芦名 雅 / 第2話

第2話 公爵領へ

婚約破棄から三日後。 クロエは、ヴァンディミオン伯爵邸の玄関ホールに立っていた。 足元には、小さな旅行鞄が二つだけ。 十六年間暮らした家を出る人間の荷物としては、あまりに少なかった。 「宝飾品は置いていきなさい」 母はそう言った。 「王太子妃になるために家が用意したものです。あなた個人の物ではありません」 ドレスも大半を置いていくよう命じられた。 父は、最後まで姿を見せなかった。 意外ではなかった。それでも、何も感じないふりをするには少しだけ時間が必要だった。叱られてもいい。失望したと言われてもいい。せめて最後に一度くらい、父本人の声で何かを言ってほしかったのだと、屋敷を出る直前になって気づいた。 期待され続けることは苦しかった。けれど期待すらされなくなった瞬間、人はこんなにも簡単に家族から切り離されるのかと思うと、胸の奥に薄い痛みが残った。 昨日、執事を通して届いた言葉は短い。 『しばらく人目につかぬ場所で反省せよ』 何を反省すればいいのか、クロエには分からなかった。 聖女になれなかったことか。 奇跡を起こせなかったことか。 それとも、公衆の面前で黙って断罪されなかったことか。 「修道院へ行けばよかったのに」 母が最後に言った。 クロエは微笑んだ。 「そうですね」 もう反論する気にもならない。 屋敷を出る前に、一度だけ振り返った。 豪奢な階段。高価な絵画。幼い頃から見慣れた柱時計。 懐かしいはずなのに、不思議なほど何も感じなかった。 ――ここは、わたくしの家ではなかったのかもしれない。 そんなことを思った。 馬車が動き出してから、クロエは膝の上に置いた古い革表紙の帳簿を撫でた。 唯一、自分から持ち出したものだった。 宝石よりも、絹のドレスよりも、この擦り切れた帳簿の方がよほど自分のものだと思えた。表紙の角は丸くなり、紙には何度も消して書き直した跡がある。人に見せるためではなく、自分が分かるためだけに残した数字の列だった。 それを膝に置いていると、不思議と「何も持たずに追い出された」とは思わなかった。自分が積み重ねてきたものまで、誰かに取り上げられたわけではない。 幼い頃、伯爵家の老会計士から譲ってもらった練習用の帳簿。 老会計士は、聖女教育の邪魔にならない範囲でなら、と計算の仕方を教えてくれた。収入と支出を分けること。数字だけでなく、いつ、誰が、何のために動かした金なのかを見ること。帳尻が合っていても安心しないこと。クロエにとっては、神学書の暗唱よりずっと自然に頭へ入ってきた教えだった。 最初の頁には、拙い字でこう書かれている。 『小麦 十二袋。パンを焼くと何人分?』 聖女教育の合間に、台所の在庫を数えるのが好きだった。 十歳を過ぎる頃には、家計簿の間違いを見つけるようになった。 十三歳になると、父が興味を失っていた領地の収支表をこっそり整理し始めた。 誰も褒めなかった。 けれど数字だけは、クロエを裏切らなかった。 足したものは増え、引いたものは減る。 原因があれば結果がある。 人の期待のように、気分で形を変えない。 「……わたくしには、これがある」 呟いてみた。 少しだけ、心が軽くなった。 アルディア公爵領までは二日の道のりだった。 王都を離れるにつれ、景色は変わっていく。 華やかな街道沿いの商店が減り、代わりに広い畑と牧草地が増えた。さらに北へ進むと、森の向こうに雪を被った山々が見えてくる。 二日目の夕方。 巨大な石壁に囲まれた城塞都市が現れた。 アルディア公爵領の中心都市、ノルディス。 軍事都市らしく頑丈な城壁を持ちながら、門前には商人の馬車が長い列を作っている。北方の鉱石、毛皮、木材が集まり、王都へ向けて運ばれていくのだ。 ――思っていたより、ずっと活気がある。 冷たい土地は、人の表情まで冷たいのだと勝手に想像していた。けれど門前では荷車の御者が怒鳴り合い、露店の女主人が焼き菓子を売り、外套を着込んだ子どもたちが雪の残る路地を走っている。 頬を刺す風の冷たさと、人の暮らしの熱気。その二つが同居する景色を、クロエは馬車の窓から飽きずに眺めた。