芦名 雅 / 第162話
第55話 将軍、辛さ三倍です
赤い弁当を一つ前へ出しただけなのに、冷蔵ケースのその一角が急に騒がしくなった。ふたには炎の絵があり、商品名より目立つ勢いで「辛さ三倍」と書いてある。隣のいつもの辛口麻婆豆腐弁当まで、今日は妙におとなしく見えた。榊原先輩はレジの中で伝票を揃え、俺の手元を一度だけ見た。午前零時五十七分。ガラスの向こうでは森の葉が揺れているが、店へ入ってくる風に冬の冷たさはない。冷やし麺の札も増えた売り場で、これだけが見るからに熱そうだった。
「これ俺、自分で食べるには勇気いります」
「じゃあ無理して買うな」
「先輩は平気なんですか?」
「食ってねえもんまで分かるか」
それはそうだった。俺は赤い弁当を棚へ戻し、まだ逆を向いていた値札を直した。自動ドアの音がしたのは、その直後だ。
「いらっしゃいませ」
入口を抜けてきた黒い角の男は、かごを取る前に暗赤色の外套を腕へ寄せた。二メートル近い身体を横へ向け、腰の幅広い大剣が入口脇へ触れないよう通ってくる。傷の残った黒い金属鎧も、首の後ろで束ねた長い黒髪も見覚えがあった。魔王軍の将軍と呼ばれていた、辛い弁当と甘い物を買う常連だ。
「久しいな」
「お久しぶりです。今日は、新しいのありますよ」
俺がいる冷蔵ケースへ向かっていた将軍の目が、手元から棚へ移った。暗い赤色の瞳が炎の絵で止まる。まだ何も言っていないのに、見つけるのが早い。
「その赤い方か」
「はい。いつもの麻婆豆腐より辛くした、夏限定の商品です」
将軍はかごを足元へ置き、二つの弁当を見比べた。籠手に覆われた指を赤い方へ伸ばしたが、ふたを持ち上げる前に止める。
「肉が増えたのではないのだな」
「辛さです。ここに三倍と書いてあります」
「三倍」
今度は指が、俺の示した数字へ寄った。持ち上げた容器を傾け、いつもの弁当と中身の量を比べている。食べきれる量か確かめているようだったので、俺は二つを並べ直して見せた。
「一食分なのは同じです。ただ、俺はこっちをまだ食べてないんで、味の細かい違いまでは」
「香辛料を三倍にしたのか?」
「そこまでは書いてないですね。普通の辛口と比べた表示、というところまでしか分かりません」
将軍は裏の小さな文字へ目を落とした。読めない表示を、こちらへ向けて寄越す。俺は念のためもう一度確かめたが、材料の比率を説明するような記載は見つからなかった。
「刺激が強いので、辛い物が苦手な人は注意、とあります」
「お前は買わないのか」
「あんまり辛すぎるのはちょっと・・・」
レジから小さく鼻を鳴らす音がした。将軍はそちらへ顔を向けず、俺の手から容器を受け取った。いつもの辛口には触れず、赤い方だけをかごへ入れる。
「正確な三倍かはともかく、いつもより辛くしているなら試す」
「両方は買わないんですね」
「今日の食事を選んでいる。試験をしに来たのではない」
食べ比べを始めるものと、勝手に考えていた。俺が棚を空けると、将軍はかごを持ち直して飲料ケースへ向かう。無糖の缶コーヒーを一本取るところは、初めて来た夜から変わっていなかった。
そのままレジへ来るかと思うと、途中で足が止まった。デザート棚の前だ。コーヒーゼリーを一度見て、その隣の白いカップへ視線が移る。俺は笑いそうになった口を閉じ、声をかけられるまで待った。
「これは?」
「ミルクプリンです。白い方は、甘いデザートですね」
「苦いものは入っているか」
俺はラベルを確認した。名前だけで返さずに容器を示すと、将軍も底の方まで見る。カラメルの層はなく、白い中身がふたの下へ続いていた。
「いつものプリンの底にあるような、苦いソースは入っていません」
