芦名 雅 / 第158話
第51話 冷やし麺は遠征食じゃありません
勇者の買い出しに、俺の出番がなくなりかけていた。午前零時三十八分、冷蔵ケースの冷やしうどんを前へ寄せていると、入口の音がして四人が入ってくる。先頭の青年が片手を上げた時には、後ろの赤毛の女性はもう買い物かごを取っていた。
「久しぶりだな」
「いらっしゃいませ。今日は何日分です?」
「三日。前より短い」
勇者の銀色の軽鎧には、肩の辺りに薄い土埃が残っている。彼が入口を空けると、金髪を首の後ろで束ねた治療役の男が続き、最後に弓使いの女性が背中の弓を少し傾けてドアを抜けた。顎までの黒髪と深緑の外套を見送ってから、俺は日用品の方へ足を向けた。
「じゃあ、持って歩ける物は――」
「前に教わった。こっちでしょ」
黒い杖を脇へ寄せた赤毛の女性が、常温のパンを示す。俺が案内するより先に四人が棚の前へ分かれたので、出しかけた手の行き先がなくなった。レジの中で榊原先輩が、その手を見ている。
「何ですか」
「冷やしうどん、まだ一個後ろだぞ」
「分かってますよ」
最近広がった麺の棚には、ざるそば、うどん、冷やし中華が透明な蓋を並べている。少し前まで弁当がいた所にも、今は麺がある。俺は最後の一個を引き寄せた。ガラスの向こうには濃い葉の森が広がり、扉が閉じても、四人の外套に付いた湿った夜気が近くに残っていた。
赤毛の女性はパンを三袋取ってから、もう一袋を加えた。治療役の男がかごを寄せると、彼女は自分の分だけ上へ重ねず、四つを横に並べて収める。弓使いの女性はジャーキーを二袋、ナッツを二袋、ビスケットを一つ。勇者はそれを覗いて、隣の水へ視線を移した。
「それ、いつ食べる分です?」
「三日で食べる。足りなければ、他の物もある」
赤毛の女性がパンを持ち上げた。俺は裏面の期限と保存方法を確かめる。文字を代わりに読む必要はあるけれど、なぜこの棚から選ぶのかは、もう説明しなくてよかった。
「開けるまでは、この表示どおりに保管してください。暑い所へ置きっぱなしにはしないで」
「袋は食べる時に開ける」
「はい、それで」
治療役の男が水の本数を数え、勇者へ何かを確かめる。今回は途中の補給場所も分かっているらしい。二人が相談している所へ、俺は以前のように割って入らなかった。必要なら呼ばれる。その間に、パンを取ったあとの列を揃える。
「これは、先に入れておく」
弓使いの女性が予備の靴下を持って戻ってきた。勇者はウェットティッシュを二つ、治療役の男は絆創膏と靴擦れ用の保護パッドを選んでいる。
「靴下、前に買ったのとは別ですか」
「濡れた物を乾かしている間にも、履く物は要るからな」
勇者がレジの方を見た。先輩は伝票へ目を落としていたが、顔を上げずに「そうだな」と返す。
「十年歩いた者の言葉は、覚えておく」
「ずっと歩いてたわけじゃねえって言ったろ」
「それでも、こちらより長い」
勇者は靴下の袋をかごへ収めた。俺も先輩を見かけたが、目が合う前に商品の方へ戻した。十年という長さは、聞いたあとも小さくなっていない。だからといって、靴下を買うたびに昔のことまで引き出す必要はなかった。
遠征用の物が揃うと、今度は赤毛の女性が冷蔵ケースへ向かった。俺がさっき直したばかりの列で足を止め、杖の石を棚へ当てないよう斜めに持ち替える。その視線は冷やし中華の蓋に描かれた麺から、給湯器へ移った。
「これは、湯を入れる麺とは違うの?」
「違います。もう食べられるようになっていて、たれと具を合わせるだけです」
「火も、待ち時間もいらない?」
「会計のあとなら。温めずに食べます」
女性は冷やし中華を二つ取り、一方を勇者へ見せた。黄色い卵ときゅうり、細切りの肉が、内皿の上できれいに分かれている。勇者が容器を受け取るより早く、彼女の目は棚の奥へ向いた。
「これなら朝も火を起こさずに済む。三日分、六つくらい――」
「三日持っていくなら、そっちはやめておきましょう」
