芦名 雅 / 第138話

第40話 先輩、十年も異世界にいたんですか?

 五日分の荷物を減らしたいと言っていた四人のかごへ、榊原先輩が最初に勧めたのは靴下だった。 「増やすんですか、先輩」 「濡れたまま歩くよりマシだろ」  午前零時を少し回ったミッドマート北森店で、俺は日用品棚の前に立っていた。入口の向こうには、若い葉をつけた森が見える。春の終わりが近づき、売り場では厚手の靴下が端へ寄せられ、薄いものが手に取りやすい位置へ移っていた。その袋を、銀色の軽鎧を着た青年が裏返している。何度か遠征の買い出しに来ている、勇者だ。 「予備はある。ただ、前より薄いと思ってな」 「足に合うかも見てください。大きさ、こっちに書いてあります」  数字を読み上げると、勇者は自分の手と袋を見比べた。隣の赤毛の女性が、背丈ほどの黒い杖を肩へ寄せて覗き込む。灰色のローブの袖口がずり落ち、彼女は手の甲で押し上げた。 「薄い方が乾きそう。でも、靴の中で足が動かない?」 「それは履いてみねえと分からん。今の靴に合うやつ持ってけ」  レジから先輩が答えた。さっきまで頬杖をついていた手は、もうカウンターに下りている。商品を売る話というより、四人の足元を見ているような目だった。  今夜来たのは、いつもの四人だけだった。前に魔族の客を見て剣へ手を掛けた若い男は、別の隊と訓練中だという。先頭の勇者に、甘いものを先に探す赤毛の女性。金髪を首の後ろで束ねた治療役の男と、深緑の外套を着た弓使いの女性。入口でかごを取るところから、誰も俺の説明を待たなかった。  ただし、荷物の量では足が止まった。五日ほど歩く予定だと聞いて常温の食料棚を案内すると、弓使いの女性が、勇者の持つかごを先に確かめたのだ。 「買い足す前に、今持っている分を数える」 「水は減らせないだろう」 「減らすとは言っていない。最後に全部こっちへ寄せるなと言っている」  顎までの黒髪の下から、真っすぐな目が向いた。勇者は何も言わず、水の入った方のかごを自分の足元へ引いた。その隣へ、彼女がジャーキーを四袋置く。 「肉は減らさないんですね」 「これは私が持つ」 「そこは先に決まってるんだ」  そうして選んだ食料のほかに、今は靴下まで候補に加わっている。赤毛の女性が袋を持ったまま、靴の踵を軽く床へ打ちつけた。 「乾かす時に履く分か。一本の道を歩いているだけなら、替えるのは夜でもいいと思っていた」 「擦れるなら、その前に止まれ。痛くなってからだと、次の日も困る」  先輩の返事を聞き、金髪の男が視線を上げた。白い上着の胸元で、小さな銀の飾りが揺れる。 「足の傷は、その後も歩けば同じ場所へ当たりますからね。治せば済むというものでもない」 「だったら、お前からも言っとけ。歩けるって言われて、そのままにすんなよ」  男は苦笑し、勇者へ目を向けた。勇者の方も、そこで初めて袋から顔を上げる。 「……分かった。違和感があるうちに見る」 「こっちはどう使うんです?」  金髪の男が、靴擦れ用の保護パッドを指した。俺は表示を確かめ、擦れを防ぐために使う種類だと説明する。彼は二つを手に取ったが、すぐかごへ放り込まず、包装に描かれた貼り方を見ていた。仲間へ渡す時にも、自分で説明するつもりらしい。 「この絵の向きで合っていますか」 「はい。ただ、別の商品まで全部同じ使い方だとは思わないでくださいね」 「まず、これを覚えます」  先輩はそのやり取りを聞き終えると、レジ横に残った伝票へ手を伸ばした。そこへ、弓使いの女性が声を掛ける。 「ずいぶん足のことを気にするんですね」 「歩いたからな」  いつもの低い声だった。俺には、その一言の向こうに「勇者だった」という話が重なる。けれど、それ以上はまだ知らない。何度か聞こうとして、結局、仕事の話へ戻ってしまったままだった。 「どれくらい?」  赤毛の女性が尋ねた。袋を選ぶ手は止めず、長い旅だったのかと続ける。先輩は伝票の端を持ったまま、少し考えた。 「……十年くらい」 「十年?」  俺の声で、四人がこちらを向いた。先輩も顔を上げる。俺は持っていた商品を落としかけ、慌てて両手で支えた。 「先輩、十年も異世界にいたんですか?」 「声でけえよ」 「いや、だって。十年なんて聞いてないです」 「聞かれてねえし」 「聞かないと教えてくれないんですか」  言ってから、客の前だと思い出した。金髪の男はまだ保護パッドを二つ持っている。俺が説明の途中で止まったので、続きを待ってくれていたのだ。先輩はその手元を顎で示した。 「靴下の話してんだろ。こっちはあと」 「……すみません」 「構いませんよ。