芦名 雅 / 第154話
第47話 電卓を売ってくれ
パンを二つ選ぶ間に、かち、かち、と三度音がした。袋を鳴らした音ではない。客が腰から外した木の板の上で、小さな木片が動いている。
「百四十八が二つ。二百九十六」
「はい。そのパンはそうです」
俺が頷くと、客はようやく二つをかごへ入れた。濃い茶色のベストの肩越しに、左右へ張り出した大きな耳が見える。背は俺の胸よりずっと低いが、値札を確かめてから買う手つきに、子供らしい迷いはなかった。
午前一時三十七分。入ってきた時、この客は、まず食料を買い、そのあとで確認したい道具があると言っていた。くすんだオリーブ色の肌と黄褐色の目。顔つきだけなら、ゴブリンなのだろうと思う。ただ、ベストのいくつものポケットから覗くのは、短い筆記具や折った紙だった。戦う道具より、今手に持っている計算板の方が使い込まれて見えた。
「数字は読めるんですね」
「全部ではない。この店の金額と一緒に、形をいくつか覚えた」
「じゃあ、こっちは?」
隣の百六十八円のパンを示すと、男は数字を目で追い、最後の一桁だけ確かめた。日本語の商品名は読めなくても、買い物をするうちに分かることは増えるらしい。俺は次の水の値段も伝え、選び終わるのを待った。
「確認したい道具って、どこにあります?」
「小さな箱に、数字の並ぶ絵がついていた」
「電卓ですかね。文房具の方です」
案内すると、男はすぐ一つの箱を指した。ノートやペンに挟まれた、小型の電卓だった。俺には見慣れた数字のボタンも、確かに、何をするのかは絵だけでは分からない。
「計算する道具です。足す、引く、掛ける、割る。そういうのができます」
「四つともか」
男の目が箱へ近づいた。さっきまで値札を見ていた時より、動きがはっきり止まっている。
「自分で数字を入れて、答えを出します」
「動くところを見られるか」
「商品の見本はないんですけど……」
俺が棚を確かめていると、レジから先輩が声を掛けた。
「事務所の使えばいいだろ」
「あ、店の電卓ですね」
「終わったら戻せよ。お前がどっかへ置くと、次に使う時なくなる」
「まだなくしてないじゃないですか」
俺はバックヤードから店用の電卓を持ってきた。売り物とは型が違う。カウンター端の、客が手を届かせやすいところへ置くと、男はその隣へ木の計算板を並べた。
「こっちは仕事で使うんですか?」
「荷の数と金額を合わせる。帳簿へ書く前に使うものだ」
板には細い溝があり、木片がはまっている。動かす指は短いが、迷いがない。俺が形を確かめている間に、男は電卓の数字を見ていた。
「こちらは、動かすものが少ない」
「ボタンを押します。この店用のは売り物と並びが違うので、今は使い方だけ見てください」
「位置を覚えるのは、買う方でか」
「はい。まず、このキーで前の計算を消します」
表示をゼロへ戻し、三、足す、二、答えを出すキー、と順に押した。五が出ると、男は画面から俺の指へ目を移す。
「もう一度。最初に消すところから、ゆっくり頼む」
「ここでゼロにして。それから数字です」
今度は口で数を言いながら押す。男は途中で電卓へ触らず、最後まで見ていた。答えが出たあと、首を横へ傾けて画面を確かめる。
「紙には出ないのか?」
「これは画面だけです。残すなら、自分で書きます」
「なら、帳簿は今までどおり必要だな」
少し残念そうだったが、計算板をしまうことも、電卓から離れることもしなかった。欲しいものが何かを、一つずつ確かめているらしい。
「ほかの数字で、やってみます?」
「二十三と十七」
「四十……あ、すみません。先に言っちゃいました」
「答えではなく、入れ方を見たい」
正しかった。俺は今度こそ黙って、表示を消してから二桁の数を入力した。二を押し、三を押す。男の指が、自分の板の木片を動かす。電卓へ四十が出ると、手元の板を一度見て頷いた。
「二つ並べて押せば、二十三になるのだな」
「そうです。大きい数も、順に押していきます」
「では、百二十四から三十六を引く」
