芦名 雅 / 第161話
第54話 虫よけ、効くとは言い切れません
フェルドさんは、前に売ったヘッドライトを胸元から外して見せた。黒い本体の角に少し擦れた跡がある。茶色の短外套から垂れたバンドをまとめる手つきは、初めて頭へ通そうとした時よりずっと迷いがなかった。
「これと同じ電池をくれ」
「はい。使えてるんですね」
「森では強い方、開けた道では弱い方だ。一度替えた」
午前一時二十一分。俺は品出しの箱を棚の下へ寄せ、日用品のフックを示した。狼獣人の運び屋、フェルド・ガラン。大きな配送鞄が通路側へ出ないよう身体を斜めにすると、右耳の先の小さな欠けが照明に浮かんだ。
「六本入りなら、交換二回分ですね」
「ああ。それでいい」
ライトの表示と電池を確かめ、渡す。説明はそれだけだった。前は電池が要ることから話して、バンドを耳に触れない位置へずらし、外で光を試すところまで見た。今日はかごに電池が収まるまで、一分もかからない。
フェルドさんはライトを再び胸元へ掛け、パンを二つ、水を一本取った。ここまでの買い物なら、もう俺を呼ぶ必要もない。俺は空いた箱を片付けようとしたが、名前を呼ばれて立ち止まった。
「瀬尾。これも道で使う物か」
示されたのは入口近くの虫よけ棚だった。ミストや小さな携帯用の商品が、夏向けの札の下へ並んでいる。その向こうのガラスには小さな羽虫が止まり、店の明かりを頼りに動いていた。
「虫よけです。虫が寄りにくくなるように使います」
「効くのか」
「何の虫に、です?」
フェルドさんの耳がこちらへ向いた。答えがすぐ返ってこないとは思わなかったらしい。水のかごを足元へ下ろし、今度は正面から棚を見る。
「川沿いで集まる羽虫だ。刺すものもいる」
「向こうの道にいる虫ですよね。その虫に効くかは、俺には分からないです」
「効かない、と言っているのではないのか」
「はい。こっちで使う商品なので、同じように効くか試したことがないんです」
フェルドさんは返事を急かさず、棚のボトルを見た。しばらくして片手を上げ、親指と人差し指の間を開く。俺が思い浮かべた小さな羽虫より、大きい隙間だった。
「このくらいだ。目の前へ来る。払うと、荷を持ち直すことになる」
もう片方の手が配送鞄のベルトに掛かっていた。虫が嫌だというだけじゃなく、荷物を運ぶ邪魔になるのだろう。俺はボトルの効能を読む前に、肩から下がる鞄と、フェルドさんの顔の間を見た。
「目に入るのを防ぎたいからといって、顔へ直接吹かないでくださいね」
「顔には使えない?」
「少なくとも直接吹きかけるのは駄目です。それと、毛や肌に合うかも、俺には判断できません」
灰色の短い毛に覆われた手が、ボトルへ伸びかけたまま止まる。レジの中の榊原先輩も伝票から顔を上げていたが、俺たちの話へ割って入らなかった。
「では、何に使う」
「衣類に使える物もあります。この辺です」
俺は表示を見比べ、衣類にも使えると書かれたミストを一つ取った。フェルドさんは短外套の裾をつまむ。俺も布地と、肩に触れている革のベルトを順に見た。
「その布に使えるか、注意書きを確かめます。革の部分まで一緒にかけない方がいいです」
「荷物には、かけない」
短い言葉だったが、そこだけ声がはっきりした。鞄の中身が何かを聞く代わりに、俺はボトルを持ち直す。どう使う物かを先に全部話すつもりだったが、この人が避けたいことを聞かなければ、選べる物も決まらなかった。
「匂いが移るのも困りますか」
「困る」
「なら、香りを付けてない方があります。ただ、無香料でも無臭ではないです」
隣の小さいボトルを示した。フェルドさんは二つの形を比べ、無香料と伝えた方へ指を置く。開けて嗅ぐようなことはしなかった。値札へ目を動かし、次にポンプの頭を見ている。
「匂いが付いていなくても、液には匂いがあるのか」
「あります。鼻に近い所で使えば気になるかもしれません」
「荷へ移るほどか」
「そこまでは分からないです。どんな物へ触れるかでも違うと思うので」
