芦名 雅 / 第156話
第49話 レシートは捨てないでくれ
「棚を売らなかった店員」
挨拶の代わりにそう呼ばれ、俺は手にしていたビスケットを棚へ戻した。入口には、濃い茶色の髪を撫でつけた商人が立っている。薄く整えた髭の下で口元が動いていたので、わざと言ったことは分かった。
「瀬尾です。そろそろそっちで呼びません?」
「覚えている」
「だったら、最初から」
「覚えていたから、その話ができるのだろう」
言い返しにくかった。レジにいた先輩が、小さく肩を揺らす。商人は入口脇のかごを取り、腰の三つの革袋がぶつからないよう手で押さえた。肩には大きな鞄。以前来た時より薄い外套の裾が、歩くたびに膝の後ろへ流れる。
午前一時十六分。初夏の近い夜の店内では、抹茶フェアの札も少なくなっていた。商人は以前の棚全体を買いたいと言った時とは違い、一つずつ商品を持ち上げて、今の値段を俺へ尋ねた。
「ビスケットは、前と同じ値か」
「今日の値段はこちらです。前に買った時の分まで、全部は覚えていないので」
「なら、今の値を聞く」
俺が伝えると、商人は腰から下げた計算板の玉を動かした。ぱち、ぱち、と短い音がする。菓子の裏側も確かめ、未開封で置ける期間や扱いを聞いてから、かごへ入れた。
ビスケット一袋。ナッツは同じものを二袋。キャンディを一袋と、常温の小さな焼き菓子。さらに、端に残った抹茶味の菓子を一つ選ぶ。
「それ、前にも買ってましたね」
「ああ。買っていった菓子は、いくらか売れた」
「売れたんですね」
「全部ではない。残っているものもある」
商人は言い終えてから、抹茶菓子を一つだけ入れた。前の買い物で試した分があるのに、棚に残る同じ箱をすべて取るつもりはなさそうだった。
「売れたら、次はもっと買うのかと思いました」
「売れたものが、そのまま次も売れるとは限らん。まだ残っている分も持っている」
「うちの発注でも、似たことを言われます」
「なら、分かるだろう」
俺は頷いた。商人の鞄の中や、売る先のことまでは見えない。かごへ入れた一個を、少ないとも多いとも俺には決められなかった。
水を一本取ってから、男は文房具棚へ向かった。前には入口のATMを長く見ていたが、今日はそちらへは寄らない。ノートを見比べ、俺へ尋ねる。
「小さな紙が欲しい。一枚ずつ外せるものだ」
「メモ帳なら、これですね」
「それを一つ」
手に取った商人は、腰から革の手帳を出した。前に景品のステッカーを挟んでいたものだ。開いたページの端には紙が何枚か重なり、細かな文字や数字が、余白を残さず並んでいる。
「帳簿の続きを書くんですか」
「補助だ。持ち歩く間に、帳簿へ合わせる記録を作る」
「その場で全部、書いてるんですね」
「あとで思い出せるとは限らん」
さっき俺が、前の値段を覚えていないと言ったばかりだった。商人の目がこちらへ向く。俺は反論せず、次に書く場所を見ているふりをした。
「瀬尾」
「はい」
「会計のあとに出る、細長い紙があるだろう。今日は、あれも必ずくれ」
「レシートですか。もちろん渡しますよ」
「捨てないでくれ。手を離す前に言っておく」
声が少し真剣になった。前にも渡しているはずだが、その時はただの紙だと思ったのだろうか。俺は手帳を閉じかけた男へ、何に使いたいのか聞いた。
「こちらの記録と、店の記録を合わせたい。値を聞きながら書くだけでは、聞き違えたか、書き違えたかが後で分からん」
「買ったものと値段なら、残りますよ。ただ、商品名は日本語です」
「そこは読んでもらう。上から順に聞いて、私の字で控える」
神官の客も、旅の金を記録するためにレシートを持ち帰っていた。同じ紙でも、商人が見たいのは、買ったあとに売る品の仕入れだった。俺はレジへ向き直り、商品を並べる場所を空けた。
「会計のあと、一緒に確認しましょう。先に登録した数も見られます」
「それがよい」