こちらも、まだ選んでいますから」  金髪の男は俺を急かさず、見終えた二つをかごへ入れた。勇者は靴下を二つ、赤毛の女性は一つ選ぶ。弓使いの女性は自分の荷袋に予備があると言って、棚には手を伸ばさなかった。十年と聞いたから全員同じものを買う、というわけでもないらしい。  俺は商品の説明を終え、買い物の続きへ戻った。スポーツ飲料と小袋の塩飴、タオル、保存のきくパン。必要なものを確かめる四人の横で、さっきの数字だけが頭に残っている。俺がここで働き始めてからの時間とは、桁が違った。 「これは前になかった」  赤毛の女性が、抹茶味のチョコレートを持ち上げた。かごには既に別のチョコが二袋ある。弓使いの女性の目も、同じところへ向いた。 「荷物を減らす話は?」 「一袋はこれと替える。こっちの味も知りたい」  赤毛の女性は先に選んだ一袋を元の棚へ戻し、緑の袋を入れた。それを見た勇者まで、同じものを一袋取る。 「結局増えてません?」 「俺の分だ」 「なら自分で持て」  弓使いの女性の返事が早い。勇者は水の入ったかごの一番上へ、チョコをそっと載せた。俺は笑ってレジへ戻る。これくらいの買い物の揉め事なら、もう先輩を呼ばずに見ていられる。  四人分の商品を読み取り、支払いが済むのを待つ間に、俺は重い飲料と潰れやすい食料を分けた。勇者が水を引き受け、弓使いの女性はジャーキーを自分の荷袋へ収める。金髪の男は保護パッドを取り出しやすいところへ入れ、赤毛の女性はタオルと靴下を見比べてから、一緒に袋の奥へ押し込んだ。 「助言、感謝する」  入口で勇者が先輩へ向き直った。 「十年歩いた者の言葉なら、重い」 「ずっと歩いてたわけじゃねえよ」 「それでもだ」  頭を下げられた先輩は、少し面倒そうに片手を上げた。それから、四人がドアを抜ける前に、さっきより低い声を添える。 「無理すんな。戻ってこい」 「ああ」  勇者が答えた。最後尾の深緑の外套が森へ消え、自動ドアが閉まるまで、俺は質問を飲み込んでいた。四人の足音が聞こえなくなると、ようやくレジの内側へ回った。 「先輩」 「発注見るぞ」 「逃げないでください」 「本当に減ったんだよ。水も、靴下も」  先輩は発注端末を持ち上げた。画面に商品が並んでいるのを見て、俺も隣へ立つ。客のいる間には聞けなかったが、いなくなったから何でも聞いていいというわけでもない。何から尋ねればいいのか分からず、最初の一言だけを繰り返した。 「向こうにいたのが、十年なんですか」 「まあ、だいたい」 「その間、ずっとこっちへ帰らずに?」 「ああ」  端末を送る指は止まらなかった。俺は二十二歳だ。十年前なら十二歳で、学校へ行って帰って、明日も同じように起きることを疑っていなかった。その頃から今までの時間を、知らない場所へ置いてみようとしても、途中で考えが追いつかなくなる。 「……長かったですね」 「長かったな」  返事まで少し間があった。先輩は一つの商品の数字を確かめ、それから俺の方を見た。いつもの眠そうな顔に、続きを急かす気配はない。 「何歳で行ったんです?」 「十八。高校出る前」  俺は先輩の胸元を見た。濃紺のエプロンに、三日月を抱いた白猫がいる。今では見慣れた制服だが、その前には、高校の制服を着ていた時期もあったのだ。当たり前のことなのに、急にその姿を想像できなくなった。 「そこから、いきなり勇者ですか」 「まあな」 「最初から十年かかるって分かってたんですか?」 「分かるわけねえだろ」 「じゃあ、帰れるかどうかも……」  指が止まった。画面は靴下の発注欄のままで、先輩の親指だけが縁へ移る。俺はそこで、聞き方を間違えたかと思った。 「最初は知らなかった」  返ってきた声は平坦だった。なのに、すぐ次へ進めなかった。帰る日を待つのと、帰れるか分からないまま暮らすのは違う。そう言えば分かったことになる気がして、俺は何も言わず、カウンターへ掛けていた手を下ろした。  先輩が端末をもう一度動かすまで待ってから、尋ねた。 「戻った時は、二十八歳くらい……ですか」 「そんくらい」 「今は二十九で」 「知ってんだろ」 「知ってますけど、つながらなくて」  数字だけなら簡単だった。十八と十と二十九。その間に何があったのかは、一つも計算できない。俺は少し前、客の前でスマホの決済方法を教えた時のことを思い出した。 「……QR決済を知らなかったのも、それでですか」  先輩が俺を見る。今度は、わずかに呆れた顔だった。 「そこにつなげる?」 「だって、急に分かった気がして」 「カードはあったぞ。