俺が言うと、女性の手が止まった。すぐ棚へ戻せとは言わず、持っている容器の底を示す。指先が冷たい部分に触れ、彼女は蓋じゃなく、さっきまで商品が入っていたケースの奥を見た。
「前のおにぎりと同じ?」
「はい。冷やして保管する商品です。お湯がいらないのと、持ち歩けるのは別なんですよ」
「カップの麺より、支度が楽だと思ったんだけど」
「食べる直前の支度は楽です。その代わり、食べるまで冷やしておく方が要ります」
女性が二つの容器を少し離した。今夜の分と、明日のつもりだった分。どちらも同じ冷たさなのに、片方だけがかごへ入り損ねている。俺は期限の表示を読み上げた。この商品は翌日の昼までだが、それも表示された保存方法で置いた場合の話だった。
「じゃあ、夜が涼しければ?」
「この冷蔵ケースと同じに保てるか、俺には分からないです。三日分なら、先に選んだパンや乾いた物にしておいてください」
勇者が外を見た。店の明かりが届くのは入口に近い幹までで、その先の道は見えない。彼は女性の持つ容器へ手を伸ばさず、自分たちの荷物を指した。
「冷やす道具は持っていない。これは今夜の分にしよう」
「……一つなら、今食べられる」
赤毛の女性が一つを棚へ戻す。残した方の蓋はまだ眺めていたので、俺は食べ方の説明を続けようとした。その横から弓使いの手が伸び、同じ物がもう一つかごへ入った。
「私も食べる」
「俺も一つ。だが、このたれは酸っぱいのか?」
勇者に聞かれて、俺は瓶でも探すように冷やし中華を見直した。前に梅のおにぎりを避けたのを思い出す。酸味のあるたれだと伝えると、赤毛の女性が口元を緩めた。
「やめる?」
「まだ食っていない」
「酸っぱいの、得意じゃないでしょ」
「だから聞いたんだ」
勇者は少し迷ってから、自分の一個もかごへ置いた。治療役の男が最後の一個を選ぶ。四人分になった冷やし中華を見て、俺は思わず笑った。
「遠征用には売れませんでしたけど、四つ売れましたね」
「今夜の食事は、まだ買っていなかったからね」
女性が当然のように返す。俺はその言葉で、四人の買い物かごを見直した。入店してからの支度が手早すぎて、俺の方まで今夜の食事を済ませたつもりになっていた。
残りの買い物は菓子だった。赤毛の女性がチョコレートへ向きかけたので、暑い所では柔らかくなることを伝える。彼女は指を止めたものの、困り続けず、隣のキャンディを手に取った。
「前は寒かったから、気にしなくてよかった」
「今日は甘ければ何でも?」
「何でもではない。これは前に食べてよかった」
選んだ袋をこちらへ向けてから、かごへ入れる。弓使いの女性は小さな羊羹を見ていたが、結局ジャーキーを一袋追加した。勇者がその手元を見ても何も言わなかったので、俺も今回は肉の話を蒸し返さなかった。
四人が会計台へ運んできた品を、持ち歩く食料、日用品、冷やし中華に分けて通していく。冷やし中華は四つ。先輩が袋を開いてくれた所へ、治療役の男が声をかけた。
「それは、ここで食べたいのですが」
「なら袋には入れなくていいですね。ほかの荷物だけまとめます」
俺は袋を畳み直し、冷たい容器を会計台の端へ寄せた。勇者が支払いを終える間に、弓使いの女性が持っていく物の袋を自分たちで分ける。水の重みが一人へ集まることもなく、治療役の男の前には、すぐ使う物を取り出しやすい袋が残った。
「食べるのは、あちらでどうぞ。給湯器の前は空けてもらえますか」
給湯器脇の台を示すと、四人は荷物を足元へ寄せ、通路側に弓や杖が出ないよう並び直した。台の上を四つの容器で埋めないよう、まず二人が蓋を開ける。俺は赤毛の女性の容器を借りる前に、一言断った。
「内皿だけ持ち上げて見せますね」
「頼む」
具を載せた薄い皿を外し、空いた蓋の上へ置く。底に入った麺とたれの袋を見せ、作り方の表示に沿って説明すると、彼女は自分で切り口を探した。俺が指すより早く、治療役の男も袋の端をつまむ。
