芦名 雅 / 第5話

第5話 元婚約者の影

公爵領での生活が三か月を過ぎた頃。 クロエは、自分がようやく落ち着ける場所を見つけたのだと思い始めていた。 朝は財務室へ行き、昼には役人たちと食事をし、午後は倉庫や市場へ足を運ぶ。 ときにはジークハルトと領内視察に同行した。 王宮では一日中姿勢と表情を意識していたのに、ここでは靴に泥がついても誰も叱らない。 そんな平穏は、一通の手紙で揺らいだ。 「クロエ・ヴァンディミオンが、アルディア公爵に取り入り、財産を狙っている――ですか」 オズワルドが差し出した紙を読み、クロエは小さく息を吐いた。 王都の社交新聞だった。 匿名の投書という形だが、内容は悪意に満ちている。 『王太子に捨てられた偽聖女、今度は北方公爵を籠絡か』 見出しまでついていた。 「よく考えますね」 クロエが言うと、オズワルドは渋い顔をした。 「感心するところではございません」 「そうですね」 笑おうとしたが、うまくいかなかった。 懐かしい感覚だった。 誰かが作った物語の中で、自分が勝手に悪役にされていく感覚。 文字を追うほど、王宮にいた頃の感覚が蘇った。こちらが何を言ったかではなく、誰かがどう語ったかで「クロエ」という人物が決められていく。 一度貼られた呼び名は、事実より速く広がる。聖女。偽物。捨てられた女。今度は、公爵を籠絡する女。 どれも自分ではないのに、否定し続けているうちに、本当の自分まで分からなくなる。その怖さをクロエは知っていた。 それでも、三か月前と同じではなかった。机の上には自分が作った比較表があり、引き出しには役人たちから回ってきた相談書がある。噂は好き勝手に名前をつける。けれど、ここで積み上げた仕事までは書き換えられない――そう思えるだけのものを、クロエはもう自分の手で作っていた。 頭ではそう分かっている。それでも、十一年かけて染みついた恐怖は、理屈だけでは消えてくれなかった。 財務室へ戻っても、数字が頭に入らなかった。 ――また、迷惑をかける。 自分がここにいるせいで、公爵家まで悪く言われる。 夕方、クロエはジークハルトの執務室を訪れた。 「閣下」 「何だ」 「わたくし、一度公爵邸を離れた方がよいのではないでしょうか」 ペンの音が止まった。 「理由は」 「噂の件です」 「それが?」 「わたくしがここにいることで、閣下のお名前まで――」 「クロエ」 低い声に遮られた。 まだ名前で呼ばれることは少ない。 それだけで身体が固まる。 「お前は、公爵領の金を盗んだか」 「いいえ」 「俺を誘惑したか」 「しておりません!」 思わず声が大きくなった。 ジークハルトは無表情のまま続ける。 「財務改革の実績は偽造か」 「違います」 「なら、何を恥じる」 クロエは答えられなかった。 「噂は、事実ではない」 「ですが、人は事実より噂を信じます」 「一時的にはな」 ジークハルトは椅子から立ち上がる。 「だが、実績は残る。お前が三か月で削減した無駄な支出も、西部農村へ戻した金も、改善した備蓄制度も消えない」 彼はクロエをまっすぐ見た。 「それに、お前が財産目当てで擦り寄る人間でないことは、この数か月、誰より俺が知っている」 言い切ってから、ジークハルトはわずかに視線を逸らした。その仕草のせいで、「誰より」という言葉だけが妙に私的な響きを帯びる。公爵領には自分を知る人が大勢いる。それでも彼がそう言ったことに、胸が噂とはまったく別の理由で騒がしくなった。 「……どうして、そこまで信じてくださるのですか」 「見ていたからだ」 「え?」 「財産目当ての人間なら、もっと金の使い方に出る。お前は給金の半分を貯め、残りも本と文房具、それから街のパン屋で菓子を買う程度だ」 「なぜそこまでご存じなのです?」 ジークハルトが一瞬黙る。 「……家令から聞いた」 扉の外で、誰かが咳払いした。 たぶんオズワルドだ。 クロエは思わず笑った。 だが噂は、そこで終わらなかった。 数日後、王都から一行が到着した。 表向きは「北方経済の視察」。 もともと毎冬行われる王都からの定例視察に、今年は王太子の側近が代表としてねじ込まれた形だった。名目が正規であるぶん追い返しにくい。ジークハルトが露骨に不機嫌だった理由を、クロエは到着してから知った。 代表はロベルト・グラハム侯爵子息。 王太子アルフォンスの学生時代からの側近である。 到着早々、ロベルトはクロエを見て薄く笑った。 「これはこれは。噂の元聖女様」 「現在は、公爵領の財務補佐をしております」 「随分と出世なさった」 「職務をいただいただけです」 「公爵閣下のお気に入りなら、仕事にも困らないでしょうな」 周囲の空気が凍った。 クロエが言い返すより先に、ジークハルトが口を開く。 「ロベルト卿」 「は、はい」 「俺の領地で、俺が任命した人間を侮辱するなら、相応の根拠を示せ」 「いえ、そのようなつもりでは」 「なら、視察に集中しろ」 一言で終わった。 ロベルトは笑顔を引きつらせる。 クロエは礼を言おうとしたが、ジークハルトは先に歩き出してしまった。守ったことを恩に着せる気など、最初からないらしい。 その背中を見ながら、クロエは小さく息を吐いた。自分で言い返せなかった悔しさが残る一方で、隣に立ってくれる人がいることは確かに心強かった。 次は、自分の言葉で返したい。 そう思えたことが、以前の自分との何より大きな違いだった。 その夜、クロエは眠れなかった。 王都から来た一行の目的は、明らかに自分を探ることだ。 ――殿下は、まだわたくしを放っておいてくださらないのね。 窓の外を見る。 静かな雪が降っていた。 三か月前なら、怖くて仕方なかっただろう。 けれど今は違う。 クロエは机の上の帳簿に触れた。 自分がここで何をしてきたのか。 それを知っている。 そして、自分を信じると言ってくれた人がいる。 「逃げません」 小さく呟いた。 今度こそ、自分の足で立つために。

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