今度は最後まで口を出さずに押した。八十八が表示される。男も計算板を確かめ、また頷いた。その目は数字が変わった速さじゃなく、三桁を入れる時の俺の指を見ていた。
「次は掛ける方を。六を八倍にする」
「この印です」
六と八で四十八。さらに、十二を三で割ると四になる。四種類の計算を確かめ終えると、男はようやく板から手を離した。
「使える」
声が少し変わった。面白い見世物だった、という言い方ではない。俺は手元の紙と計算板を見て、尋ねた。
「商人さんなんですか?」
「会計係だ。ペコル・ネム。隊商と倉庫の帳簿を見る」
「瀬尾悠斗です。こっちは榊原先輩」
先輩がレジから顔を上げ、短く名前を返した。ペコルさんは頷き、再び電卓を見る。
「荷の数、売った数、残った数。受け取った金。一つ合わなければ、どこまで戻って確かめるか決めなければならない」
「それは、時間かかりそうですね」
「合っているところまで数え直すからな。計算する手間が減れば、それだけ他を見る時間が残る」
俺は電卓を少し手前へ寄せた。小さいというだけで気に入ったのではない。毎日繰り返す仕事の、どこをこれに任せられるか考えているのだ。
「ただ、真っ暗だと表示は見えにくいですよ」
「帳簿を書く時にも灯りは使う。そこでよい」
「なら、困らなさそうですね」
ペコルさんは板を腰へ戻した。今度は売り物を確かめたいというので、二人で棚へ戻る。店用の電卓は先輩へ預け、売り物と混ざらないようにしておいた。
箱の写真を見ると、さっきとは答えを出すキーの位置が少し違う。ペコルさんはすぐそこへ指を置いた。
「違うな」
「機種で並びが違います。買うなら、覚えるのはこっちですね」
「紙へ写す」
ベストから折った紙と短い筆記具を出し、箱を棚の空いたところへ立てる。俺はかごを持って、彼が書きやすいよう両手を空けた。数字のボタンを四角く並べ、計算に使う印を横へ書いていく。線は小さいが、何をどこに残すか迷う様子はなかった。
「この文字は?」
「税の計算とか、数字を記憶させる機能の方です。今の四つを使うだけなら、触らなくてもできます」
「では、今は使わない。必要になってから聞く」
「あと、全部消すキーはこれです」
「それは書く」
そこだけ印が一つ増えた。俺が何でも説明しようとする前に、ペコルさんは使うところを決めていた。
「使い続けるには、何か足すのか」
「電池です。この商品は最初から入っています。明るいところでは光も使う型ですね」
箱の説明を見せ、指定の電池があることも伝えた。ペコルさんは電池の名前を自分の紙へ書き足す。いつまで持つのか聞かれたが、使い方によるため、ここで日数までは約束できないと答えた。
「点かなくなったら、壊れたと決める前に電池を確かめるのか」
「はい。分からなければ、これごと持ってきてください。店で直せるわけではないですけど、表示は見られます」
「分かった。では、その電卓を売ってくれ」
ようやく購入が決まった。俺はかごへ箱を入れようとしたが、ペコルさんは受け取って自分で入れた。パンの上へ押し込まず、底の水からも少し離して置く。その横へ、今度は薄い方眼ノートが加わった。
「これは線が揃っている。数字を縦に書きやすい」
「帳簿用ですか」
「まず、この道具を使う時の控えにする。どの計算をしたか、残す場所が要る」
買い物が一つ増えたが、何でも欲しくなっている様子ではなかった。ボールペンの列にも目を向けたものの、いま使った筆記具を確かめると、そのままポケットへ戻している。
「そっちは要らないんですね」
「まだ書ける」
「分かりました。じゃあ、これで」
レジへ戻り、パン二つ、水一本、電卓一つ、ノート一冊を読み取った。ペコルさんは、先に聞いたパンの値段を自分の紙で確かめる。俺は水と電卓、ノートも、登録した単価を順に読み上げた。
「合計が、こちらです」
画面を示すと、ペコルさんの木片がまた動き始めた。俺は邪魔をしないよう黙って待つ。途中で一度だけノートの値段を訊き直され、同じ数字を答えた。
