芦名 雅 / 第160話
第53話 氷は持って帰れますか?
「氷って、何分くらい持つんですかね」
冷凍ケースの底から一袋を手前へ寄せながら聞くと、榊原先輩はレジの中で伝票をめくった。袋の内側は白く曇っていて、大きな氷がこつりとぶつかる。午前一時二十一分。外の森から入ってくる風は、今夜も少し湿っていた。
「どこで」
「買って、外へ持っていって」
「知らねーよ、まあそれなりにってことでいいんじゃないか?」
俺は氷を置き直した。想像の中では、氷だけが外にあった。ガラスを閉めると、冷気が指先から離れた。その直後に自動ドアの音がして、反射的に「いらっしゃいませ」と声が出る。入口の男は、すぐには商品へ手を伸ばさず、レジと通路の間を確かめていた。
初めて見る顔だった。短く波打つ黒髪に、整えた顎髭。三十歳くらいだろうか。砂色の薄い旅装から出た手は日に焼けている。首に巻いた長い布の端を内側へ収めてから歩き出すと、腰に下がった二本の水筒が別々の音を立てた。一本は重そうで、もう一本は歩調に合わせて軽く揺れる。
「水はあるか」
「あります。冷たいのは、あちらです。冷やしていない水もありますよ」
「まず冷たい方を見たい」
暗い茶色の目が俺の手の先を追った。背中の荷物は小さく、厚い鎧も着けていない。通路を進む時には腰の水筒を棚から遠ざけ、男は飲料ケースの前へ立った。
二リットルのボトルを持ち上げ、隣の小さいものと比べる。俺が量を説明すると、男は二本持てば四リットルだと確かめ、もう一本へ手を伸ばしかけた。それから、腰の水筒を指で押した。
「歩いて持つには、大きいな」
「馬車とかに積む分じゃないんですか?」
「馬車は途中までだ。私が先に道を見る」
男は大きな一本を元へ戻し、五百ミリリットルのボトルを取った。同じ量でも小分けの方が荷物へ収めやすいのか、片手に二本持ち、重さを確かめている。
「斥候みたいな仕事です?」
「斥候と護衛だ。隊商の前を歩くことが多い」
「今夜も、このあと歩くんですね」
「四時間ほど。戻る頃には仲間の荷車が来る」
背中の荷物が小さい理由を聞けた気がした。男はかごへ三本の水を入れたあと、まだ棚から離れない。途中に使える水場があるか、俺が聞く前に、自分から口を開いた。
「水場は一つある。使えれば、これで足りる」
「使えなかったら?」
「そのための予備だ」
四本目が加わった。俺は思わず、「ちゃんと考えてる」と口に出してしまった。男の手が、かごの持ち手へ掛かったところで止まる。
「何だと思った」
「あ、いや。初めてのお客さんなので、どのくらい要るか分からなくて」
「初めてなら、余計なことを決めつけるな」
声は荒くなかった。それだけに、慌てて言い訳を重ねる気にはなれなかった。俺は「すみません」と返し、水の列を指していた手を下ろす。客はかごを持ち直し、隣のスポーツ飲料を示した。
「これは、水とは違う物か」
「はい。甘みと塩分のある飲み物です。歩いたり汗をかいたりした時に飲む人もいます」
「薬ではないのだな」
「普通の飲み物です」
今度は必要なところだけ答えた。男はラベルを裏返しても読めないと分かると、一本の量を聞いた。水と同じ五百ミリリットルだと伝えると、二本選んでかごへ入れる。
「水が四本、こちらが二本。合わせて三リットルか」
「はい」
俺もかごの中を見た。ここから先は男自身が持って歩く重さだ。何か言い足す代わりに、次の客が来ても通れるよう、ケースから少し身を引いた。
男は飲料棚を離れると、入口へは戻らず冷凍ケースへ向かった。アイスの箱を一度見て、透明な袋の前で足を止める。さっき俺が寄せた氷が、ガラス越しに白く光っていた。
「これは、氷か?」
「食用の氷です。飲み物を冷やしたりするのに使います」
男が蓋へ手を置いたので、開く方向を示した。ケースから流れた冷気を浴びても身を引かず、一袋を取り上げる。表面へ指を添えた途端、目が少し細くなった。
「このまま持って帰れるのか」