答えてから、また分からないばかりになった気がした。フェルドさんは怒らなかったが、ボトルを棚へ戻しかけた。俺は慌てて引き止めず、まだ確認している表示を読んだ。
「使うなら、荷物と外套を離して、目や口に入らないように。布の目立たない所で先に確かめて、濡れたまま荷へ触れないようにしてください」
「外套を脱ぐ」
「その方が荷物とは離せますね」
フェルドさんは鞄のベルトを引き、外套が挟まっているところを確かめた。頭の中だけでなく、実際に脱ぐ手間まで考えているようだった。ライトの時には明るさを確かめればよかった。こちらは、小さなボトル一つで済むほど話が簡単ではない。
「どれだけ保つ」
「この商品は、使う時の注意に従って、必要に応じて使い直す形です。向こうの虫に何時間効く、とは言えません」
「途中で濡れる」
「それもありますよね。俺から、今夜の道をずっとこれで通れるとは言えないです」
フェルドさんの指が、外套の端を離した。入口のガラスへ虫が一匹ぶつかり、乾いた音がした。二人とも一度そちらを見て、それから棚へ戻る。
「遠回りをすれば、川沿いを避けられる」
「でも、時間がかかるんですね」
「ああ。荷は待つ」
ただの買い物だと思っていた時間が、少しだけ重くなる。俺は道を知らない。どちらを通れとも言えなかった。手元で確かめられるのは、ボトルの大きさと表示までだ。
「だったら、これが効くつもりで予定を詰めない方がいいと思います」
フェルドさんは俺を見た。売りたいのか止めたいのか、分からない言い方に聞こえただろうか。俺は目を逸らさず、持っている小さい方を示した。
「試す一つとしてなら選べます。でも、ライトと同じ確かさでは勧められません」
「灯りは、点ければ見えた」
「はい」
「虫が来ないかは、道へ持っていかなければ分からない」
言いながら、フェルドさんはボトルを手の中で返した。肩の鞄と比べれば小さい。持ち手を握った時にも邪魔にならない位置へ入るか、手を動かして確かめる。
「一つだけ買う」
「分かりました」
「効かなければ、次は買わない。それでよいのだろう」
「もちろんです」
返事をすると、ボトルがかごへ入った。隣の携帯用の商品も見ていたので、それも説明しようかと思ったが、フェルドさんが先に首を振る。
「二つあれば分かりにくい。どちらを使ったか分かる方にする」
「では、今回はそれ一つで」
ここで俺まで、念のため何かを加えようとしなくてよかった。フェルドさんはもう虫よけ棚から離れかけていたが、今度はボトルのロックが気になったらしく、指先をポンプへ置いた。
「鞄の中で押されないか」
「ここにロックがあります。持ち歩く時は閉めてください。それと、前のチャック付きの袋は残ってます?」
「ある。予備の電池を入れている」
「それとは別の袋にしてください。液が漏れても、電池や荷物と一緒にならないように」
フェルドさんは肩の鞄を前へ回した。中を全部開けず、上の小さなポケットだけを指す。前に買った保存袋はまだ残っているらしい。追加で売る必要はなかった。
「空いている袋を一つ使う。電池とは分ける」
「はい。その方がいいです」
電池の説明が一言で済んだのと同じだった。一度売った物が、もうこの人の荷物の一部になっている。俺はかごを受け取り、レジへ戻った。
六本入りの電池、惣菜パン二つ、水一本、虫よけミスト一つ。商品を通す音が五回続く。支払いを案内する間、フェルドさんは手元に残すミストの向きを確かめていた。
「袋は、今回も要りません?」
「いらない。虫よけだけ手元に残す」
「外で試すんですか」
「ああ」
「入口から少し離れてお願いします。店の中へ吹き込むと、商品にもかかるので」
フェルドさんは頷き、釣り銭を財布へ戻した。パンと水を鞄へ収め、電池は上側のポケットへ。ミストは、俺がロックの位置を指した時に、一度閉めてから開く向きを確かめる。
「ここを戻せば、押せなくなる」
「はい。使ったあとも戻してください」
