芦名 雅 / 第137話

第39話 ドワーフ、シャーペンの芯を折る

「三分だな」  豚骨味のカップ麺を受け取ると、ドワーフは俺が言う前にそう確かめた。午前零時三十二分。ミッドマート北森店の給湯器の前で、太い指が蓋を半分まで開ける。湯は線まで。閉じた蓋のそばへ、貸したタイマーを置いた。 「はい。鳴るまでです」 「もう知っている」 「今、三分って確認しましたよね」 「三分より長いものもあるだろう」  言い返せなかった。以前、五分の大盛りを棚へ戻し、三分のものだけ買っていった人だ。灰褐色の短髪に、二本へ編んだ長い髭。真鍮色の輪が髭の先で動き、赤銅色の腕には今夜も革の前掛けの紐が掛かっている。腰の金槌は、歩くたびに手袋へ当たって鈍い音を立てた。  最初の夜なら、タイマーを睨んでいたところだ。今夜の客はフォークをカップの横へ置き、そこを離れた。俺がつい目で追うと、レジの榊原先輩が鼻を鳴らす。 「誰目線だよ」 「まだ何も言ってません」 「待てるようになった、とか言いそうだった」  半分は当たっている。でも、男は俺たちに褒められるために待っているわけではない。カップ麺に背を向け、入口近くの文具棚で足を止めていた。 「店員。これは筆か」  呼ばれたので近づくと、透明な包装の中のシャープペンシルを指していた。細い軸の中に部品が見える商品だ。俺が字や線を書く道具だと伝えると、男は包装を開けずに目へ近づけた。 「毛はないな。中の黒い棒を使うのか?」 「はい。後ろを押して、少しずつ芯を出して書きます」 「見せてくれ」 「売り物は開けられないので、私物を持ってきます。ちょっとだけ待ってください」  先輩へ一言断り、バックヤードの鞄から自分のシャーペンを出した。黒いノートは開かず、中に残す。レジへ戻り、端の白紙で一度だけ芯を出して見せると、ドワーフは顔を近づけた。 「削らずに出るのか」 「減ったら、また押します。中の芯がなくなったら補充です」 「筒は捨てない?」 「壊れなければ、そのままです」  芯を戻すところまで見せようとした時、給湯器脇でタイマーが鳴った。ドワーフの顔が上がる。二人でそちらを見て、俺は私物のシャーペンをいったん引いた。 「先に食べてください。道具は逃げないので」 「それもそうだな」  男は本当に先に戻った。タイマーを止め、蓋を外してフォークで麺をほぐす。最初の一口を口へ運ぶと、髭の編み目が少し揺れた。急いで食べ終えようとしているのかと思ったが、二口目はちゃんと湯気を逃がしてからだった。  俺は私物のペンをレジの内側へ戻した。カップ麺の三分間に、店の案内も道具の説明も全部済ませる必要はない。男は食事の途中でも文具棚へ目をやっていたが、口に麺を入れたまま質問はしなかった。  空の容器を片付けると、今度こそこちらへ戻ってきた。 「その道具を一本と、替える芯。それから書く紙を」 「ノートなら、こちらです。芯は、このペンに合う同じ太さのものを選びますね」  男は薄いノートを一冊取った。裏側の紙で試せばよいと言いかけたが、本人がちゃんと残す紙を欲しがっているのを見てやめた。シャープペンシル一つ、替え芯一ケース、ノート一冊をレジへ通す。  赤茶けた硬貨を精算機へ入れ、支払いが終わってから、男は包装を開いた。抜き出した細い軸を、最初は金槌の柄のように握った。ノートを台へ開き、後ろを何度か押す。黒い芯が長く出たところで、俺は手を上げた。 「出すのは、少しだけでいいです。長いと折れやすいので」 「なら戻す。さっきのは、どうやった」 「後ろを押したまま、先をそっと押し戻します。私の方で見せますね」  自分のペンで一度やってみせた。男はすぐに真似をする。後ろのボタンを押している間に芯が動き、指を離すと止まる。その違いを二度確かめ、ようやく納得したように頷いた。 「中で掴んでいるのか。ここを開ければ見えるな」  軸を捻ろうとして、俺の顔を見た。もう会計は済んでいる。それでも俺は首を振った。 「分解したあと戻せなくなっても、俺は直せませんよ。まず書いてみてからでどうです?」 「……先に使う方か」  手が止まった。男はノートを開き直し、芯を短く出して先端を当てる。点が付く前に、ぽきりと折れた。 