芦名 雅 / 第163話
第56話 投稿ボタンを押すだけなのに
「俺、今書いてる小説をネットに出してみようと思うんですけど」
言う場所を選んだつもりだった。午前六時を過ぎたミッドマート北森店には客がおらず、ガラスの向こうには森じゃなく駐車場が戻っている。朝番が来るまでにも、まだ時間があった。それなのに、レジ台を拭く手を止めて口にすると、考えていたより声が大きくなった。
榊原先輩が、揃えかけた伝票から目を上げる。俺は布巾を持ち直し、返事を待った。
「そうか」
「……それだけですか」
「他に何を言うんだよ」
「いや。この店から思いついた話なので、少しは」
先輩は入口へ一度目を向けた。俺もつられて見る。駐車場には車がなく、日が当たり始めた白線の端だけが明るい。何も変わっていないことを確かめてから、言葉を続けた。
「そのまま書いてるわけじゃないです。店も、場所も、人も違います」
「水野にも見せたやつだろ」
「はい」
「それを出したいんだな」
肯定しかけて、俺は少し迷った。出したい。誰かに読んでほしい。ただ、その一言を先輩に代わりに決めてもらおうとしていた気もする。
「……出したいです。でも一人に渡すのと、ネットに置くのだと、やっぱり違う気がして」
「何人が見るか分かんねえから?」
「そうです。見られなくても、それはそれで困りますけど」
「めんどくせえな」
先輩は伝票を台へ置いた。笑っているわけではなかったので、俺も曖昧に笑って済ませられなくなる。
「店の秘密の仕組みまで、俺が保証できるわけじゃねえぞ」
「分かってます」
「なら、そのつもりで見直せ。お前が何を書いたかは、お前が一番知ってんだろ」
布巾を握っていた指を緩めた。作り変えた文章を書いた時も、水野さんに渡した時も、記憶は消えなかった。それは確かだ。けれど、その経験だけで、何を書いても平気になったわけではない。俺が出すつもりなのは店の事情を人へ教える文章じゃなく、自分で作った物語だ。その線を、自分でも曖昧にしたくなかった。
「最後に、もう一回確認します」
「そうしろ」
「先輩は、読みます?」
「今か?」
先輩の視線が俺の布巾へ下がった。拭きかけのレジ台には、まだ水の筋が残っている。俺は慌ててそこを拭いた。
「今じゃなくて。もう少し形になったら」
「読ませたい時に見せろ。勝手に探して読んだりしねえよ」
「それは助かりますけど、ちょっと寂しいな」
「どっちなんだよ」
俺にも分からなかった。先輩は伝票を取り上げ、次の束へ移る。俺も布巾を畳み直して仕事へ戻ったが、帰ってからすることが、一つだけはっきりしていた。投稿するかどうかの相談を繰り返すのではなく、投稿する文章を、自分で確かめる。
午前六時四十分、まとめたごみ袋の口を縛った。持ち上げれば、いつもと同じ重さだった。ボタンを一つ押すだけの方が、今日はよほど面倒に思えた。
◇
午前九時十二分。机の上で、飲みかけの水がぬるくなっていた。シャワーを浴び、寝る前に原稿だけ確認するつもりで座ったのに、もう一時間近い。カーテンの合わせ目から細く入った朝の光が、ノートパソコンの端まで動いてきていた。
「……押すだけなんだけどな」
投稿サイトの画面は見慣れている。ここへ来る前から、何本も小説を載せてきた。流行っていると聞いた題材へ手を出し、思ったほど読まれず、また別の話を考える。公開したばかりのページを何度も開いたことも、数字を見て閉じたこともある。
だから、投稿の仕方が分からなくて止まっているのではなかった。今日の画面には、次の一作として登録するための欄が開いている。その隣の原稿は、水野さんが読んだ十枚より少し先まで続いていた。
町外れの小さな雑貨店。夜になると、遠い土地から少し変わった客がやってくる。若い店員と、だるそうに働く古参の男。起きた出来事を順に写したのではなく、別の店と別の人間の話になるよう作り直してある。先輩から聞いた十年を、そのまま過去へ貼り付けた人物もいない。
