芦名 雅 / 第3話

第3話 数字は嘘をつかない

翌朝から、クロエは帳簿の山と格闘した。 最初に行ったのは、数字を読むことではなかった。 分類することだった。 税収、鉱山収入、関税、農業収益、軍事費、道路整備費、救済費。 年度ごとに並べ、同じ項目を横に比較する。 一つの数字だけ見ても、異常は見えない。 けれど五年並べれば、流れが見える。 クロエは紙の端に小さな印をつけていった。毎年ほぼ同じ時期に膨らむ支出。収穫量と連動しない輸送費。前年の数字をそのまま写したような不自然な端数。 数字そのものは喋らない。けれど、人が数字に触れた痕跡は残る。誰かが急いだとき、隠そうとしたとき、都合よく見せようとしたとき――帳簿には必ず癖が生まれる。 クロエはそれを見つける作業が好きだった。祈りの場では「何も感じない自分」を責め続けていたのに、帳簿の前では分からないことがあるほど胸が高鳴った。 昼食を忘れた。 オズワルドが二度目に食事を運んできたとき、ようやくクロエは顔を上げた。 「クロエ様。朝食も半分しか召し上がっておりません」 「申し訳ありません。あと少しだけ……」 「先ほども同じことを仰いました」 「では、あと本当に少しだけ」 「その言葉は信用いたしかねます」 冷静な家令に帳簿を取り上げられ、クロエは渋々スープに手を伸ばした。 自分が仕事に夢中になると周囲が見えなくなることを、ここへ来て初めて指摘された。 伯爵家では、誰もクロエが何時間帳簿を見ていようと気にしなかったからだ。 気にかけられることに慣れていないせいで、最初は少し居心地が悪かった。だが、スープが冷める前に飲みなさいと叱られることも、夜になれば灯りを減らされることも、いつの間にか嫌ではなくなっていた。 「役に立つこと」と「自分をすり減らすこと」は同じではない。公爵邸の人々は、そんな当たり前のことを、クロエに少しずつ教えていた。 その日の夜。 「閣下。いくつか、気になる点がございます」 執務室へ入るなり、クロエは分厚い資料束を机に置いた。 ジークハルトが片眉を上げる。 「もう見たのか」 「一通り」 「五年分を?」 「はい」 「……寝たか」 「三時間ほど」 「今夜は六時間寝ろ」 「ですが――」 「命令だ」 いきなり仕事とは関係のない命令を受け、クロエは瞬きをした。 「それで、何を見つけた」 クロエは資料を開く。 「西部の穀倉地帯からの上納が、三年前から毎年ほぼ同じ割合で減っています」 「天候不順だと報告されている」 「その報告が不自然です」 クロエは隣接する二つの領地の収穫記録を示した。 「同じ河川流域です。雨量も大差ありません。にもかかわらず、アルディア領西部だけが毎年七から九パーセント低い」 「病害の可能性は」 「それも調べました。農務局の被害報告には記載がありません」 次の頁を開く。 「さらに、徴税を担当する代官の記録と、倉庫への搬入量に毎年ほぼ六パーセントの差があります」 「……六パーセント」 「偶然にしては、揃いすぎています」 クロエはさらに、同じ時期の荷馬車通行記録と倉庫の受入印まで並べた。収穫が本当に減っていたのなら、領外へ出る荷も減るはずだった。ところが街道を通った穀物量は大きく変わっていない。数字の欠けた場所だけが、まるで誰かの懐へ続く細い道のように浮かび上がっていた。 ジークハルトの目つきが変わった。 「横領か」 「可能性は高いと思います。ただし、帳簿だけでは断定できません。現地の収穫量と農民側の納税記録を照合する必要があります」 ジークハルトはしばらく無言で資料を見た。 一頁、二頁。 クロエが赤い印をつけた箇所を追っていく。 「……見事だ」 クロエは一瞬、その言葉を自分に向けられたものだと理解できなかった。これまで褒められるときには、いつも肩書きが先にあったからだ。 けれど今は違う。聖女でも、王太子妃候補でも、伯爵令嬢でもない。ただ自分が考え、見つけたものを見て、「見事だ」と言われた。 その一言が、これまでどんな美辞麗句よりも深く胸に残った。 すぐには返事ができなかった。 「……ありがとうございます」 声が少し掠れた。 ジークハルトは気づいたようだったが、追及しなかった。 「明日、監査官を西部へ送る」 「わたくしも同行してよろしいでしょうか」 「駄目だ」 「なぜです?」 「横領が事実なら、相手は証拠を隠す。場合によっては危険もある」 「ですが、数字を見つけたのはわたくしです」 「だからこそだ」 「……?」 ジークハルトは淡々と言った。 