商人はかごを置いた。俺はビスケットを読み取り、次に同じナッツを一つ通して数量を二へ変えた。音が一度しか鳴らなかったので、商人の手が上がる。
「待て。ナッツは二つだ」
「はい。今、同じ商品の数を二にしました。画面のここです」
俺は登録された行を指した。商人が見やすい角度へ身体をずらすと、男は商品名の横の数字と、カウンターへ並べた二袋を見比べた。
「一袋の値も、ここか」
「はい。その隣が二袋分です。レシートでも確かめてもらいます」
「合っているなら、続けてくれ」
支払いが済んでから間違いを探すより、今ここで見てもらう方が早い。俺はキャンディ、焼き菓子、抹茶菓子、水、メモ帳も読み取り、最後に登録した数を確かめた。
七種類で八点。ナッツだけが二袋だった。商人は自分の計算板を動かし、俺が伝えた合計と照らし合わせる。途中で急かさず待っていると、やがて玉の音が止まった。
「合った」
「では、精算機へお願いします」
商人は腰の革袋を開き、硬貨を一枚ずつ入れていった。機械が判定し、支払いを終える。お釣りを戻し終えたのを見てから、俺は印字されたレシートを取った。
「これです」
「曲げずに渡せるか。まず、そのまま見たい」
「はい。ここへ置きますね」
カウンターの乾いたところへ紙を広げた。商人は両端を押さえるように受け取り、上から下まで目を通す。俺には読めない彼の帳簿と、日本語のレシートが、同じ場所へ並んだ。
「ここが、合計」
「そうです。その上に、今回買ったものが並んでいます」
「上から頼む」
俺は最初の行を示した。ビスケット、一袋。商人の筆記具が、自分のメモ帳へ動く。次のナッツの行では、数量の位置を確かめてから二と書いていた。
「二つだと、ここで分かるのだな」
「この会計では、そこです。同じものを数量でまとめたので」
「違う値で買ったら?」
「別の行になることもあります。安くなっていれば、その分の表示が増える場合もあります」
商人は紙を持つ手を止めた。気になるところが、数量から金額へ移ったのが分かる。
「仕入れ値が変わったことも、そこに残るのか」
「実際に支払った額は、この合計で確かめられます。次にそういう会計になったら、表示を見ましょう」
「分かった。では、次だ」
今夜ない値引きの記録を、想像だけで説明し続けることはしなかった。キャンディ、焼き菓子、抹茶菓子。俺が一つずつ言うたびに、商人は商品そのものも目で確かめる。袋を手元へ引き寄せ、その形を短く書き添えた。
「水が一本。それとメモ帳が一つです」
「この二つは、分ける」
商人の筆が、ほかと違う印をつけた。俺がその手元へ目を留めると、男は説明する前に、水を自分の鞄の手前側へ寄せる。
「これは私が飲む。メモ帳も使う。売るために買った品ではない」
「レシートは、一緒の会計で出ていますけど」
「だから、こちらで区別する」
俺は頷き、仕入れの菓子とは分けて置いた。店から売ったものは全部商品でも、商人が売るものは、その全部ではない。水とメモ帳まで仕入れの在庫へ入れれば、あとで数が合わなくなる。
「これで八点ですね」
「品は八つ。売る方は、そのうち六つ」
「ナッツだけ二袋なので」
「ああ」
商人はもう一度、菓子の数と自分のメモを見比べた。最初はレシートの字を読むのを俺に任せていたが、最後の確認は自分の手元で済ませている。
「店の紙と、私の記録が同じになった」
「そこまでできれば、あとで見返せますね」
「ただ、この紙は長いな」
革の手帳へ当てると、端が少しはみ出した。商人は切ることを考えたようだったが、俺が日付や店名も入っていると伝えると、いったん手を止める。
「日付は、こちらと同じではない」
「こっちの暦なので、そのまま向こうの日付にはできないです」
「なら、帳簿の場所を書いておく」
商人はレシートの余白へ、自分の文字を短く記した。何と書いたのか尋ねると、今日の仕入れの三件目だと答える。自分の帳簿のどこに対応するかが分かれば、日付の読み替えができなくても使えるらしい。