「買って持ち帰ることはできます。どこで使うんです?」
「隊商へ。水を冷やす」
用途を聞けた。さっき先輩に言われたばかりのことだったが、聞いたからといって、すぐ売ればいいわけではなかった。男は持った袋の奥へ目を向け、ケースに残る数を数え始めている。
「ここにあるのは、全部で八つか」
「はい。今見えている分は八袋です」
「それだけあれば、皆の水にも使える」
「八袋、持っていくつもりですか?」
「運べるなら」
男は水のかごを足元へ下ろし、空いた手でもう一袋取ろうとした。俺は二つ目へ伸びる指より先に、ケースの縁を示す。
「その前に一つ。この氷も、ここから出したら溶けます」
男の手が止まった。一袋目を持ち直し、袋の中の角張った塊と、白い冷気の残るケースを見比べる。
「この店の氷もか」
「はい。ここで冷やし続けているから、この形なんです」
「袋が冷たさを保っているのではない?」
「ただの包装です。袋に入っていても、外では溶けていきます」
男は二つ目を取らなかった。一つ目をかごへ入れることもせず、ケースの中へいったん戻す。さっき水を数えていた時より長く、指が袋に残っていた。
「四時間のあと、どれほど残る」
「外の気温と持ち方が分からないので、残る量までは言えません」
「一度、道へ持って出たことは」
「ないです。俺は勤務中、あの森には出られないので」
自動ドアの向こうへ顔を向けると、男も同じ方を見た。店の光が届く先で、葉の影が動いている。それを見ている俺より、入ってきた男の方が、今夜の道のことは知っている。
「そうか。なら、時間を聞く相手が違ったな」
「持ち方を変える物なら、あります」
俺は冷凍ケースを閉めてから、夏物の日用品の棚へ案内した。折り畳まれた保冷バッグを一つ取る。男のかごは重そうだったが、こちらへ任せず自分で持ってきた。俺が包装越しに内側の写真を示すと、かごを床へ下ろして顔を近づける。
「これは冷たい物へ外の熱が伝わりにくくなる袋です。氷を入れて、口を閉じて使います」
「溶けるのが遅くなる?」
「そういう使い方です。これでも冷凍庫の代わりにはならないですけど」
「袋だけで冷やすのではないのだな」
「はい。冷たい物を入れて使います」
男は包装の上から持ち手を確かめ、底の幅を見た。次に水のかごを見る。バッグ自体は軽くても、入れる物まで軽くなるわけではない。額を少し寄せ、氷の重さを聞いてきた。
「一袋、一キロです」
「八つで八キロ。水は三リットル」
声に出してから、男は自分の腰の水筒にも手を添えた。それを含めれば、さらに重くなる。俺は返事を挟まず、男が計算を終えるのを待った。
「道を見る者が、両手へそれだけぶら下げては歩けない」
「荷車が近くまで来られるなら、別かもしれませんけど」
「来る前に私が歩く。今夜は違う」
八つ買って帰る案が、そこで消えた。男は残念そうに氷を見に戻ったが、水のかごからボトルを減らそうとはしなかった。代わりに、氷を一袋だけ取る。
「まず、これで試す」
「一つですね」
「なくても歩ける物のために、水を減らすのは違う」
保冷バッグをかごへ重ねる時にも、氷の袋は強く押さえ込まなかった。溶けることを知ったあとでは、透明な袋の薄さも気になるらしい。指の爪を浮かせ、角の当たり方を見ている。
「これを八つ買う前でよかった」
「俺も、聞いてよかったです」
「何をだ」
「どこで使うのか、です」
男は俺の顔を見て、短く頷いた。褒められたというほどではない。それでも、最初に余計なことを決めつけるなと言われた時より、次を聞きやすかった。
レジへ向かう途中、男は塩味の飴の前で立ち止まった。汗をかく時向けの商品だと伝えると、水分の代わりにするつもりはないと言って一袋を取る。食べ物は仲間の荷車にあるらしく、パンや菓子をさらに増やすことはなかった。
「私が持つのは、道を見る間に要る物だ」
「氷は、今回は試す分」
「そうだ。使えなければ、次は持たない」