ポンプが押されないのを確かめると、フェルドさんはそのまま入口へ向かった。俺は次の会計ができるようかごを片付け、空いたカウンターを拭いた。ガラス越しに見える茶色の外套が、明かりの届く端で止まる。
フェルドさんは鞄を足元へ置き、胸のライトを外して小さなポケットへしまってから、外套を脱いだ。片手で布の裾を広げ、顔から離して吹きかける。俺には細かな霧までは見えないが、ボトルを向けている先が自分の顔ではないことは分かった。
「先輩。あれ、仕事へ持っていく道具としては、手間が増えますね」
「だから考えて買ったんだろ」
「ライトの時はすぐ決まったので」
「別の物だからな」
確かにそうだった。俺は布巾を折り直した。外ではフェルドさんがすぐに着込まず、布を離して持っている。途中で何度か鼻先を向け、顔の位置を変えた。やがてボトルを閉め、乾いた布の状態を確かめてから荷物を持つ。
そのまま森へ行くと思ったが、ドアがもう一度開いた。フェルドさんはまだ外套を腕へ掛け、ミストを持った手だけをこちらへ上げる。
「匂いがする」
「無香料でも、残りますよね。苦手でした?」
「思ったより強い。付けた香りではなく、これの匂いだな」
ボトルを小さく持ち上げる。俺は身体の調子が悪くなっているのではないかと顔を見たが、耳も呼吸も先ほどと大きく変わらない。それでも我慢すればいいとは言わなかった。
「気分が悪くなるとか、つらいようなら使わないでください」
「今は、そこまではない。だが荷物には近づけない」
フェルドさんは表示の面を俺へ向けた。日本語を読めない人が、さっきの説明をもう一度確かめに来たのだ。俺は無香料の文字を指し、香りを加えていないという意味で、全く匂わない約束ではないと短く伝え直した。
「分かった。匂いも、使うか決める条件に入れる」
外套が鞄へ触れないよう、持ち替える。その動きを見ていると、効くかどうか以外にも、道具を使い続けるには条件があると分かった。軽くても、毎回荷へ匂いが移るのでは困る。この人の鞄に収まれば、それで役目を果たすわけではなかった。
「もう少し離して置いておく。すぐには着ない」
「はい。出口を塞がない場所なら」
フェルドさんは入口脇へ寄り、荷物と外套を離したまま短い間を過ごした。俺はその間にパンの列を直す。彼が鼻先を何度も近づけているかを、ずっと見張ることはしなかった。棚の隙間から姿が見えた時には、もうボトルが別の保存袋へ収まっている。
「瀬尾」
「はい」
「灯りは、持つだけの価値がある」
鞄から取り出したヘッドライトを、フェルドさんが指で叩いた。ミストの方は、鞄の別の場所へ入っている。
「虫よけは、今夜から決める」
「次に来たら、どうだったか教えてください」
「ああ。ただ、違う道では分からない」
「その道でどうだったかでいいです」
そう返すと、フェルドさんは短く頷いた。俺が知らない範囲を何度も言い直す前に、客の方で話の範囲を決めてくれた。礼を言うつもりで頭を下げると、彼はもう荷物を持ち上げていた。
外套を着直し、鞄を背負ったあと、ヘッドライトのバンドを頭へ回す。耳に触れない位置は自分で分かっている。店の中では点けず、ドアが開いてから白い光が足元へ落ちた。
「ありがとうございました。道、気をつけて」
「仕事だからな」
前と同じ答えだった。フェルドさんは開けた入口前を進み、木々へ入る手前で光を強くした。白く照らされる地面が少し先へ延び、その中を大きな鞄が揺れていく。
「使えるといいですね」
「次に聞けば」
先輩が言った。効くとも効かないとも、今は分からない。それでも、聞けばと言われたのは少し嬉しかった。俺は入口へ残った空のかごを戻し、虫よけの棚へ回る。
無香料の小さなボトルが、一つ減っていた。奥から同じ商品を前へ寄せる時、隣の香り付きと入れ替わらないよう表示を見た。次にフェルドさんが買うかどうかは、まだ決まっていない。俺はラベルをこちらへ向け、隣の商品と同じ列に混ざっていないか確かめた。