芦名 雅 / 第157話
第50話 最初の読者
レシートの新しいロールを入れ、蓋を閉じた。紙の端を揃え、印字できることを確かめる。そこまでは普通に手が動いたのに、次に目が行ったのは時計だった。
午前六時二十八分。さっき見た時から、まだ二分しか進んでいない。
「瀬尾、朝番は七時だぞ」
「知ってます」
「見てても早くならねえよ」
榊原先輩は、俺の方を見ずに伝票をめくった。入口の向こうには、日本の駐車場が戻っている。白線もガードレールも見える。森の夜は終わったが、俺の方は、別のものが来るのを待っていた。
「まだ、今日返すって決まってないですから」
「何が」
「……原稿」
先輩が顔を上げた。俺は先に言ってしまったことに気づき、布巾を畳み直す。
「誰も原稿の話なんかしてねえだろ」
「顔にはしてました」
「俺の顔のせいにすんな」
俺は笑った。少しだけ息がつけたが、カウンターを拭く間にも、自動ドアの向こうが目に入る。
数日前、水野さんへ、この小説の冒頭を十枚ほど渡した。夜に不思議な客が来る、小さな雑貨店の話。まだ完結していないし、この原稿は投稿もしていない。以前に別の作品を投稿したことならある。それでも、渡した相手と、読んだあとに顔を合わせるのは別の緊張だった。
急がなくていいと言った。次の勤務の時でも構わないと言った。どちらも本心だったはずなのに、今日の朝番が近づくと、読まれたかどうかが気になって仕方ない。
「用紙の方は、補充しました」
「ん」
「予備もあります」
「分かった」
そこまで伝え、やっと時計を見ずに手を動かした。いつもなら、あと二十分が短いと思う時間だった。
六時四十六分、自動ドアが開いた。
「おはようございます」
水野さんが入ってきた。肩までの焦げ茶色の髪は下ろしたままで、淡い青のカーディガンの袖を、片方だけ軽くたくし上げている。大きなトートバッグの持ち手を握り直し、挨拶を返した俺を見る。
「瀬尾さん、これ。読みました」
鞄から出てきたクリアファイルを見て、俺は布巾を置いた。両手を拭いてから受け取る。透明な表紙の向こうに、印刷した十枚が重なっていた。
「あ……ありがとうございます」
「無事に返します」
紙の角は折れていなかった。絵の具の跡もない。そこは心配していなかったと言いかけて、真っ先に端を見た自分がおかしくなる。水野さんも気づいたのか、少し笑った。
「感想、着替えてからでもいいですか?」
「もちろんです。引き継ぎもありますし」
俺は頷いた。読みました。それだけ聞けても、まだ何を思ったのかは分からない。水野さんがバックヤードへ入ると、ファイルを開きかけ、慌てて閉じた。自分で同じ十枚を読んでも、彼女の感想が書かれているわけではない。
制服に着替えた水野さんへ、先に仕事の引き継ぎをした。冷たい飲料の減り方、抹茶フェアの残り、菓子の在庫。それから、レシート用紙を交換したこと。彼女がメモへ目を通す間、俺は原稿をカウンター端の乾いたところへ置いていた。
「商人さんみたいなお客さんが、記録に使うって言っていて」
用紙のところで、つい付け加えた。
「買ったものを、帳簿へ?」
「そうです。自分用に買ったものと、売るためのものを分けて書いてました」
「なるほど。きちんとしてますね」
水野さんはメモを戻した。俺が話した普通の買い物の範囲で、引き継ぎは通じた。相手がどこから来て、どこへ帰ったのかを説明する必要はなかった。
「じゃあ、小説の方、いいですか?」
俺はすぐに頷けなかった。自分で感想を頼んだのに、最後の一瞬で心の準備を探してしまう。
「……どうでした?」
「まず、ちゃんと小説でした」
「そこからですか?」
思わず返すと、水野さんは笑わずに頷いた。
「前は、メモや印刷したところが少し見えただけでしたよね。今回は、最初から読める形で借りたので。店に入って、客が来て、そのあとまで読めたって、先に言おうと思って」
俺はファイルの上の指を動かした。ちゃんと読めた。それは思っていた褒め言葉ではなかったが、今は、何より先に知りたかったことでもあった。
「全部、十枚とも?」
「はい。そこまでは読みました」
「ありがとうございます」
もう一度言ってしまった。水野さんは構わず、カウンターの端へ少し寄る。俺も紙を相手から見える向きへ回したが、彼女はまだ開こうとはしなかった。
「思っていたより、静かな話でした」
「静かって、地味でした?」
「そこは、悪い意味ではなくて」
水野さんは言葉を探した。すぐに面白かったと言い直さないので、俺も途中へ口を挟まず待った。
「不思議なお客さんが来て、大騒ぎする話なのかなと思ってたんです。でも、客が帰っても、店員さんたちは仕事を続けるじゃないですか」
「はい」
「あの二人の会話が好きでした。片方が余計なことを言って、もう片方が雑に返すところとか」
