芦名 雅 / 第136話

第38話 商人、ATMに金貨を預けたい

 革袋がカウンターへ置かれた音で、隣のレジにいた先輩が顔を上げた。中身は菓子ではない。口の緩んだ袋の奥で、厚い金貨と大小の銀貨が重なっていた。 「これを預けたい」  商人はそう言って、入口脇のATMを指した。俺は渡しかけたレジ袋を台へ戻した。お金を預けたり下ろしたりする機械だと説明したばかりだ。その一言の、言い足りなかった部分が、今、目の前でずしりと音を立てていた。  少し前、男が店へ来た時には、今夜は普通の買い物で済むと思っていた。春の売り場を見慣れたように歩き、増量菓子を二袋選び、全部売ってくれとは言わなかったからだ。 「棚を売らなかった店員か」 「いらっしゃいませ。棚は今夜も売ってませんよ」  挨拶の代わりにそう言われ、俺も同じ調子で返した。四十歳前後の、小柄な男だった。撫でつけた茶色の髪に細い口髭。以前より薄い暗褐色の外套の下には、いつもの大きな肩掛け鞄と、腰の三つの革袋がある。中身を入れ替えてきたのか、歩くたびに重い音がしていた。  増量の菓子と普通の菓子を比べる時には、値段だけでなく内容量も尋ねられた。答えると、木の計算板が出てくる。玉を動かし、まず二袋をかごへ入れたあと、別の棚へ向かった。 「今日は、二つで?」 「まず試す分だ。前の菓子と、包みも中身も違う」 「同じ増量でも、商品は違いますからね」 「だから聞いている」  そのとおりだった。男はビスケット、キャンディ、小袋のナッツを一つずつ選び、最後に抹茶の焼き菓子を加えた。緑色のものには茶の味が付いていると説明すると、前には選ばなかった味だと、袋をよく見ていた。 「売る分を決める前に、俺が食う」 「仕入れ前の確認ですね」 「売ってから苦いと言われても困るからな」  男は袋の裏をこちらへ向け、保存方法も聞いた。全部自分で食べたいわけではなく、誰かにどう勧めるかを考えている。以前、猫のステッカーを大事に手帳へ挟んでいた時と、同じような目だった。  六点の菓子をレジへ通した。支払いに使う硬貨を出す時、男が腰へ手を添えたのを覚えている。三つある袋の、どれを開けるか迷ったのではない。重い方を一度持ち上げ、帯へ食い込んでいた位置をずらしたのだ。 「今日は仕入れ帰りだ。売った分の金もある」  俺が見ているのに気づいて、そう言った。それから必要な硬貨だけを精算機へ入れ、釣り銭を別の袋へ収めた。商品の会計はそれで終わっている。  その時に渡したレシートは、男の手帳へ収まっている。終わっていないのは、俺の説明だった。 「すみません。さっきの言い方だと、それも預けられるように聞こえましたよね」 「預ける機械と言った」 「日本の銀行の口座を持っている人が、対応しているお金で使うものです。この硬貨は、あちらでは扱えません」  男の指が、まだ動いている精算機へ向いた。 「そこへは入ったぞ。今」 「こちらは店の会計用です。あっちは別の機械なので」 「同じ店の中で?」  責められているのではなく、理屈を探られていた。もっともな疑問だと思う。俺自身、初めてあの硬貨が精算機へ入った夜には、同じくらい混乱した。 「ここで買い物をする時に、その硬貨が使える。それと、銀行へ預けられるかどうかは、別なんです」  男は黙り、袋の中の金貨へ指を添えた。出して試そうとする手ではない。しまうべきか、もう少し話を聞くべきか考えているようだった。 「なら、あれは誰の箱だ」 「銀行のサービスを使うための機械です。店へ置いてありますけど、俺たちが預けたお金を管理するわけではないです」  先輩が隣から口を挟んだ。 「このレジで預かった金も、貯めておく金じゃねえからな。買った分を払って、残りを返すだけ」 「それは分かった。今、そう使った」  男は頷き、口の開いた革袋を閉じた。俺が少し安心したところで、その袋をまた持ち上げる。 「触らずに見るくらいはよいか」 「はい。操作はしないでくださいね。硬貨を入れる所もありません」 「入れる前に、どこへ入れるかを聞くつもりだった」 「……そうでした」  勝手に突っ込む客だと決めかけていた。俺は頭を下げ、売った菓子をカウンター脇へまとめる。本人にそこへ置いておいてよいか確かめ、二人でATMの前へ移った。  機械は入口側の壁際、コピー機の近くにある。画面の青白い光が、男の口髭の下を照らした。床には立つ位置の案内があり、狭い脇へ入り込まずとも画面を見られる。男はカードの差し込み口と、紙幣の出入口を見つけ、手を伸ばさずに指した。 「紙が入る方か」 「この機械で扱うお金は紙幣です。それと、口座を使うためのカードなどが必要です」 「カードが、預けた金の証か」 「誰の口座を使うか、確認するためのものですね。カードを入れれば誰でもお金を出せる、というわけでもないです」  細かな操作や手続きまで、ここで説明するつもりにはなれなかった。目の前の客には、この機械で使える口座も、取扱いのできる金もない。だが男が知りたがっていたのは、ボタンの順番より、その先らしかった。 「金は、この箱にずっと置かれるのか」 「口座の記録は銀行で管理されます。同じ銀行のサービスに対応していれば、別の場所のATMでもお金を出せます」 「別の町で?」 「はい。使える機械なら」  男は、そこで長く黙った。