芦名 雅 / 第159話
第52話 一分も待てないドワーフ
「今は待てるぞ」
ドワーフはそう言って、まだ動いてもいない機械の前で腕を組んだ。俺は彼の手にある冷凍カップを見た。会計は済んでいるが、蓋も剥がしていない。何を急いでいるのかと思えば、どうやら俺が口にした「一分」が気に入らなかったらしい。
「三分より短いですけどね」
「短いのは分かる。待てるとも言っている」
「じゃあ、まず蓋からお願いします」
午前一時過ぎのミッドマート北森店。レジ横の端に、昨日からスムージーの機械が置かれていた。すぐ近くの冷凍ケースには専用のカップが入り、赤や黄色の凍った果物が透明な蓋越しに見える。昨日休みだった俺は、今日の出勤後にマニュアルを読み、先輩から操作を教わったばかりだ。新しい機械の最初の案内相手が、あの三分を数え切った客になるとは思っていなかった。
その少し前、客が来たのは、俺が冷凍カップを前へ出していた時だった。短く刈った灰褐色の髪と、二本に編んだ髭の先の真鍮の輪。低い背丈より先に、厚い革の前掛けと大きな肩が目へ入る。いつもならカップ麺の棚へ向かうのに、今回は入口から数歩で足が止まった。
「何だ、あれは」
「飲み物を作る機械です。そこの凍ったカップを使います」
そう説明した途端、ドワーフは麺の棚へ向けかけた足を戻した。機械の横へ回り、透明な扉に顔を近づける。中のカップを置く所を見下ろす時、腰の金槌が台へ当たりそうになり、自分で脇へ押さえていた。
「中で砕くのか?」
「果物と氷を混ぜて、飲める状態にします」
「何が回る。刃か、器か」
「動かすところは見せられますけど、中の仕組みを全部説明するのは無理です。俺も分解してませんから」
「お前たちは、やはり開けずに使うんだな」
言いながら、男は扉の縁に指を置きかけ、俺を見て離した。前にシャープペンシルの軸を捻ろうとした時と同じ目だ。ただ、今日は勝手に開けなかった。俺が示したマニュアルの絵を確かめ、次に冷凍ケースの前へしゃがんだ。
「試すなら、どれを買う」
「使うのはこの専用のカップです。味は三種類あります」
赤い果物の見えるカップを持ち上げると、太い指が透明な側面へ回った。いちごとバナナの名前を伝える。いちごは知っているが、バナナは知らないらしい。黄色くて甘い果物だと答えると、男はカップを少し傾け、氷の間に挟まった薄い黄色を探した。
「お前は、これを飲んだか」
「まだです。飲んだ感想までは言えませんけど、甘めの味だという案内は出てます」
「なら、自分で確かめる」
緑色のカップにも一度目をやったが、最初に選んだ赤い方だけを持ってレジへ来た。俺が商品を読み取る間、男は精算機じゃなく、スムージーの機械を見ている。お釣りを取り忘れそうだったので受け皿を示すと、太い眉が少し上がった。
「まだ動かしませんから」
「分かっている」
硬貨をしまって戻ってきたところで、待ち時間が一分ほどだと伝えた。その返事が、「今は待てる」だった。
俺が蓋の端を示すと、ドワーフは太い指の爪を使ってつまんだ。勢いよく剥がしかけるものの、中の果物が動いたのを見て手を緩める。カップ麺の蓋を大きく開けすぎた時と違い、今回は途中からゆっくり引いた。
「これなら、剥がし切ってよいのだな」
「はい。蓋は全部外します。麺とは違うんで」
「分かった」
剥がした蓋を脇へ置き、男は中を覗いた。冷えた空気の向こうに、果物と氷がまだ固まった形で残っている。鼻を近づけても、熱い麺のようには匂わないらしい。
「甘い匂いはせんな」
「凍ってますからね。できたら変わると思います」
「これを、このまま機械へ?」
「そうです。扉を開けますね」
俺は本体の扉を開き、カップを置く場所と向きを指した。男が入れると、大きな手が枠に近くなる。奥へ力任せに押し込もうとはせず、底が収まる位置を指で探している。機械を見る時だけは、同じ人とは思えないくらい動作が細かかった。
「ここまでか」
「はい。手を出してから、扉を閉めます」
閉まったのを確認し、光っているボタンを示す。動いている間は扉を開けず、終了の表示が出てから取り出す。その二つを伝えると、男は短く頷き、太い人差し指をボタンへ置いた。