俺の目が先輩へ動きかけた。向こうは伝票を揃えている。その手元まで見て、慌てて紙へ視線を戻した。水野さんはファイルを見ていたので、何か尋ねられることはなかった。
「客が来てないところも、読めました?」
「私は、むしろそこが好きでした。大きなことが起きたのに、まだ棚を片付けてるんだ、って」
書いている時には、不安だった部分だ。変わった客が帰れば、その場面を終えて次へ行った方がいいのではないか。それでも二人が残るところを書いていたら、水野さんはそこを好きだと言った。
「それ、消そうか迷ってたんです」
「そうなんですか?」
「何も起きてない気がして」
「二人が、さっきの客をどう見てたかは分かりましたよ。そこで同じことを考えてたわけじゃないんだな、と思いました」
俺は返事を忘れ、ファイルを見下ろした。何も起きていないつもりで迷った場所が、相手には違うふうに読まれている。その感想を、どう受け取ればいいか考えていると、水野さんが少し首を傾げた。
「分かりにくかったですか、今の言い方」
「いえ。俺が書きたかったところに、近かったので」
「じゃあ、よかったです」
水野さんがそこで笑った。俺も、ようやく頷けた。
「お客さんが、すごい人なのか、普通の人なのか、まだはっきり分からない感じも気になりました」
「分からないままで、大丈夫でした?」
「全部すぐ教えてもらわなくても、買い物していることは分かったので。後でまた出てくるのかな、とは思いました」
「出てきた時に、知りたくなる?」
「はい。ただ、何をしに入ってきたのかまで分からなかったら、そこは困ったかもしれません」
全部を伏せればよい、と聞きかけていた頭に、少しブレーキが掛かった。客の過去を知らないことと、今何が起きているか分からないことは、同じではない。俺はその違いを、帰ってから本文で確かめようと思った。
「読みにくいところは、ありました?」
「ありました」
「あるんだ」
「普通に言う約束でしたよね」
「はい。お願いします」
今度は俺からファイルを開けた。紙を出し、カウンターへ広げる。水野さんは一枚目を少し持ち上げ、冒頭から指で追った。
「ここです。店の棚を順に説明しているところ」
「ああ……」
「入口、冷蔵庫、棚の列、カウンターって読んだんですけど、途中で最初の位置を忘れました」
指が後ろへ戻った。読み直した時にも、こんなふうに戻ったのだろうと思う。俺は彼女が示した段落を見た。全部必要だと思って足した説明で、足した時の理由もまだ覚えていた。
「絵を描くから、位置関係は気になるのかと思ってました」
「気になります。でも、最初から平面図を全部作りたいわけではないので」
水野さんはカウンターの縁へ手を置き、店の入口を一度見た。
「入った時に、店員がどっちにいるかは知りたいです。客が近づける距離なのかも。そのあと、別の棚を見る時に、そこが分かれば追えるかなって」
「最初の説明を、全部なくすのではなく?」
「それだと、今度はどこにいるのか分からなくなりそうです。私が困ったのは、一度に全部覚えようとしたところなので」
俺は段落の最後へ指を置いた。ここで書かなければ伝わらないと思っていたものの中にも、客が近づく少し前まで待てる情報がありそうだった。逆に、あとで店員が物を取る場所は、その動作の途中で急に出しても分かりにくいだろう。
「帰って、どこまで最初に要るのか見てみます」
「でも、私が読んだ時の感想ですよ。全部消さないでくださいね」
「今、半分くらい消そうとしました」
「まだ、どこかも決めてないでしょう」
水野さんが笑った。俺も自分の早さに呆れて、紙から指を離す。最初に感想をくれた人だから、何でもそのまま正解にしたくなっていたのかもしれない。
「絵でも、言われたところを全部直して、何が描きたかったのか分からなくなることがあります」
「じゃあ、聞いてから決めるんですね」
「はい。私はここで迷った、というところまでです。その先は瀬尾さんの話なので」
優しく全部肯定するより、ずっとありがたかった。読みづらいところがあることと、全部を作り直さなければならないことは別だ。俺はその段落へ印をつけず、まず場所だけ覚えた。
「他にもあります?」
「まだ聞けます?」
「ここでやめると、逆に気になりそうなので」
「では、一か所だけ。会話の途中で、どちらが話しているか迷いました」
水野さんは数枚めくり、短いやり取りが続くところを示した。俺には、書いた時の声がそのまま聞こえる。けれど、彼女の指が止まった行だけを見れば、二人のどちらが言ってもおかしくない。
「次の行で分かったので、読めなくなったわけではないです。ただ、一度戻りました」
「俺、自分では全然戻ってないところです」
「書いた人だから、誰が言ったか知ってますよね」
「はい。そこが分からなかったです」
言ってから変な返事だと思った。水野さんは意味を取ってくれたらしく、小さく頷く。俺は手元の私用のメモ用紙へ、段落の場所だけ控えた。全文をここで書き直すことはしなかった。