「折れたぞ」 「もう少し、力を抜いてください」 「まだ線を引いていない」 「押さえたところで折れたので」  男は折れた小さな先を見た。指で拾おうとして、爪の間へ入り込む。俺が紙片を寄せると、その上へ落としてから、もう一度ノックした。  今度は少し角度を変えた。紙へ当て、短い線が付いたところで、また乾いた音がする。男は眉を寄せたが、ペンを投げたり、台を叩いたりはしなかった。書きかけた黒い線をよく見ている。 「さっきより軽くした」 「芯にはまだ強かったんです。彫るように押し込まなくても色は付くので」 「木へ筋を付けるつもりで持つと、駄目か」 「紙に、触れるくらいから試してみません?」  俺は自分のペンを指先で持ち、余った白紙へ軽く線を引いた。力の強い弱いを言い合うより、紙へどのくらい当てているか見える方が早かった。男は俺の手首を見る。次に、自分の肘の位置を変えた。 「このくらいか」  線が一本、今度は端までつながった。俺が声を出すより早く、男はその下へ二本目を引いた。三本目は途中で濃くなる。紙をめくろうとしてからやめ、その濃い所の裏に凹みがあるか確かめた。 「ここだけ、まだ押しているな」 「書けてますけど、そこでもう少し抜くといいと思います」  男は何も返さず、もう一度同じ長さの線を引いた。折れない。先輩がレジの奥から一度こちらを見たが、口は挟まなかった。俺も、一線ごとに褒めるのはやめた。  線が三本並んだあと、先が丸く欠けて濃さが変わった。男はその先端を見ようとして顔を近づけ、また後ろを押した。今度は一回だけだった。 「長く使いたいから、多く出すと思った」 「中には残ってます。使う所だけ出せばいいんです」 「金槌の柄を長く出すのとは違うな」 「その例えは、俺にはちょっと」  俺が困ると、男も少し笑った。自分が知っている道具に近づけて考え、違うと分かるたびに持ち方を直している。太い指だから不器用なのではなく、今は初めて扱う細さなのだった。  ノートへ四角と丸が描かれた。次に短い線が二つ。男が斜めからそれを見たので、俺も気になって尋ねた。 「何かの形ですか」 「留め具だ。こっちの曲がりを浅くすれば、外しやすいかと思ってな」  紙の上の一方を示す。横には少し違う角度のものが描かれていた。俺にはどちらが使いやすいか分からないが、男が二つを比べているのは分かった。 「打ってから違うと言うより、紙の上で見たい」 「その細さなら、形をいくつも並べられそうですね」 「ああ。……ここは、もう少し濃くしたい」  指に力が入りかけたので、俺は口を開いた。 「強く押すより、線を重ねてみてください」 「また折ると思ったか」 「さっきの三本を見たので」 「二本だ。最後の一本は書けただろう」  訂正された。俺は折れた芯を寄せた紙を見る。たしかに二つだった。 「すみません。成功した方まで足しました」 「そっちは忘れるな」  先輩が吹き出した。ドワーフも口元を少し上げ、濃くしたい部分へ短い線を重ねる。力を増やさずに黒い所ができると、目を近づけて見ていた。 「もっと太いものはあるか」 「太さの違う製品はありますが、今この店にあるシャーペンはこれです。この一本へ、太い替え芯だけ入れることはできません」 「筒に合わないわけだな」 「はい。同じ太さの芯を使います」  男は買った替え芯のケースをペンへ並べた。表示の小さな数字を尋ね、ノートの端へ俺の書いた見本を写す。次に補充する時、どのケースを選べばいいか残しているのだと分かった。 「入れるところも、見ておく」  そのペンの後端のキャップと、小さな消しゴムを外す手順を示した。外した部品はまとめて台へ置き、一つ芯を補充してから元へ戻す。男は小さな部品をなくさないよう、ノートの上へ戻した数も見ていた。 「これも、外れるのか」 「はい。ただ、その小さい消しゴムは、強く引っ張りすぎないでくださいね」 「けしごむ?」  線を消せる部分だと説明すると、男はペンの後ろへ目を戻した。だが今夜は、まず細い線を引く方へ集中するらしい。ノートを一枚めくり、もう一度留め具の形を描き始めた。  俺はレジへ戻って別の客を会計した。水を渡し、釣り銭を取り終えたのを確かめる。