会計台へ載った物を見直した。水が四本、スポーツ飲料が二本、氷一袋、保冷バッグ、飴一袋。俺は冷たい氷を先に読み取り、支払いを案内した。男が銀色と銅色の硬貨を取り出す。精算機の表示が変わったところで、入れかけた一枚が指の間に止まった。
「もう足りてます。お釣りは下へ出ます」
「……本当に、この金を数えるのか」
「はい」
男は受け皿の硬貨を確かめた。ずっと落ち着いていたので慣れているように見えたが、初めての機械を何とも思っていないわけではなかった。釣り銭を革袋へ戻してから、もう一度表示を見ている。
「便利だな」
「そこは、俺も毎回そう思います」
今度は余計なことを言わずに済んだ。俺は保冷バッグの包装を開けてよいか確認し、男が頷いてから広げる。畳まれていた底を押し開くと、銀色の内側へ蛍光灯が映った。
「氷を入れますね。水も冷たいまま持つなら、入る分を一緒に」
「六本、全部は厳しいか」
「無理に詰めるより、口を閉められるようにしましょう」
氷の横に水を二本、スポーツ飲料を一本収める。残った水二本とスポーツ飲料一本は別の袋へ入れた。男は保冷バッグの口を閉じ、持ち上げてから少し歩幅を取った。店内を歩き回るのではなく、その場で腕を振った時に腰の水筒とぶつからないか確かめている。
「こちらを外側にすれば、持てる」
重い方のバッグの位置を変えると、空に近い水筒が揺れた。男はその紐も少し短くし、もう一度両方の袋を持った。俺が全部を一つに詰めていたら、この確認もできなかっただろう。
「一つ聞く。溶けた氷の水は飲める物か」
「元は食用の氷です。ただ、袋が破れたり、汚れが入ったりした水は飲まないでください。持ち歩いたあとの状態までは、ここでは分からないので」
「飲み水として数には入れない方がよいか」
「今日は水を冷やすため、でしたよね」
「ああ。それが先だ」
男は頷いて、袋の底に傷がないかを最後に確認した。買う前より用心が増えたが、八袋を一袋に減らしたことへ不満を言う様子はない。俺はカウンターへ置いたままだったレシートを差し出した。
「これもどうぞ」
「紙の数字は、支払った分か」
「そうです」
男は受け取った紙を財布の方へ収めた。氷の袋とは一緒にしない。その手元を見てから、俺は少し迷って声をかけた。
「次に来た時、氷がどうだったか教えてもらえますか」
「店員も知りたいのか」
「はい。今夜の持ち方でどうだったか、気になります」
「なら、伝えよう」
「ありがとうございます。お名前、聞いても?」
「サハル・レーン」
名乗った声は、水を探した時と同じ静かな声だった。俺も瀬尾悠斗だと名乗り、横の先輩を紹介する。榊原先輩が手を上げると、サハルさんは二人を順に見た。
「道と名前は覚える。次に来た時、呼べばよいな」
「はい。俺か先輩に」
サハルさんは首の布を直し、両方の袋を持った。出口へ向かう歩幅は、入ってきた時よりわずかに小さい。それでも荷物に引かれてふらつくことはなく、ドアの前まで一度も止まらなかった。
「ありがとうございました。お気をつけて」
開いた扉から湿った風が入った。サハルさんは外へ一歩出て、顔を上げる。すぐ森へは進まず、保冷バッグの口をもう一度指で押した。
「店の中より暑いな」
「やっぱり、そうですか」
「ああ。まず一袋でよかった」
それを最後に、砂色の背中が店の明かりから離れた。片手のバッグだけが揺れ方を変え、やがて木々の向こうへ見えなくなる。ドアが閉まっても、俺の掌にはさっき触った氷の冷たさが少し残っていた。
「先輩。最初に聞いておいてよかったです」
「何分持つかって話?」
「はい。何分って、答えを用意しようとしてたので」
「八袋持ってったら、お前の答えより腕が先に困っただろ」
「一袋でも、水と合わせると重かったですけどね」
俺は空いたかごを戻し、冷凍ケースへ回った。八袋あった氷が七袋になっている。隣のアイスは動いていない。氷だけを手前へ寄せ、サハルさんが袋の底を確かめたのと同じように、角が挟まっていないか見てからガラスを閉めた。