スマホは戻ってから買った」 「使うところから覚えたんですか」 「電話はできた」 「その答え、安心できるような、できないような」 「文字も打てる。お前がたまにやってる、画面を弾くやつは知らん」 「フリック入力です。キーボードでも打てますけど」 「なら、それでいいだろ」  そう言われて、俺は笑った。ここでは俺が知っていることを教えて、先輩が知らないと言える。さっきまで手の届かないくらい遠く感じた人が、隣に戻ってきた気がした。 「十年分、こっちが抜けてたんですね」 「ああ。戻ったら知らねえもん増えてた」  空白、と言いかけてやめた。俺から見えないだけで、先輩にはその間も毎日があった。靴下を替えろと言えるほど歩いた日も、歩かなかった日も。端末を持つ手が、俺の知らない場所で何をしていたのか、少し知りたくなった。 「戻ってからも、大変だったんですか。就職とか」 「まあ」 「家族とかも――」 「瀬尾」  名前を呼ばれ、口を閉じた。先輩は端末を下ろしていた。怒鳴られたわけではないが、さっきの冗談へ戻せる顔ではなかった。 「今日はそこまで」 「……分かりました」  俺は半歩離れた。謝るべきか迷っているうちに、先輩は売れた飲料の欄をこちらへ向ける。続きを話す代わりに渡された仕事を、今はそのまま受け取った。 「五日歩くって言ってただろ。塩飴も見とけ」 「はい。靴下は、今ので減った分を?」 「在庫も確認してからな」  俺は端末を持って棚へ向かった。聞きたいことは残っていた。でも、四人が取った場所には、ちゃんと三つ分の空きがある。まずそれを数え、奥に残っている袋を確かめた。さっき先輩がしていたことを、自分の手で続けた。 ◇  午前六時になると、森は雨上がりの駐車場へ戻った。入口の光が濡れたアスファルトへ広がり、遠くの山も明るくなる。夜の片付けを終え、引き継ぎのメモを探そうとポケットへ手を入れた時、小説用の黒いノートの角が指に当たった。 「書かねえの?」  先輩が手元を見ていた。俺は半分出しかけたノートを、そのまま戻した。 「今日は、こっちには書かないです」 「何で」 「先輩の十年を、聞いたところだけ拾って使うのは違う気がして」  先輩は俺を一度見た。それから、レジ台に散った伝票を揃える。 「小説なんだろ。好きに変えて書けばいいじゃねえか」 「変えるにしても、今の話の続きには使いません。まだ、全然知らないので」 「ふうん」  それ以上、勧めることも止めることもしなかった。俺が仕事用のメモへ靴下の残数を書いていると、隣から短く声が来る。 「お前の話は、終わってねえんだろ」 「はい」 「じゃあ、そっち書けよ」 「……そうします」  黒いノートを出さないままでも、帰って書くことは残っていた。俺は引き継ぎをまとめ、六時五十分に来た水野さんへ渡した。薄い春物のコートを腕に掛け、生成り色のトートバッグを持った彼女は、着替えて戻るなり飲料の数字へ目を留める。 「今日は、冷たいのがよく出たんですね」 「長く歩く予定のお客さんたちが、まとめて買ったので。靴下も少し減ってます」 「なるほど。そっちも見ておきます」  俺が付けた印を、彼女の指が追った。話せる範囲の引き継ぎは、それで済んだ。端末を戻した水野さんが、今度は俺を見る。 「小説の方は?」 「まだ途中です。すみません、待たせて」 「完成したらっていう約束でしょう。まだ催促してませんよ」 「今のは?」 「進んだか聞いただけです」  少し笑っている。俺も笑い返し、七時になってからエプロンを外した。先輩は先にバックヤードへ向かう。その背中を目で追っていると、水野さんが小さく首を傾げた。 「何かあったんですか?」 「昔の話を、少し聞いたんです。絵にする時も、聞いた話を使うか迷うことってあります?」 「ありますけど……今、描きたい場面なんですか?」  そう聞き返されるとは思わなかった。俺はノートのあるポケットへ触れ、それから手を離した。 「いえ。今書いてる話には、なくてもいいです」 「じゃあ、急がなくていいんじゃないですか。私も、描かないまま覚えてる景色はありますよ」  水野さんはそこで話を終え、朝のレジへ入った。何かを聞くたびに、すぐ一行へ変えなくてもいいらしい。俺は鞄を肩に掛けた。中には、先輩の過去ではない、途中まで書いた自分の物語が入っている。 「完成したら、ちゃんと持ってきます」 「覚えてますよ」  水野さんが顔を上げた。俺はもう一度頷き、バックヤードから出てきた先輩の横へ並ぶ。二人分の足音が自動ドアを抜け、明るい駐車場へ続いていった。

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