そこを確かめ終えたのに、まだ画面を閉じられない。誰かが読む場面を想像すると、水野さんが原稿をめくった手が浮かぶ。次の行で誰が喋っているか分かったけれど、一瞬戻った、と言われた所へ、また視線が止まった。
「ここは、もう直した」
以前は短い台詞が二つ続いていた。今は返事をする前に、古参の男が手元の釣り銭を揃える一文がある。誰が返したのか分かるうえ、口だけで働いている人物でもなくなった気がした。
その下の会話は残した。読みやすかったと言われたから全部を保存するのでも、指摘されたから全部を入れ替えるのでもない。いらない説明を一つ外してみると、次の台詞が急に宙へ浮いたので、そこは元に戻した。
「……こっちは要るよな」
自分の声に返事をする人はいない。俺は一度椅子へ寄りかかり、印刷して戻ってきた原稿へ手を伸ばした。クリアファイルの中の紙には、書き込みも赤い線もない。水野さんが言ったことは、別のメモに残してある。
棚の説明を一度に詰めすぎない。話者が分からない所を確認する。そして、店員同士の会話が好きだった。
最初の二つばかり追っていると、三つ目まで直す対象にしてしまいそうだった。俺はメモを脇へ置き、もう一度、物語の最初を読んだ。
冒頭で店の中を全部見せる段落は短くした。代わりに、客が品物へ近づいた所で、棚の高さと店員の立つ場所が分かる。奥の台は、古参の男がそこへ荷物を置く時に出てくる。どの場所も消したわけではない。読む順番を変えたのだ。
以前の文章と並べてみる。新しい方は、客が何を見つけたのかまで先へ目が進んだ。ただ、入口がどちらにあるか分からなくなる所が一つあったので、そこには短く位置を戻した。
「平面図をなくせばいいって話じゃないんだな」
直した所に印を付け、保存した。もう一回、と最初へ戻りかけた指を止める。今確認したばかりの場所まで、全部やり直していたら終わらない。
投稿用の画面へ切り替えると、見慣れた表示名が上にあった。本名ではない。プロフィールにも、住んでいる場所や働く店は書いていない。以前の自分が置いた短い自己紹介を読み返し、そのまま閉じた。今日、俺自身の説明を増やす必要はなかった。
困ったのは、作品名の欄だった。本文にはもう何千文字もあるのに、そこだけが空いている。水野さんへ渡した紙にも、結局タイトルは付けていなかった。
「ここだけ空白で出せないよなあ」
いくつか打っては消した。大げさな言葉を付けると、あの静かな店の話ではないように見える。かといって、内容を全部説明すると、それは紹介文だ。最後に、今まで頭の中で呼んでいた名前を入れた。
『夜の雑貨店(仮)』
仮、と付けた途端に少し気が楽になり、そのことが少し情けなかった。けれど、ここでタイトルを決めるためだけに一日使うのも違う。俺は文字を残し、次の欄へ進んだ。
紹介文は、何を書かないかを先に決めた。実際の仕事と結び付けて興味を引こうとしない。作者の生活の話ではなく、物語の中にある店の話をする。さっき先輩に言ったことを、ここで自分から崩すわけにはいかなかった。
『町外れの小さな雑貨店には、夜になると少し変わった客がやってくる。若い店員と、やる気のなさそうな先輩店員が、今日も普通に店を開ける話。』
書き終えて、画面から少し顔を離した。派手な紹介ではない。すぐに何かが壊れたり、強い敵が現れたりしそうにも見えなかった。
「……でも、そういう話だしな」
不思議な客が来る。それを店員が大騒ぎして追いかけるだけの話にはしたくない。客が帰ったあとの二人まで書きたい。水野さんが好きだと言った部分と、自分が残したい部分が重なっているのは、悪いことではないはずだ。
ジャンルはファンタジーを選んだ。紹介文をもう一度読む。現実の店を連想させるための説明はない。登場人物の名前も違う。舞台と出来事を確かめたあと、ようやく最初の一節を本文欄へ入れた。