「では、これだな」
将軍は取りかけた手を止め、近くの冷凍ケースにも目をやった。そこには小さなバニラアイスが並んでいる。俺がそちらへ半歩動くと、将軍もかごを提げたまま見に来た。
「こちらは凍った物か」
「アイスです。持って歩いていると溶けますけど」
「今日はすぐ戻る」
「それなら、どっちが食べたいかですね」
将軍はガラス越しの白いカップを見てから、手元のミルクプリンへ戻った。辛い弁当のあとだから冷たい方がいいのか、などと俺が言いかける前に、プリンをかごへ収める。
「こちらを食いたい」
「決まりですね」
「ああ」
理由を聞き出す必要もなかった。赤い弁当と黒い缶、その横に白いプリン。俺はレジへ戻り、将軍からかごを受け取った。
「お弁当、温めますか?」
「頼む。それから、ここで食ってもよいか」
「給湯器の脇なら、今は空いてます。通路の方だけ空けておいてください」
将軍がそちらを見る。大きな身体を置く場所を確かめるように、台と入口の間へ一度視線を動かして頷いた。俺は商品を読み取り、弁当の表示どおりに温める準備をする。会計を済ませる硬貨の音と、レンジの低い音が重なった。
温かい物を入れる袋へ手を伸ばしかけ、今の注文を思い出して引っ込めた。ここで食べるなら、まず容器を持ってもらえばいい。冷たいプリンとコーヒーだけを分けて渡すと、将軍は台の端へ置き、入口を背中で塞がない位置へ立った。
「熱くなってます。縁の方を持ってください」
「分かった」
レンジから出した弁当を渡す。将軍はイートインに座ると籠手の指先でふたを外し、箸の袋も開けた。赤い油の浮いた麻婆豆腐から、湯気と香辛料の匂いが上がる。俺の鼻まで少し刺激されて、つい息を浅くした。
「見るだけで辛そうです」
「見るだけで済ませるのか」
「今日はそうします。感想は聞きたいですけど」
将軍は少量を箸で取り、ご飯と一緒に口へ運んだ。すぐには次を取らない。俺が返事を待っている間、口を閉じたまま一度だけ、ふたの赤い文字へ目を向けた。
「辛い」
「いつものより?」
「ああ。だが食える」
「平気なんですね」
「平気とは言っていない」
俺は口を閉じた。将軍はもう一口取り、今度は少しご飯を多く合わせている。顔が変わらないからといって、何も感じていないわけではなかった。
「すみません。そういう意味で言ったんじゃ」
「辛くなければ、こちらを買った意味がない」
箸の先が、いつもの弁当が並ぶ方向を示した。食べられるのかどうかを心配されたいのではなく、辛い物を選んで食べている。それなら、俺が正面から様子をうかがい続けるのも違う。
「ごゆっくりどうぞ」
俺は空いたかごを持ってレジへ戻った。先輩が、補充する紙袋の束をこちらへ寄せる。受け取って口を揃え始めると、向こうから箸が容器の底へ触れる音がした。将軍は自分のペースで食べ続けていた。
紙袋を半分ほど補充したところで、給湯器脇の黒い肩が動いた。将軍が弁当へふたを軽くかぶせ、こちらを向く。俺が手を止めると、少し間を置いて飲料ケースを指した。
「水を追加する」
「冷たい方ですね。お会計、こちら空いてます」
将軍は自分で水を一本取り、台へ戻る前にレジへ来た。無糖のコーヒーは買ってあるが、そちらを開けるつもりはないらしい。俺が読み取る間、硬貨を出す手だけがいつもより少し早かった。
「やっぱり、かなり辛いんですか」
「さっきそう言った」
「そうでした」
精算機の表示が終わった。将軍は釣りをしまい、水を受け取ってキャップを開ける。一口では止めず、少し長く飲んでから、やっと息をついた。
「水まで同時に買えばよかった」
「次は、先に選びます?」
「同じ物を食うならな」