画面の中で案内が切り替わる。一つ前の絵を覚えようとするでもなく、腰の袋へ手を添えたまま、光を見ていた。 「預けた場所へ戻らなくても、金を出せる」 「そういう使い方はできます」 「それなら、道の途中で全部持たずに済むのか」  俺は返事を急がなかった。さっきの革袋が台へ置かれた音を思い出す。男の肩掛け鞄より、腰の金の方が重そうだった。 「必要な分だけ下ろす人もいます。ただ、向こうの町へこの機械があるわけではないですよね」 「ない。だから、ここで見ている」  男は小さく息をつき、持ち上げていた袋をいったん下ろした。帯の跡へ外套を挟まないよう、指を入れて直す。その動作に、俺は初めて、預けたいと言った理由を聞ける気がした。 「毎日、そんなに持って歩くんですか」 「必要な時はな。軽い金だけ選んでも、相手がその金を持っているとは限らん。受け取った物を捨てるわけにもいかない」 「そりゃ、そうですね」 「盗まれぬように見て、落とさぬように縛る。濡れた夜に、結び目を締め直すのも面倒だ」  愚痴のようになった最後の言葉で、俺も少し笑った。男は金貨を自慢したかったのではない。空いた手が欲しくて、今夜はその方法が目の前に見えたのだろう。 「俺にも、その口座を作れるか」 「今この店で、作る手続きはできません。作れる条件まで俺が判断することもできないです」 「書類を出せば済む話ではない?」 「銀行に確認する話です。それに、口座ができたとしても、その硬貨をここで預けられるようになるわけではありません」  男の目がこちらへ来た。そこまで分けて説明しなければ、口座という物さえ用意すれば解決すると受け取られるところだった。俺は精算機とATMの二つを指さず、今度は手元の硬貨だけを示した。 「この店で使えるお金と、あの機械で扱えるお金は違います。先ほどは、そこを省きました」 「……なるほど。箱に入れる資格と、箱が受け取る金の種類は別か」 「はい」  男は少し考えてから頷いた。落胆が消えたわけではない。それでも、こちらが同じ答えを繰り返す必要はなくなった。 「店長に話しても、変えられぬか」 「銀行の取扱いを、店長が変えることはできないと思います。そもそも、今ここにはいないんですけど」 「また不在か」 「来てくれたら、俺たちにも聞きたいことがありますよ」  レジから低い声が来た。 「お前の質問、店長帰れなくなるだろ」 「先輩も半分くらい聞いてください」 「俺の質問を勝手に増やすな」  商人が短く笑った。ATMの前に残っていた硬さが、そこで少し緩む。男は最後に紙幣の出入口を見たが、触ることなくカウンターへ戻った。  帰り支度をする前に、買った菓子の袋を開き直していた。包装を破ったわけではない。レジ袋の中の品を鞄へ移し、一番重い革袋の位置を変える場所を作っている。結局、今夜使えるのは自分の荷物の組み方だった。 「金の方、鞄に入れるんです?」 「全部ではない。一つだけだ」  食料の上へ重い袋を載せないよう、奥へ収める。袋の口を締め、肩紐の長さを調整してから、ようやく手を離した。腰の三つが二つになっても、総量は減っていない。それでも立つ姿勢は少し変わった。 「これなら、今夜は持てる」 「重さそのものは同じですけどね」 「預けられぬなら、持つしかないだろう」  言い方に笑いが混じった。俺はレシートを渡し忘れていないか確かめ、かごを戻した。男は自分の手帳に紙が挟まっているのを一度見せ、もう受け取っていると教えてくれた。 「あの箱の話は、調べてみる」 「口座ですか」 「記録を別の町でも使う仕組みだ。こちらの金を軽くする道が、ほかにもあるかもしれん」 「それは、俺には分からないです」 「お前には、この店でできることを聞く。今、聞いた」  商品を売る相手の顔へ戻っていた。教えてもらうことが全部欲しい答えでなくても、聞いた内容を無駄にはしないらしい。俺は入口までの通路を空けた。 「次は口座を買う、とは言わないんですね」 「売っていないのだろう。代わりに棚を――」 「そっちも売ってません」 「返事だけは早い店だ」  笑われた。男は肩の鞄を持ち上げ、腰の二つの革袋が揺れない位置へ歩幅を変えた。自動ドアが開き、春の森へ出ていく。金の音は来た時より少し鈍くなっただけで、消えはしなかった。  俺は空いたカウンターへ戻り、袋の底が触れていた所を拭いた。ATMの画面は、もう別の案内を映している。何も操作していないから、最初から何も変わっていない。隣の精算機だけは、今夜の菓子六点をちゃんと売上にしていた。 「小説にする顔してるな」  先輩に言われ、布巾を持つ手を動かした。 「手は止めてませんよ」 「顔の話だろ」 「それ、どういう顔なんですか」  答えはなく、先輩は伝票へ戻った。俺は、架空の宿の客へ金の袋を持たせてみた。何を買うかではなく、どうやって持って帰るかで困る人になる。さっきの商人の言葉をそのまま写すより、帰りの部屋で、その人が鞄をどこへ置くかを考えたかった。  今はレジの下へ布巾を戻した。ATMの前に客の忘れ物がないことも確認し、増量菓子の棚へ向かう。前へ寄せた二袋は軽かったが、運ぶ方の鞄には、今夜も金が残っている。

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