確認画面になると、急に他人の文章のように見えた。編集用の画面とは行の折り返しが違い、台詞の間も変わる。そこで誤字を一つ見つけた。慌てて戻って直し、もう一度確認する。
「危なっ。……いや、見つけてよかった」
そのまま最後まで読んだ。今回公開する所では一度、客の買い物が終わる。店員たちの会話が残り、さらに先の話へつながっている。続きを書く予定も、途中まで書いた原稿もあった。それでも、まだ完成していないという事実は消えなかった。
水野さんには、完成版を先に目指したいと言った。次の紙は、でき上がってから渡すつもりでいる。なのに、途中をネットへ出すのか。
俺は肘を机へつき、額を指で押した。読ませる相手で約束を都合よく分けているみたいで、少し引っかかった。ただ、完成するまで新しい部分を誰にも読ませない、と決めたわけではなかった。今考えているのは、一節ずつ公開しながら、最後まで書くやり方だ。
「投稿したら、次の朝にちゃんと言おう」
出来上がったふりはしない。紙で渡す完成版も、なかったことにはしない。その二つを、自分の都合だけで曖昧にしたくなかった。
時計はもう、十時に近づいていた。寝不足の頭で文章を触り続ける方が、余計なものを足しそうだ。俺はパソコンの横の黒いノートを開いた。戻ってきた原稿を読んだあと、自分で書いた一行がある。
『直し続けるより、まず先へ。』
「自分に言われてる」
思わず笑った。書いた時はもう少し簡単にできると思っていたのだろう。俺はノートを閉じ、確認画面へ戻った。本文も紹介文も、今読んだところからは変えない。
マウスを動かす。投稿ボタンへカーソルが乗る。押す前に、また指が止まった。
今までにも押したことがある。押したあと、驚くほど何も起こらなかったことまで知っている。それでも今日は、公開したら、この話まで同じように誰の目にも留まらず終わるかもしれないと思った。水野さんが続きを待つと言った文章を、そのまま机にしまっておけば、少なくとも今の嬉しさは傷つかない。
「……それじゃ、出したいって言った意味ないだろ」
小さく言って、押した。乾いたクリック音が一つしただけで、画面が切り替わった。
『公開しました』
俺はマウスに手を置いたまま、その表示を見ていた。部屋には誰も入ってこない。廊下の向こうで聞こえた物音も、さっきと同じだった。画面に新しくできた作品のページだけが、今までなかったものとしてそこにある。
仮タイトルを開く。紹介文も本文も、ちゃんと読めた。慌てて最初の段落を確かめ、さっき直した誤字が消えているのを見て息をつく。
「出てる……」
管理画面へ戻ると、公開を止めるための項目まで目に入った。いったん戻した方が落ち着くかもしれない。そんな考えが浮かび、俺は手をマウスから離した。止めたい理由を探しているだけで、今、直すべき箇所を見つけたわけではない。
閲覧数はゼロだった。そこには、妙に見覚えがある。今出したばかりなのだから当然だと思いながら、もう一度表示を開いた。やっぱりゼロ。
「増えるわけないだろ、今ので」
声にすると、少しだけ可笑しくなった。次を書くためにも寝なければいけない。俺はブラウザを閉じ、原稿を保存してからパソコンのふたを下ろした。
今度はスマホが目に入った。こちらでも見られる。指を伸ばしかけて、机の上で裏返した。アラームだけ確かめて、布団へ入る。
横になっても、頭の中にはあのページがあった。タイトルの横の「仮」を取る日はいつになるのだろう。次の部分は、もう少し会話を直したい。そこまで考えてから、俺は布団の外へ出ていた手を引っ込めた。
「明日見る」
自分に聞かせるように言って、目を閉じた。机のスマホは取りに行かなかった。閉じたパソコンの向こうにある話を、初めて、そのままにしておいた。