芦名 雅 / 第153話
第46話 少しだけなら、読んでみます?
鞄の口を閉じれば、今日は持ってこなかったことにできる。バックヤードの棚に置いた自分の荷物を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
「瀬尾、箱」
「はい」
「畳むのか、持って帰るのか、どっちだ」
榊原先輩に言われて、手元を見た。空の段ボールを持ったまま、折り目へ指を掛けて止まっている。慌てて底を畳むと、先輩の目が、その向こうの鞄へ移った。
「それ、今日は出さねえの?」
「何をです?」
「白いの。原稿だろ」
少しだけ開いた鞄の中に、クリアファイルが見えていた。白い紙が十枚ほど。ここ数日、家で読み返しては直し、もう一度印刷し直した、この小説の冒頭だった。
まだ全部ではない。最後まで書き上げてから水野さんへ渡すつもりだったのに、いざ相手がいると思うと、どこを読んでも気になるようになった。続きを書いたあとで冒頭へ戻り、言葉を直し、別のところの説明が足りない気がして、また戻る。自分一人で眺めていても分からなくなって、今朝は十枚だけ持ってきた。
持ってきたが、見せるとはまだ決めていない。そんな言い訳をしながら、家を出たのだった。
「完成したら渡すって言ってるんです」
「なら、完成させろよ」
「それができなくて気にしてるんでしょう」
先輩は俺が畳んだ箱を受け取り、ほかの段ボールの上へ重ねた。午前六時を過ぎ、売り場の窓には日本の駐車場が戻っている。夜の客の声はなく、バックヤードでは冷凍庫の唸りが、返事のない間を埋めていた。
「途中でもいいか、本人に聞けば」
「簡単に言いますね」
「完成してるって嘘つくわけじゃねえだろ」
先輩はそれだけ言い、売り場へ戻った。俺は鞄のファスナーを、あと少し閉めれば終わるところまで引いた。そのまま指を離す。店の引き継ぎより、自分の紙十枚の扱いの方が決まらなかった。
六時二十分。ごみをまとめ、レジ周りを拭く。冷たい飲料の在庫を確かめ、引き継ぎの数を端末へ入れる。やることは順番に終わった。狼の獣人へ、頭につけるライトの使い方を説明していた時だって、ここまで手は迷わなかったと思う。
俺は以前から小説を投稿している。知らない誰かに読まれること自体が初めてではない。それでも、顔を知っている相手へ、この原稿を手渡すところだけは、何度想像しても慣れなかった。面白くなかった翌朝にも、俺はここで、その人へ挨拶をするのだ。
「先輩、人に見せる時って――」
「何を」
「……いや、何でもないです」
聞きかけて止まった。先輩に、小説を書いて人へ渡した経験があるなんて聞いていない。元勇者だと知った時も、同じように、何でも答えを持っていそうな気になった。相手の方は、俺の顔を見て眉を寄せる。
「聞く前に引っ込めんなよ」
「今の、質問が違いました」
「なら、聞きたい相手に聞け」
「そうします」
俺は苦笑し、仕事用のペンを戻した。小説を見せる話なのに、実際に読む人へは、まだ一度も尋ねていなかった。
◇
六時四十八分、自動ドアが開いた。
「おはようございます」
水野さんは、薄い生成り色のシャツに淡い青のカーディガンを羽織っていた。肩にはいつもの大きなトートバッグ。ゆるくまとめた焦げ茶色の髪が、挨拶をする拍子に頬へ落ち、彼女は指で耳の方へ払った。
「今日は早いですね」
「電車、一本早いのに乗れたので。何かあります?」
「引き継ぎは、書いておきました。着替えてからで大丈夫です」
俺は端末を示した。渡すものなら、ほかにもある。けれど、水野さんがバックヤードへ入るまで、口から出たのは仕事のことだけだった。
「言わねえの?」
先輩が小さく言った。
「言いますよ」
「ふうん」
からかうなら何か言えばいいのに、そこで終わる。俺は逆に落ち着かなくなり、返ってきた空のかごを入口へ戻した。
水野さんが制服に着替えて出てくると、先に引き継ぎをした。減った飲料、残り少ない抹茶菓子、日用品の在庫。水野さんは端末と俺のメモを見比べ、一つずつ確認する。
「ヘッドライトと電池も、残り少ないんですね」
「前の夜に、夜道で使う人が買ったので。予備も一緒に」
「じゃあ、そこの数も見ておきます」
誰がどこを歩くかまで言わなくても、仕事の話は通じる。いつもの引き継ぎが済むと、水野さんはペンを置き、俺へ顔を向けた。
「瀬尾さん、今日は何か言いかけてません?」
「え」