男の方を見ると、今は誰の助けもなく線を引いていた。腰の金槌が台へ当たりそうになると、身体の向きを少し変える。その動きは、道具を扱い慣れた人のものだった。  しばらくして呼ばれた。角度を変えたくなった線があるという。今度は文具棚の消しゴムを一つ持っていた。 「これが、大きい方か。紙を削るのか」 「擦って線を薄くできます。ちょっと、見本をやりますね」  自分のペンの後端を使い、さっき俺が白紙へ描いた線を消した。客の図へ勝手に手を出すことはしない。白く戻った所と、力の入った線が少し残る所を見せると、男はノートを裏返した。 「深く押した線は、溝が残るな」 「そうなんです。紙を押し込んだ跡までは消えないので」 「軽く書けば、直す方も楽か」  ようやく、力を抜く理由がもう一つ増えたらしい。消しゴムを一個、それから替え芯をもう一ケース、同じシャーペンも一本追加すると決めた。 「ペンも二本目ですね」 「片方は作業場へ置く。片方は持って歩く」 「分解する用ではなく?」  男は一瞬止まり、真面目な顔で二本を見比べた。 「……まず両方、書けるようにしておく」 「いずれ開けそうな返事ですね」  先輩がまた笑った。俺は追加分だけを読み取り、二度目の文具の支払いを済ませた。今夜の文具はシャーペン二本、替え芯二ケース、ノート一冊、消しゴム一個。カップ麺は、もうずいぶん前に食べ終わっている。  男は買った消しゴムの帯を残して包装を外した。自分の図の、一番外側の線を消す。紙を片手で押さえ、さっきより軽い力で擦った。浮いた消しかすを集め、新しい角度で線を引き直す。 「これなら、前の形を全部捨てなくてよい」  独り言に近い声だった。俺が覗くと、丸い部分は同じままで、留める所だけが変わっている。どちらがよくなったのかは判断できない。ただ、本人は今度の線を消さず、その横へ何か書き足した。 「直せる方がいいんですね」 「作ってみて、違うこともある。紙なら、その前にも直せる」 「職人でも、やっぱり間違いますか」 「するに決まっている。さっきまで、芯を二本折っていたろう」  今度は自分から言った。俺が笑うと、男も少しだけ笑った。そこで、描き足した小さな丸の端で、ぽきりと音がする。 「……今ので三本です」 「数は、もうよい」  折れた先を自分で紙片へ寄せた。そのあと、迷わず一回押し、新しい芯を短く出して続きを描く。折れなくなったわけではない。それでも、書くのをやめる理由にはならなくなっていた。  帰る前に、ボールペンとの違いも聞かれた。インクで書く道具で、今選んだ消しゴムでは基本的に消せないと伝えると、男は今日はいいと棚へ戻した。使い方を一から試すほどの時間を、もう増やさないらしい。 「次は、折れなかった線を見せる」 「留め具の方ですか?」 「できたらな。線だけかもしれん」  答えながら、ノートへ二本のペンを重ねた。先端の芯を戻し、替え芯と消しゴムを小さな袋へ入れる。金槌や金具とぶつからない場所を荷袋の中へ作る手つきは、最初にペンを握った時よりずっと慎重だった。 「また来る。三分の麺も残しておけ」 「売り切れたら、別の三分を案内します」 「五分は?」 「今夜もありますけど」 「それは、まだよい」  そこは変わらなかった。俺が礼を言うと、編んだ髭を揺らして笑い、男は暗い森へ出ていった。自動ドアの閉じる音に続き、腰の金槌の小さな音も遠ざかった。  台を片付けると、折れた芯が三つ、白紙の端に残っていた。捨てる方へ寄せ、自分のシャーペンを確認する。こちらは一つしかない。客に渡した二本と混ざっていないことを確かめ、先輩へ声を掛けて鞄へ戻しに行った。  黒いノートの上へ置く時、原稿の続きを思い出した。今夜見た職人をそのまま登場させるのではない。家に置いた自分の原稿にも、残したまま別の線を試せる所があったはずだ。今は開かず、ファスナーを閉めた。  売り場へ戻ると、貸したタイマーが給湯器の脇に残っていた。止まった表示を確かめ、次の客が手を伸ばせる位置へ戻す。俺は台の最後の消しかすを払ってから、減った替え芯を前へ出した。

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