レジの奥では、先輩が伝票の束を机へ揃えていた。紙の端が当たる乾いた音がして、俺は初めて、自分たちも随分長く紙を見ていると気づく。
「先輩、すみません」
「引き継ぎ終わってんなら、あとで原稿置き忘れんなよ」
「そこまで面倒はかけません」
「言っとかねえと怪しい」
水野さんが笑った。俺は話者の分かりにくかったページを、他の紙と重ね直す。さっきまで怖かった感想が、今は、家で確かめる場所を二つ残してくれていた。
「会話そのものは、読みやすかったです」
水野さんが付け加えた。
「いまの一か所以外は?」
「少なくとも、私が戻ったのはそこです」
「分かりました。そこから見ます」
全部に人物の名前をつけようとは思わなかった。さっき店の説明を半分消しかけたばかりだ。まず、彼女の指が戻ったところを、自分でも読み直そう。
「最後のページも、いいですか?」
水野さんが言った。俺は身構えたが、彼女はもう紙をめくらなかった。
「途中で終わってました」
「途中なんで!」
思わず声が上がった。水野さんの目元が緩む。
「知ってます。でも、ここで終わりではないんですよね?」
「もちろん。渡したところより先も、書いてます」
「では、続きがあれば読みたいです」
俺は、重ねた紙をファイルへ入れようとしていた。角が入口へ引っかかり、押し込む手だけが止まる。水野さんが何か言い足す前に、俺は紙を少し引き戻した。
「瀬尾さん?」
「……はい。いま、ちゃんと聞きました」
「嫌なら、無理に借りたいということでは」
「違います。嬉しくて」
言い終えたあとに、顔が熱くなった。さっきまで、気に入ったところを教わっても、何度も確認したくなっていた。今の一言だけは、本当に、と聞き返さずに受け取れた。
「続きを読みたいって、直接言われたのは、初めてで」
「そうなんですか?」
「はい。この原稿を読んでくれたのも、水野さんが最初です」
水野さんは少し目を丸くした。それからファイルへ引っかかった紙の端を見て、手を出さずに待ってくれた。俺は十枚を揃え、今度はまっすぐ中へ入れる。
「めちゃくちゃ嬉しいです」
「……それなら、言ってよかったです」
彼女も少し照れたように笑った。レジの機械音も、外を通る車の音も続いている。俺だけがしばらく手を止めて、同じ十枚を持ち直していた。
「ただ、次に渡すのは、もう少し先でお願いします。完成する方を目指したいので」
「もちろん。待ってます」
「ちょっと、プレッシャーもありますけど」
「じゃあ、忘れた方がいいですか?」
「それは困ります」
返事だけはすぐに出た。水野さんが笑い、俺も一緒に笑う。待っていると言われるのが重くて、なかったことにされるのは嫌だった。
「覚えていてください。急がせないくらいに」
「難しい注文ですね。私も課題がありますから、毎朝催促はしません」
「それ、助かります」
水野さんは原稿の一枚目へ、もう一度目を向けた。題名のない本文が、透明なファイルの向こうに見える。
「まだ、タイトルは考え中なんですよね」
「はい。宿じゃなくなったので、あの仮題は戻せないですし」
「読んだら、店の話なんだなとは思いました。不思議なお客さんの話でもあるけど、店員さんがそこで暮らしてる感じがしました」
「暮らしてる、ですか」
「働いてる、だけかもしれませんけど。客がいない時間もあるので」
俺はその言葉を聞きながら、さっき消そうと迷った二人の会話を思い出した。題名の候補を今すぐ並べることはしなかった。まず、残したい部分がどこなのか、自分で確かめたい。
先輩が時計を示した。七時だった。引き継ぎの抜けがないかもう一度確かめ、水野さんへレジを渡す。俺は原稿を鞄へしまいに、バックヤードへ入った。
同じファイルが、数日前と同じ場所へ戻った。紙には何も書き込まれていない。けれど、店の説明の段落と、短い会話の一行を見る目は、もう前と同じではなかった。俺は鞄の口を閉じ、エプロンを外した。
「お先です。読んでくれて、ありがとうございました」
「お疲れさまです」
自動ドアへ向かいかけたところで、水野さんに呼ばれた。
「続き、書いてくださいね」
「……はい」
「急がなくていいですけど」
「毎朝は催促しないんじゃ?」
「今日は、最初なので」
俺は笑って頷いた。書きます、ともう一度答え、店を出る。初夏の朝の空気が頬へ当たり、鞄の中でファイルが少し動いた。
駐車場の端で足を止め、スマホへ今朝の感想を残した。店の説明は、最初に必要な位置と、その後に見せる棚を分けて考える。会話で、誰が話しているか一度戻った行を確かめる。店員同士の静かなやり取りが好きだった。
その下へ、もう一行打った。
『続きがあれば、読みたいです』
読み返すと、直す場所のメモとは少し違って見えた。俺は一行だけ間を空け、その言葉を残したまま画面を閉じた。帰って開くのは、感想を待つ画面ではなく、書きかけの続きだった。