無理して食べきる、という言い方ではなかった。将軍は水を持って台へ戻ると、プリンの横へ置いた。弁当のふたを外し、残っているご飯と麻婆豆腐を少しずつ合わせて食べる。俺も紙袋の補充へ戻ったが、さっきの一言は耳に残っていた。
初めて来た夜には、黒い角の男がレジに並んでいるだけで緊張した。今日は水を買いに来るまで、勝手に平気な顔を期待していた。俺が変に注目しなければ、この人は弁当を食べ、水を飲んでいるだけなのだ。
「瀬尾、袋一枚折れてる」
「えっ。あ、本当だ」
「客の方ばっか見てるからだろ」
「今は見てませんでしたよ」
「手元も見てねえな」
反論できず、折れた一枚を引き抜いた。将軍から少し離れた所で、俺はようやく目の前の束へ集中する。袋を取りやすい向きへ揃え、次の会計に使う分を差し込んだ。
「店員」
呼ばれたのは、作業を終えてからだった。将軍の弁当はもうほとんど残っていない。水のボトルは半分ほど減り、まだ開けていないコーヒーの横へ戻されている。
「この赤い方は、夏の間ならあるのか」
「夏限定ですけど、販売が終わる日までは俺も知らないです。日によって売り切れもあります」
「そうか。あれば、次も買う」
「気に入ったんですね」
「いつものより辛い。だが、悪くない」
将軍は残りを口へ運んだ。俺は今度こそ、「平気なんですね」とは返さなかった。次にも同じ物を選ぶ。その言葉なら、俺が勝手に表情を読むよりずっと分かりやすい。
「三倍かどうかは、結局分かりませんでした?」
「辛さを一つずつ数えたことはない」
「俺もないです」
「なら聞くな」
箸が空の容器へ置かれた。声に少し呆れたような響きがあったので、俺は笑ってしまった。将軍の口元も、ほんのわずかに動いた気がする。
俺がスプーンを渡すと、将軍は弁当を片づけてからミルクプリンを手前へ寄せた。ふたをめくる時だけ指先が慎重になる。鎧の大きな肩の下で、小さなカップがすっぽり隠れそうだった。
「そっちは、辛いから買ったわけじゃないんですよね」
「食いたいから買ったと言っただろう」
「覚えてます」
「なら、覚えたままにしておけ」
言い返せない。俺が一歩下がると、将軍は白いプリンを掬った。口へ入れるまでためらわず、二口目を取るのも早い。感想を急かさずにいると、向こうから短く声がした。
「甘い。これはよい」
「弁当より返事が早いですね」
「甘い物に、三倍の説明は付いていなかった」
先輩がレジで吹き出した。俺も笑いをこらえられなかったが、将軍は構わずプリンを食べている。水が欲しいとも、辛さが消えたとも言わない。小さなカップの底まで、スプーンを丁寧に動かしていた。
食事を終えると、将軍は空の容器と使った道具をまとめた。捨てる場所を確かめる手間も、もういらない。台を空けてから水のキャップを閉め、未開封のコーヒーと一緒に持ち帰る袋へ収めた。
「世話になった」
「ありがとうございました」
入口へ向かう途中、将軍は赤い弁当の棚へ一度だけ顔を向けた。残っているのを見たからといって、追加で手を伸ばすことはない。外套を寄せ、黒い鎧の背中が自動ドアを抜けていく。
ドアが閉まってから給湯器の脇へ行くと、台の端に水のボトルの丸い跡が残っていた。俺は布巾を当て、輪を消した。背後では先輩が、空になった買い物かごを重ねている。
「次は水も一緒に買うって言ってましたよ」
「じゃあ会計一回で済むな」
「そこですか」
「二回打ったのお前だろ」
俺は布巾を戻し、冷蔵ケースへ回った。赤い弁当を一つ前へ出していると、先輩が水の列も指す。一つ減った所へ奥の一本を寄せると、将軍が選んだのと同じ白いラベルが、冷たい光の下へ戻ってきた。