「一分だな」
「この表示が終わるまでです」
「では、見る」
押した途端、低い作動音がした。続いて氷を砕く音が響き、ドワーフの髭が胸から少し浮く。身を乗り出したが、指は扉へ伸ばさなかった。腕を組み直し、中へ顔を向ける。
「おお……崩れるな」
赤い果物と白い氷が混ざり、カップの中の色が変わっていく。男の視線が中身から数字へ移った。
「五十八、五十七、五十六……」
「やっぱり数えるんですね」
「減っているか見ている」
「そこは俺も見えます」
返事はなかった。数字が進むたび、低い声だけが律儀についていく。俺が先輩を見ると、先輩は袋の束を揃えながら、口の端を少し上げていた。
途中で音の調子が変わった。ドワーフの声がそこで止まる。止まっていた時間は短い。けれど数字へ戻った時には、二つほど飛んでいたらしい。眉間に皺を寄せ、また中を見ている。
「今、変わった」
「音ですか」
「混ざり方もだ」
言われて俺も中を見た。細かなところまでは分からないが、最初にあった果物の角はもう見えなかった。あと十秒になると、男は中身と表示を交互に見始める。最後だけ「三、二、一」と聞こえ、終了音が鳴った。
音がなくなると、冷蔵ケースの低い唸りが戻ってきた。ドワーフは扉に手を掛けず、俺を見た。
「これで、開けるのか」
「はい。取り出していい表示になりました」
男は頷いて扉を開き、カップを引き出した。赤と黄色だった中身は、淡い赤色の飲み物になっている。少し傾けても水のようには動かず、ゆっくり側面へ寄った。
「ちゃんと一分だ」
「疑ってたんですか」
「確かめた」
俺は太いストローを渡した。男は袋から出した先を見て、普通の水を飲むには大きいと思ったのか、カップと見比べている。中へ差し込んで吸うと説明すると、一口目だけ慎重に口へ運んだ。
吸い込む頬が少しへこむ。すぐ飲み込まず、味を確かめるように口を動かしてから、太い眉が上がった。俺が訊く前に、もう一口が続いた。
「冷たい。甘いな」
「気に入りました?」
「いちごだけではない」
「黄色い方がバナナです」
「この柔らかい甘さか」
男はカップを目の高さへ持ち上げた。飲み物を透かしても、さっきの黄色い果物は見つからない。それでも別の味があると分かるらしく、今度は短く吸った。
「細かい粒が残る」
「果物の粒が残る飲み物なんです。全部さらさらの水にはなりません」
「なるほど。砕けば終わりというわけでもないか」
機械へ顔を戻したので、俺は先回りして「開けて中を調べないでくださいよ」と言った。ドワーフは口からストローを離し、心外そうに俺を見る。
「買ったのは飲み物だろう」
「分かってるならいいです」
「筒の方は、買ったから開けた」
「シャーペンの話ですか。やっぱりその後に開けたんだ」
男は答えず、カップの中身をもう一口減らした。先輩がとうとう小さく笑う。俺が振り返る前に、何食わぬ顔で伝票へ戻っていた。
赤い一杯を飲み終えるまで、男は機械のそばを離れなかった。飲む間隔は最初よりゆっくりになったが、視線は操作ボタン、扉、カップの置き場所へ何度も動く。次の客が来た時に邪魔にならないよう少し横へ寄ってもらうと、素直に足をずらした。その場からなら、冷凍ケースの別の味も見える。
「緑の方は、同じ機械で作るのか」
「そうです。材料が違いますけど、専用のカップなら」
「葉が入っているな」
俺は表示を確認し、葉物と果物の入った種類だと伝えた。男は空になった赤いカップを見てから、ごみ箱の方を顎で示す。捨てる場所を教えると、ストローもまとめて片付け、両手を空けて戻ってきた。
「次は、こちらを一つ」
「比べるんです?」
「ああ。中身が違っても、一分で同じようになるのか」
「味も変わりますよ」
「それも確かめる」
二度目の会計を済ませると、今度は男が自分で蓋を外した。さっき使った場所へカップを収め、俺を見る。頷くと扉を閉め、光ったボタンを押した。説明は一回目よりずっと短い。それでも作動音に負けない声で「五十八」と始まったので、俺は思わず肩を落とした。
「そこまで同じにしなくても」