「さっきから、返事のあとに口が開くので」
先輩に笑われた気配がした。そちらを見ると、伝票をまとめている。俺は助けを求めるのをやめ、水野さんへ向き直った。
「小説のことです」
「ああ。進んだんですね」
「進んではいるんですけど、まだ終わってなくて」
「じゃあ、もう少し待ちます」
言って、普通に端末の充電台へ手を伸ばす。原稿を見せろとは言わない。以前、描きかけのものを勝手に見られるのは嫌だと話した時と、同じ距離の取り方だった。
「……読まなくていいんですか?」
「完成したらって、約束でしょう?」
「そうなんですけど」
「約束を変える話ですか」
その言い方に、少し息がつけた。完成したふりをするわけでも、待たせたことを謝り続けるわけでもない。今、自分がしたいことを聞けばよかった。
「最初のところだけ、持ってきました。少しだけなら、読んでみます?」
声は思ったより普通に出た。水野さんの手が、充電台の前で止まった。俺の目を見てから、すぐには頷かずに尋ね返す。
「途中でも、見せて大丈夫なんですか」
「十枚くらいです。話が終わるところまでは、入ってません」
「ページ数ではなくて。瀬尾さんが、です」
俺は答えに詰まった。大丈夫と言い切れば、自分の方までそうなる気がしていた。でも、水野さんはそれを聞いているのではないらしい。
「……怖いだけです。見せたいのは、本当です」
言うと、彼女は少し表情を緩めた。励ます言葉をすぐ並べるのではなく、俺が続けるのを待っている。
「自分では、もう何が変なのか分からなくなってきたので」
「私も、描きかけを見せる時は気になります。見られたところを、全部直したくなることもありますし」
「今、ちょうど全部気になってます」
「では、私が見る前からですね」
「そう言われると、ちょっと情けない」
水野さんは小さく笑った。俺も笑い、バックヤードへファイルを取りに行った。鞄を開ける時だけ、また指が迷ったが、今度は閉じ直さなかった。
持ち戻った十枚の紙を、レジ台の乾いたところへ置く。水野さんは手を伸ばす前に、俺へ確認した。
「今ここで、読みます?」
「今、ここで?」
自分で持ってきたくせに、声が上がった。水野さんはすぐに頷いた。
「では、あとで。大学に持っていって、空き時間に読んでもいいですか」
目の前で顔を見ながら読まれるのも怖い。いないところで、文章だけ読まれるのも怖い。でも、以前投稿した時だって、俺が横から説明することはできなかった。今さら、読み終えるまで口を挟める場所を探すのも違う。
「はい。持っていってください」
「分かりました。次の勤務の時に返すので大丈夫ですか?」
「急がなくていいです。課題とか、ありますよね」
「あります。でも十枚なら、空いたところで読みます。今日は確約しないですけど」
その返事で、少し安心した。俺の原稿を読むために彼女の予定が全部変わるわけではない。その当たり前のことを、ちょっと忘れかけていた。
水野さんがファイルへ手を添える。透明な表紙の向こう、一枚目には本文だけが印刷されている。見たところで、彼女の指が止まった。
「前の『月明かりの宿』とは、違う話ですか?」
「同じ原稿を直してます。宿から、小さな雑貨店に変えました。だから、あの仮題も外していて」
「なるほど。名前だけなくなったんですね」
「話の形も少し変えたんですけど、読んでもらう前に説明しすぎない方がいいですよね」
「では、今は題名なしで読みます」
俺は頷いた。実際の店名も、地名も、人物の名前もそこにはない。先輩の十年を書いたわけでもなかった。年齢や経歴を変え、別の夜に見たことも、そのまま記録せず組み直している。何度も見直してきた一枚目だったが、渡すとなると、また確かめたくなった。
それでも、ファイルを開いて読み返すことはしなかった。水野さんはまだ待っている。俺は紙の端を揃え、相手の方へ寄せた。
「感想も、聞いていいですか」
「もちろん。厳しく言った方がいいですか?」
「それは、ちょっと」
「では、褒める方だけ?」
「それも怖いです」
「じゃあ、普通に言います」
水野さんは迷わず答えた。俺が笑ったところで、念を押すように一言だけ足した。
「最後まで読めなかったら、そう言います。それで大丈夫ですか」
胸の辺りが少し縮んだ。続きを書く前に、冒頭すら読めないと言われるかもしれない。でも、読めたふりをしてもらったら、たぶん今より分からなくなる。
「大丈夫です。……お願いします」