「合った」
「じゃあ、お支払いはそっちの精算機へお願いします」
「これは金を数える方か」
「入れた硬貨を判定して、支払いの分を引きます。残りはお釣りとして出ます」
機械を売ってくれと言われるかと思ったが、ペコルさんは商品と投入額の表示を確かめるだけだった。硬貨を入れ、処理を待ち、戻ったものを数える。仕組みそのものを全部聞こうとはしない。金をしまう前に、表示をもう一度見ていた。
俺はレシートを渡し、どの行が何を買った記録なのかを説明した。日本語は読めなくても、紙に並ぶ値段へは目が行くらしい。パンの二つ分を確かめると、ペコルさんは丁寧に折ってベストのポケットへ入れた。
「本物の方を、ここで確かめていいか」
「もちろんです。もう支払いは済んでます」
俺はカウンター端を空けた。ペコルさんが電卓の箱を開ける。説明の紙は捨てず、書いた図の横へ置いた。新品は店用のものより薄く、彼の小さな手にも収まった。
「まず消す」
さっき書き写した場所を見てボタンを押す。表示がゼロになった。次に二、三。足す、一、七。答えを出すキーへ指が移る時だけ、少し止まった。
「この位置だったな」
「はい」
四十が出た。ペコルさんは自分の図へ視線を戻し、指を置いていた場所に小さく印をつける。店の見本ではなく、自分で買った道具が、手元の覚え書きどおりに動いた。
「もう一度、今度は見ずに押す」
「どうぞ」
紙を伏せてやり直す。ゼロ、二十三、足す、十七。今度は途中で止まらなかった。答えが出ると、黄褐色の目が細くなる。俺が何か言う前に、新しく買ったノートを開いた。
「ここへ、四十」
数字を書き、電卓の表示と見比べる。それから、小さく息を吐いた。
「これなら仕事へ持っていける」
「使い方の紙も、持って帰ってくださいね」
「持つ。覚えているつもりで、忘れることはあるからな」
ペコルさんは紙をノートへ挟み、電卓を箱へ戻した。ベストだけでは収まらないので、俺が袋を勧めると頷いた。水とパンを一方へ、電卓とノートをもう一方へ分ける。濡れたボトルが紙へ当たらないようにして渡すと、彼は二つの持ち手を確かめた。
「計算板の方も、持っていくんですね」
腰に戻された木の板を見て言った。
「捨てる理由がない。電卓が使えない時にも、帳簿は見る」
「便利なのができたら、全部替えるのかと思いました」
「今日初めて触った道具だ。全部任せる前に、仕事で使う」
それはそうだった。店で少し試したのを見ただけの俺より、これから何度も使う本人の方が、よほど慎重だった。
「壊れた時に買い直すなら、同じものがいいか?」
「同じ商品が残っていれば、操作も分かりやすいですね。違うものだと、また配置を確かめる必要があります」
「では、その時は持ってくる」
ペコルさんは頷き、入口へ向かった。小さな身体の横で、二つの袋が別々に揺れる。自動ドアの手前で、ふと振り返った。
「瀬尾」
「はい」
「二十三と十七」
「四十です」
反射で答えてから、また先に言ってしまったと思った。ペコルさんの口元が動く。
「今度は、答えを聞いた」
「分かってて聞きましたよね?」
「合っているな」
「合ってますよ」
小さく手を上げ、彼は店を出た。木の計算板が腰で一度だけ鳴る。新しい電卓は袋に入ったままで、暗い森を歩きながら試そうとはしなかった。
俺はカウンターへ戻った。先輩が別のところへ寄せてくれていた、店用の電卓が残っている。
「返してきます」
「今度は忘れなかったな」
「まだ一回も忘れてないです」
俺は笑い、バックヤードの元の位置へ電卓を戻した。ボタンの端だけ少し擦れている。誰がいつから使っているか知らなくても、ここへ置いてあれば次の人が使える。
売り場へ戻って、売れた箱の空きを整えた。すぐ横の値札が少し曲がっていたので、数字まで見えるように直す。ペコルさんが持ち帰った新しい道具も、使い方を確かめ終えたら、彼の仕事場のどこかへ置かれるのだろう。そこから先は見えない。俺は最後にカウンターへ何も置き忘れていないことを確かめ、次の客を待った。