「今度は、音が変わるところを見る」
男は一つの数字も聞き逃すまいとするように表示を見ていたが、中身が動き始めると、またそちらへ目が移った。声は続いているのに、時々ひとつ飛ぶ。途中から数え直そうとはしなかった。
俺はレジへ戻り、先輩が揃えた袋を所定の場所へ入れた。機械の音越しに、低い秒読みがまだ聞こえる。先輩がちらりとそちらを見る。
「お前も数えれば」
「嫌です。もう二回目ですよ」
「じゃあ、あと何秒だ」
反射的に表示を見てしまった。残り十秒。返事をする前に、ドワーフが九から先を読み始める。最後の一だけ、俺の口まで動いた。
「今、乗っただろ」
「……音につられたんです」
機械が止まり、ドワーフは終了表示を確かめてから扉を開いた。取り出した緑色のカップへ新しいストローを入れる。今度は迷わず飲んだが、その一口で顔が止まった。
「どうです?」
「草」
「……野菜の方が強いですか」
「草だ。だが甘い」
捨てたり戻したりはせず、もう一口飲む。今度は少し長く口に含み、カップへ目を落とした。
「赤い方がうまい」
「好み、決まりましたね」
「これも飲める。だが次は赤だ」
どちらも同じ一分だったのに、味の評価は違うらしい。男はその後、緑の方も残さず飲んだ。途中で一度だけ、透明なカップ越しに底を確かめる。俺が理由を訊くと、「粒がどのくらい残るか見ている」と返ってきた。
「道具も食べ物も、ずっと確認してますね」
「見たことのない物を売っているからだろう」
「それはそうなんですけど」
「お前は、赤と緑のどちらを飲む」
不意に訊かれて、俺は冷凍ケースを見た。今夜の客の顔だけなら赤がよさそうだ。でも葉物の甘い飲み物というのも、少し気になってきている。
「……まだ決めてないです」
「なら、俺に聞くな。飲めば分かる」
先輩まで同じことを言いそうで、振り返るのはやめた。ドワーフは空のカップを捨て、今度はカップ麺の棚へ向かった。豚骨味を一つ取り、蓋の模様を確かめている。
「三分のやつだな」
「はい。今、食べます?」
「二杯入った。これは持って帰る」
スムージーも腹に溜まるらしい。男は麺を抱えたまま、もう一度冷凍ケースを見た。
「凍ったカップを持ち帰っても、あの機械が要るのか」
「はい。途中で溶かさずに保管する必要もありますし、作るにはこの機械を使います」
「なら、赤いのは次に来た時だ」
六個のカップ麺をまとめて買った時と違い、今回はそれで済んだ。文具棚では替え芯を一つ選ぶ。前に買った物と同じか確かめるために、俺は表示の太さを見てから渡した。
「また折りました?」
「折ってない。減るんだ」
「ああ、使ってるから」
「道具は、そのために買う」
ノートと消しゴムはまだあると言って、追加はしなかった。麺一個と替え芯一つを会計すると、男は柔らかいカップと細い芯の箱が潰れないよう、布袋の中の位置を変えてしまう。帰り支度には、秒読みの時の騒がしさがなかった。
「次も一分なら待てます?」
「待てる」
「数えずに?」
ドワーフの手が止まった。俺から機械へ目が動き、もう何の数字も出ていない画面を見る。
「表示があるなら、見る」
「見るだけ?」
「数える」
「ですよね」
笑うと、男は大きく鼻を鳴らした。怒ったわけではなさそうだった。袋を持ち上げ、金槌を腰の脇へ戻して入口へ向かう。自動ドアが開いた時、髭飾りが店の明かりを小さく返した。
「もっと速い物が来たら教えろ」
「次の機械が来る予定はないです」
「では一分でいい。また来る」
「ありがとうございました」
ドアが閉まると、急に静かになった。俺は機械の周りに残った水滴を拭き、カップを置く所を確認した。赤と緑が一つずつ売れたあとも、ケースには黄色い果物の味が残っている。
「先輩、帰りに一杯買ってもいいですか」
「客なら好きにしろ」
「赤と緑、どっちがいいですかね」
「知らん。飲んでねえ」
今夜二回聞いたような答えだった。俺は布巾を畳み、機械の前から離れた。どれを飲むかは、仕事が終わってから決めればいい。そう思ったのに、冷凍ケースを閉じる前に、三つの味をもう一度だけ見比べてしまった。