「ただ、この紙の字、ずっと同じ状態で残るとは限らないです」
俺は印字された部分を示した。前に神官にも伝えた、熱や光で薄くなることがあるという話をする。商人は、さっきまで書いた自分の紙を先に見た。
「では、長く残すものは、こちらにも写しておく方がよいな」
「そうです。レシートだけに任せきりにしない方が」
「今やったことが、無駄にはならん」
不満を言うより、もう対策ができていることを確かめる声だった。商人はレシートを切らず、印字を読める位置で一度折り、メモと並べて手帳へ挟んだ。
「最初は、折るなって言いましたよね」
「読む前に、どこに何があるか分からなくなると困る。今は分かる」
「順番の問題か」
商人は小さく笑った。俺が大げさな扱いだと思っていた間にも、本人にはちゃんと都合があったのだ。
商品を鞄へ入れる時も、順番があった。売る菓子は形が崩れないようまとめ、水は別の場所へ。メモ帳は手帳と一緒に、すぐ出せるところへ収まる。俺は空いたかごを引き、入れ忘れがないかだけ確かめた。
「次も、会計のたびにこの紙をくれ」
「はい。言ってもらわなくても渡します」
「要らぬと言う客もいるだろう」
「います。でも、商人さんは要る方ですね」
「一度聞けば覚えるか?」
俺は顔を上げた。入口で、名前を知っているなら呼んでくれと絡んだ話が、今になって戻ってきたらしい。
「……覚えます。次もレシート、渡します」
「ならよい。瀬尾」
名前で念を押され、俺は思わず笑った。先輩も、カウンターの向こうで笑っている。否定するのを待たず、俺はかごを持ち上げた。
商人が入口へ向かう途中、コピー機の隣のATMへ目を向けた。前に、銀行代わりに使えないかと熱心に尋ねていた機械だ。俺がそちらを見たことに気づき、男は先に口を開く。
「今日は触らん」
「まだ何も言ってませんよ」
「また硬貨を入れようとすると思ったのだろう」
「前も実際には入れてないですけどね」
「止められたからな」
そう言って、商人は手帳を押さえた。機械の前へ寄ることはなく、レジから受け取った紙の方を持ち直す。
「銀行の話は、今日は進まん。使える記録を先に使う」
「その紙なら、俺たちも説明できます」
「次に同じ品が欲しければ、見せればよいのだな」
「商品名を読んで確認できます。同じものがなければ、その時はそう言います」
「値が変わっていたら?」
「今の値段で売ります。前のレシートは、前に買った記録なので」
商人は少し考え、頷いた。前の値で売れとも、次の分を取っておけとも言わない。
「記録は、約束ではないか」
「はい」
「それでよい。前の記録と、今の値を比べられれば」
革の手帳が閉じられた。俺がレシートを捨てないでほしいという頼みを聞いた時より、使う場所がはっきりした顔をしていた。
「ありがとうございました」
「また来る」
自動ドアが開いたところで、商人が振り返る。
「棚の方は、まだ売らぬのか?」
「売りません。そこも一度聞いて覚えてください」
「覚えている。確認だ」
今度は、俺にも冗談だと分かった。商人は笑って森へ出ていき、硬貨の音が少しずつ遠ざかった。
俺はレジのプリンターへ目を向けた。紙を欲しがる客は、今夜初めて来たわけではない。神官は仲間と使う金を、商人は仕入れを、自分の記録へ合わせている。同じ細い紙でも、相手が確かめたいところを聞くと、読む行が変わった。
「用紙、残り見とけよ」
先輩が言った。俺はプリンターを確かめ、予備のロールがある場所も見た。
「あります。これ、先に一つ出しておきますね」
「使う時に困らねえようにな」
次のロールを取り出しやすいところへ置き、蓋を閉める。さっき商人が広げていたカウンターも拭き直した。紙も、商品も、置く場所も空いている。次に「レシートを」と言われた時、俺が探し回らずに済むところまで整えてから、売り場へ戻った。