「お前は戦えない」 あまりに率直で、クロエは反論できない。 「監査官には、お前が作った照合表を持たせる。結果が出たら最初に報告する」 三日後。 西部代官による横領は事実と判明した。 農民から正規額より多く徴収し、帳簿上では収穫量そのものが少なかったように偽装していたのだ。 被害総額は三年間でかなりの額に上った。 代官は即日更迭。 さらに調査が入り、関係者数名も処分された。 「この金額をそのまま公爵家の収入に戻すのは簡単だ」 会議室でジークハルトが言った。 「だが、元は農民から余分に取られた金だ」 クロエは頷く。 「返還できる分は返すべきです。記録が残っていないものは、西部の灌漑設備と共同倉庫の整備へ回してはいかがでしょう」 「理由は」 「再発防止になります。農民が自分たちの収穫量と納税額を確認できる共同記録制度も作れば、代官一人が数字を操作しにくくなります」 会議に出席していた役人たちが顔を見合わせた。 オズワルドが小さく咳払いする。 「理にかなっておりますな」 ジークハルトは即座に決めた。 「採用する」 「……そんなに早く?」 「良い案を先延ばしにする理由がない」 その日から、クロエには正式に「財務補佐」という役目と、公爵家からの給金が与えられた。 最初の一週間は、露骨に警戒する役人もいた。王都から来た元聖女候補が、当主の気まぐれで財務に口を出している――そう受け取られても仕方がない。 古参の書記官から、わざと説明の足りない資料を渡されたこともある。クロエは怒らず、分からない箇所に印をつけて本人を呼んだ。そこで自分の読み違いが一つ見つかった。 「ここは、わたくしの誤りです。教えてくださってありがとうございます」 素直に頭を下げると、書記官はしばらく何も言わなかった。その日を境に、彼は誰より丁寧な補足資料を付けてくるようになった。 正しさを証明することと、間違えない人間を演じることは違う。クロエはようやく、それを仕事の中で覚え始めていた。 そうしてクロエは、言葉より仕事で信用を積み上げた。提出する資料には必ず根拠を書き、修正案には過去の数字を添え、分からない現場のことは現場の人間に尋ねる。知ったふりだけはしなかった。 そのうち「この数字はなぜですか」と聞けば、役人たちも「説明しても無駄だ」という顔をしなくなった。むしろ先回りして資料を用意する者まで現れた。 その変化が、クロエには嬉しかった。肩書きではなく、毎日の仕事で少しずつ信用を得た。その事実が、何より嬉しかった。 やがて、彼女の机には役人たちから相談の書類が自然と集まるようになった。 「クロエ様、この支出項目なのですが」 「前年との比較表はありますか?」 「こちらです」 「では、冬季の物流費と一緒に見ましょう。単独で増えたように見えても、街道修繕で輸送日数が減っていれば総額では下がっているかもしれません」 数字を見るクロエの表情は、生き生きとしていた。 数週間後、西部へ送った返還分の一部が無事に農民へ届いたという報告が上がった。共同倉庫の工事も始まり、冬を越すための穀物を村ごとに確認できる仕組みが作られていく。 書類の上では「返還済み」「工事着手」と数行で終わる。けれど、その向こうには実際に暮らしている人がいる。クロエは初めて、自分が好きだった数字が誰かの生活につながっていることを、はっきりと実感した。 聖女の奇跡のような華やかさはない。傷を一瞬で癒せるわけでも、枯れた花を咲かせられるわけでもない。それでも、自分の仕事によって、来年の冬を少し安心して迎えられる人がいる。 ほどなくして、西部の村々から連名の礼状が届いた。華美な言葉はなく、『今年は徴税のあとにも種籾を残せました』とだけある。クロエはその一文を何度も読み返した。数字の向こうにいる誰かの明日へ、自分の仕事は確かにつながっている。その実感が、静かに胸へ根を下ろした。 オズワルドはある夕方、執務室の前でジークハルトに言った。 「閣下」 「何だ」 「あのお嬢様、本当に聖女でなくてよろしかったのでは?」 ジークハルトは扉の向こうを見た。 クロエが役人たちに囲まれながら、資料を指差して説明している。 その顔には、王宮で見た作り物の笑顔はなかった。 「……最初から、聖女である必要などなかった」 低く答える。 オズワルドは、珍しいものを見るように当主の横顔を見た。 ほんのわずかだが、氷の公爵の口元が柔らかくなっていた。

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