王都から遠ざかるほど、自分の知っている世界が広がっていくようだった。 公爵邸は街を見下ろす高台に建っていた。 王都の貴族邸のような華美さはない。 灰色の石造りで、装飾より実用を優先した堅牢な建物だった。 クロエを迎えたのは、白髪交じりの家令だった。 「クロエ・ヴァンディミオン様ですね。家令のオズワルドと申します」 「お世話になります」 深く頭を下げると、オズワルドは一瞬だけ目を見開いた。 「……閣下より、客人として丁重に扱うよう申しつけられております」 「客人、ですか」 「はい」 クロエは困った。 慈善で置いてもらうつもりはない。 守られるだけの客人になれば、また誰かが決めた役の中へ戻ってしまう気がした。ここへ来たのは、別の肩書きに逃げ込むためではない。自分に何ができるのか、自分で確かめるためだ。 「可能でしたら、仕事をいただきたいのです」 「仕事を?」 オズワルドの視線が、ほんの少し険しくなる。 元王太子妃候補。 元聖女候補。 そんな娘が突然やって来て「働きたい」と言えば、疑うのも当然だ。 「はい。何でも、と申し上げるほど器用ではありませんが、帳簿や文書の整理なら多少はできます」 「……承知しました。閣下にお伝えいたします」 その夜。 夕食を終えると、クロエはジークハルトの執務室へ呼ばれた。 広い部屋だった。 壁一面に地図と書棚。中央の机には書類が積まれている。貴族の執務室というより、軍司令官の作戦室に近い。 「座れ」 ジークハルトは書類から目を上げずに言った。 クロエが向かいの椅子に腰を下ろす。 「歓迎はしない」 開口一番だった。 「ここは慈善事業をする場所ではない。お前を哀れんで住まわせるつもりもない」 その言葉を聞いた瞬間、クロエの肩からわずかに力が抜けた。哀れだから置いてやる、と言われるよりずっとありがたい。哀れみは優しく見えて、ときに人を「何もできない存在」にしてしまうからだ。 ここでは、役に立つかどうかを自分で証明できる。失敗すれば失敗だと言われるだろう。その代わり、できたことまで「聖女だから」で片づけられることもない。 「はい」 「腹は立たないのか」 「むしろ安心いたしました」 ジークハルトが顔を上げる。 「同情だけで置いていただく方が、わたくしには辛いです」 数秒、沈黙が落ちた。 やがてジークハルトは机の端に置かれた帳簿を一冊取った。 「帳簿は読めるか」 「一通りは」 「一通り、とは」 「伯爵家では、ここ三年ほど家計と領地収入の集計を実質的にわたくしが行っておりました。父は最終承認だけでしたので」 今度こそ、ジークハルトの眉が動いた。 「王太子妃教育を受けながら?」 「夜に時間が余りましたので」 「余るものなのか」 「眠る時間を少々削れば」 「……それを余るとは言わない」 低い声だった。 怒られたのだろうか。 クロエが首を傾げると、ジークハルトは小さく息を吐いた。 「明日、領地の収支報告書を持ってこさせる。目を通せ」 「どの程度まで?」 「全部だ」 「……全部」 「役に立つかどうかは、お前自身が証明しろ」 厳しい言葉のはずなのに、クロエには妙に心地よかった。家柄でも、聖女の肩書きでもなく、自分が何をできるかを見てもらえる。失敗する自由まで含めて、自分に返されたような気がした。 クロエは、しばらく彼を見つめた。 それから、ゆっくり笑った。 「承知いたしました」 その笑顔は、王宮で浮かべていたものとは違った。 ジークハルトは気づいたが、何も言わなかった。 翌朝。 クロエの部屋へ運び込まれたのは、両腕で抱えても持ちきれないほどの帳簿だった。 オズワルドが申し訳なさそうに言う。 「こちらが過去五年分の領地収支報告書でございます」 クロエは山積みの書類を見上げた。 一瞬だけ沈黙したあと、クロエの口元がわずかに緩んだ。 「……面白そうですね」 その瞬間、オズワルドはようやく、ジークハルトが彼女を「有能な人材」と呼んだ理由を少しだけ理解した。

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