水野さんがファイルを持ち上げた。紙十枚の重みが、俺の指からなくなる。思わず同じ手を伸ばしかけ、俺はカウンターの端を掴んだ。
「やっぱり返してって言ったら、返します?」
「返しますよ。まだ読んでませんから」
彼女は本当に手を止めた。冗談を言ったつもりだったのに、取り返せる場所に原稿がある。俺は一枚目の黒い文字を見た。持ってこなかったことにするなら、まだ間に合った。
少し黙ってから、カウンターを掴んだ手を離した。
「持っていってください」
「はい。預かります」
水野さんはそのまま、バックヤードへファイルを持っていった。自分の鞄へしまいに行くのを、俺は売り場から見送った。追いかけてもう一度だけ直す、とは言わなかった。
「渡したか」
先輩が隣へ来た。
「渡しました」
「そうか」
「本当に、それだけですね」
「読んでねえのに、何を言うんだよ」
正しかった。俺は困って笑う。先輩は俺の空いた手を見て、もう用の済んだメモをカウンターから拾った。
「こっちは、しまっとけ」
「それ、原稿じゃないですよ」
「引き継ぎ終わっただろ」
「終わりました」
仕事の紙を片付けると、いつもの朝のレジ台へ戻った。何か大事件が起きたような顔をしているのは、俺だけらしい。
水野さんが戻る時、自動ドアも開いた。作業着の客が一人入り、飲料棚へ向かう。俺たちは揃って挨拶をした。時計はまだ七時前だったので、俺がレジへ立ち、水野さんは隣で朝の確認を続けた。
缶コーヒー一本とパン一つ。読み取り、支払い、レシートを渡す。客はそれ以上何も聞かず、商品を受け取って出ていく。十枚の紙を渡すのにはあれだけ迷ったのに、この受け渡しは何も難しくなかった。
「顔、少し戻りましたね」
水野さんが言った。
「仕事してる間だけです。思い出すとまた駄目そう」
「まだ、読んでいないですよ」
「その言葉、安心と恐怖が半分ずつなんです」
彼女が笑う。先輩もカウンターの奥で、少しだけ口元を動かした。水野さんがそちらへ目を向ける。
「榊原さんは、読まないんですか」
「本人が見せてきたらな」
先輩が俺を見る。今ここで出せと言われたのではない。それでも、俺は首を振るのが少し申し訳なくなった。
「今は、まだ」
「なら、それで終わりだ」
先輩は片付けた伝票を持って奥へ向かった。勝手に取りに行くことも、隠したことをからかうこともしない。その背中を見てから、俺は水野さんへ顔を戻した。
「もし、途中で分からないところがあっても、無理に読み解かなくていいです」
「分からなかったところも、そのまま言いますよ」
「お願いします。俺が説明を足さないと読めないんだったら、その場所を知りたいので」
言ってから、自分の原稿をもう一度取り出して、今直してしまいたくなった。どこがそうなのかは、まだ聞いていないのに。俺は手を後ろで組み、水野さんの返事を待った。
「では、読んでいる途中で迷ったところは覚えておきます。面白かったところも」
「後の方、あるといいなあ」
「読まないうちから、ないことにしないでください」
俺は黙って頷いた。見せる前の言い訳を全部並べて、感想まで先に決めるところだった。紙はもう、彼女の鞄にある。俺がするのは、ここで続きを説明することではなかった。
七時になり、エプロンを外した。バックヤードで鞄を持つと、空いた場所へノートが倒れかかっている。十枚だけの隙間なのに、閉じる前に目がそこへ向いた。ファイルがないことを一度確かめ、今度はファスナーを端まで閉める。
「お先です」
「お疲れさまです。原稿、預かってますから」
「はい。あと、まだ途中なんで」
「知ってます」
「……もう言わないようにします」
水野さんは笑った。それから、レジへ入る前に少しだけ声を落とす。
「完成したものも、ちゃんと待ってますよ」
俺は、すぐには笑い返せなかった。途中を渡したことで、最初の約束までなくなったわけではない。鞄の持ち手を握り直し、頷いた。
「最後まで書いたら、それも渡します」
「はい」
短い返事を受け取って、俺は店を出た。朝の駐車場はもう明るく、山の緑も濃くなっている。先輩は少し先を歩いていた。俺はドアの脇で一度だけ足を止め、鞄からスマホを出した。
開くのは、渡した十枚じゃなく、その続きのファイルだった。昨日最後に書いた一文を確かめ、閉じる。まだ、次に何をするかは残っていた。俺はスマホをしまい、先輩へ追いついてから、家へ帰る道を歩き始めた。