違う」 即答だった。 「では、合理的だから?」 「そうだ」 「倒れられると仕事が止まるから?」 「そうだ」 「わたくしが疲れているのを見て、お茶を持ってきたのも?」 「……そうだ」 「何が合理的なのです?」 ジークハルトが黙った。 クロエはとうとう笑ってしまった。 声を上げて笑うほどではない。 それでも、肩が小さく揺れた。 「何がおかしい」 「申し訳ありません。ただ、閣下は嘘がお下手なのだと思いまして」 「お前は、よく喋るようになったな」 「そうでしょうか」 「最初に見た頃とは別人だ」 その言葉に、クロエの笑みが少しだけ静かになる。 「はい」 窓の外へ目を向けた。 「もう、演じる必要がありませんから」 「……そうか」 ジークハルトの声は低かった。 「王宮では、いつも何を言えば正解なのか考えていました。聖女ならどう微笑むか。王太子妃なら何と答えるか。伯爵令嬢ならどう振る舞うか」 クロエはカップの水面を見る。 「自分がどうしたいのかは、あまり考えたことがありませんでした」 「今は?」 「今は……」 少し考える。 「帳簿をもっと見たいです」 ジークハルトが一瞬、呆れた顔をした。 「それだけか」 「あと、街を歩いてみたいです。市場も見たいですし、北部の鉱山にも行ってみたいです。それから」 「まだあるのか」 「ございます」 クロエは笑った。 「自分が何を好きなのか、たくさん見つけてみたいです」 ジークハルトはしばらく黙っていた。 やがて、ほんのわずかに口元を緩める。 「そうしろ」 その言葉は、命令ではなく許可でもなかった。クロエには「自分で決めていい」と言われたように聞こえた。 「はい」 その滅多に見せない微笑みを目にした瞬間、クロエの胸が不意に跳ねた。 理由が分からず、慌てて茶を飲む。 少し熱かった。 「……熱いです」 「急に飲むからだ」 「閣下が笑うからです」 「俺のせいにするな」 「では、もう一度笑ってください」 「断る」 即答され、クロエはまた笑った。 その夜から、公爵邸の夜は少しだけ、温度を持つようになった。 数日後、午後の予定が珍しく空いた。クロエが市場へ行ってみたいと口にすると、なぜかジークハルト本人が同行した。 「お忙しいのでは?」 「街の商況を見るのも仕事だ」 「では、わたくしがパン屋へ寄るのも?」 「消費動向の確認だ」 あまりにも真顔なので、クロエは吹き出した。 市場では、王都の高級菓子とは違う、蜂蜜を練り込んだ素朴な焼き菓子を買った。値札を見て、誰にも相談せず、自分の給金から代金を払う。たったそれだけのことなのに、胸がくすぐったいほど嬉しかった。 一口食べて思わず笑うと、隣にいたジークハルトがじっと見ていた。 そのとき、通りの向こうから小さな男の子が母親の手を引いて駆けてきた。「倉庫を作ってくれたクロエ様だ」と弾んだ声で言う。母親は慌てて頭を下げ、冬の配給が以前より分かりやすくなったと礼を述べた。 クロエは一瞬、返事を忘れた。「聖女様」ではなかった。奇跡を期待する声でもなかった。自分がした仕事を見て、名前を呼ばれた。そのことが、手の中の焼き菓子よりずっと温かく感じられた。 親子が去ってもまだこちらを見ているジークハルトに、クロエは首を傾げた。 「何でしょう」 「いや」 「食べますか?」 「甘いものは好まない」 「では、これはわたくし一人でいただきます」 そう言うと、なぜか少しだけ不満そうな顔をした。結局、帰り道で半分渡すと無言で受け取った。 帰路、日陰に残った薄氷でクロエの足が滑った。倒れる前に、ジークハルトの手が肘を支える。 「前を見ろ」 叱る声はいつも通り低い。けれど体勢が戻っても、その手は一拍だけ離れなかった。厚い手袋越しなのに、その一拍だけが妙にはっきり残る。クロエは礼を言いながら、冷たい風とは別の理由で頬が熱くなるのを感じていた。 その日、クロエは一つ新しく知った。自分は甘い焼き菓子が好きらしい。そして、ジークハルトは「好まない」と言いながら二口目を断らない人らしい。 公爵領で見つける「好き」は、少しずつ増えていった。そして気づけば、その小さな発見のいくつかには、いつもジークハルトが隣にいた。

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