「これで麺をほぐしてから、具を戻します。たれが跳ねないよう、ゆっくりで」
「前の米の包みよりは分かる」
「あれ、最初は大変でしたね」
「海苔を落とした話はいい」
勇者が先に言った。隣で赤毛の女性が吹き出し、たれをこぼしそうになって慌てて容器を押さえる。俺も笑ったが、今回は包装を取り上げなかった。聞かれた所だけ示せば、四人とも次へ進める。
弓使いの女性は内皿の肉を箸で寄せていた。麺へ載せる時にも肉だけを落とさず、最後に一本まで拾っている。足元のジャーキーへ視線が動いたので、俺は先に口を開いた。
「それ、持っていく分ですよね」
「一袋くらい開けても足りる」
「入れるつもりですか、冷やし中華に」
「肉が少ない」
「混ぜる前に、そのまま一口食べてみては」
禁止されると思ったのか、女性は俺を一度見た。それから頷き、袋には手を伸ばさなかった。レジへ戻りかけた先輩の肩が少し揺れる。
「笑ってますよね」
「お前、客の肉まで管理すんのか」
「遠征食が減るのを見てただけです」
四人が食べ始めたので、俺は給湯器の前から退いた。赤毛の女性は最初の一口で箸を止め、冷えた麺を確かめるようにもう一度口へ運んだ。勇者はその隣で、少なめに取った麺をゆっくり噛んでいる。
「やっぱり酸っぱい」
「駄目そうです?」
「いや。歩いたあとに、熱い物でないのも悪くない」
返事をしてから、自分でも判断を確かめるように二口目を取った。治療役の男は具と麺を一緒にほぐし、弓使いの女性はもう半分ほど食べている。足元のジャーキーは、封の切られないままだった。
俺が会計台を拭いていると、赤毛の女性が冷蔵ケースへ顔を向けた。さっきまで四つのあった場所が空いて、奥には三つ残っている。
「帰りには、あのうどんも食べたい」
「残っていたら、ぜひ」
「残しておいてくれない?」
「取り置きはしてないです」
「知ってる。言ってみただけ」
そう返してから、彼女は空いた容器を持ち上げた。一つで足りない顔というのは、たぶんこういう顔だ。俺が聞く前に、人差し指がもう一度立つ。
「中華を、あと一つ。今食べる方」
「用途まで言ってくれるんですね」
「もう間違えない」
追加の一個を会計すると、今度は彼女が自分で運んだ。仲間たちも急かさず、食べ終えた容器や内皿をまとめて台を空ける。二個目は説明を求められなかった。たれを入れる手元を横目に見て、俺は箸の束を補充しに戻った。
食事が済むと、四人はごみの分別だけ確かめ、足元の荷物を拾った。勇者が水の入った袋を持つ。弓使いの女性は弓の位置を直してから自分の袋を持ち上げ、治療役の男が赤毛の女性の杖へ通路を空けた。入ってきた時より荷物は重いが、誰かが一人で困っている様子はない。
「先輩」
勇者がレジへ向かって言った。
「靴下も、保護する物も持った」
「痛くなる前に見ろよ」
「分かっている」
先輩は頷くだけだった。勇者もそれ以上は求めず、入口へ向く。自動ドアが開くと、台の周りに溜まっていた冷たい麺の匂いへ、森の湿った風が混ざった。
「ありがとうございました。道、気をつけて」
「帰りに寄れたら来る」
赤毛の女性は最後にうどんの棚を見てから、仲間を追った。四人が出ていくと、足元に置かれていた荷物の分だけ通路が広くなる。俺は台に残った水滴を拭き、冷やし中華の残りを確かめた。
「五個。残り二つです」
「発注、見とけ」
端末を受け取って、同じ商品が昨日どれだけ売れたかを見る。今日五個売れたからといって、明日も五個とは限らない。あの四人は三日歩くと言ったし、帰ってきた時には別の麺を選ぶかもしれなかった。
「先輩。今日は、ほとんど自分たちで買ってましたね」
「お前、案内し損ねてたな」
「見てたんですか」
「手、余ってただろ」
否定できずに笑って、俺は少しだけ発注数を調整した。確定する前に先輩へ画面を見せ、頷きをもらう。残っている二つを前へ寄せると、その隣の冷やしうどんにも手が届いた。さっき案内に使い損ねた手で、今度は商品名を正面へ揃えた。