芦名 雅 / 第140話

第42話 雨宿りの冒険者、今度は元気です

 自動ドアから入ってきた男が、入口のマットで片足ずつ靴底をこすった。灰色の外套から水が落ちない。栗色の髪も額に張りついていない。俺は挨拶をしたあと、その左腕へ目を留めた。 「あ、こんばんは」 「今夜も、いたな」  男は俺を見つけると、足を止めた。細かな傷の走った革の胸当てに、腰の短い剣。真冬の雨の夜、腕に血の滲んだ布を巻いて入ってきた若い冒険者だった。先日は値引きのおにぎりと焼肉弁当を買って帰った。今日は、袖から覗くところに細い傷跡が見えている。 「今日は、また何か待ちます?」 「いや。今日はすぐ決まる」 「なら、俺も急いだ方がいいかな」 「急かすつもりではない。同じ店員なら、話が早いだろう」  言われて、返事が半端になった。俺より少し低い背丈の男は、前より顔を上げて立っている。その向こう、自動ドアのガラスには俺と二人分の姿が映り、さらに奥には暗い森が続いていた。午前一時二十二分。雨の音はなく、扉が開いていた間だけ、虫の声が薄く入ってきた。 「腕も、もう気にならなそうだな」  レジにいた榊原先輩も気づいたらしい。伝票から顔を上げると、男は左腕を少し上げた。 「町の治療院で診てもらった。もう治った」 「先日より、動かしやすそうですね」 「ああ。冷えると少しつれたが、今はそれもない」  指も動かしてみせる。先日は袖を下ろしたままで、俺も詳しくは聞かなかった。男が腕を下ろすのを待ってから、顔へ視線を戻す。見た目だけで済ませず、本人の口から今の具合を聞けた。 「よかったです。今日は、何を探しに?」 「黄色い温かいスープ」  今度はすぐに返事が来た。少しも迷っていない。続けてパンと水、と言い足したところで、男の口元がわずかに緩む。 「今日は、あのスープをもう一度飲むために来た」  先日は黄色い印を見つけてから迷っていたが、今夜はスープを先に決めてきたらしい。男は入口脇のかごを取り、腰の金を確かめる前に、売り場の奥へ目を向けた。 「コーンポタージュですね。こっちです」 「そういう名だったか」 「黄色いスープでも分かりますけど、次もそれだけ売ってるとは限らないですよ」 「では、今あるうちに教えてくれ」  真顔で返され、俺は少し笑った。名前を覚えさせる前に、商品を見せる方が早い。カウンターを出て案内すると、男は途中で冷蔵ケースの方へ顔を向けた。 「前は、そこも温かい飲み物だった気がする」 「少し減りました。暖かくなったので、冷たいものの方を増やしたんです」 「店の中身まで変わるのか」 「全部ではないです。スープは同じのがあります」  俺が棚を示しても、男はすぐには手を伸ばさなかった。カップ麺の列から菓子棚へ目を移し、入口側のコピー機を少し長く見る。前には気づかなかったものを、今になって確かめているようだった。 「あの箱も、あったか?」 「ありましたよ」 「雨の夜には、見ていなかったな」  その言い方は、機械が増えたと疑っている声ではなかった。俺も一度、入口からここまでの通路を見た。あの夜は濡れた外套の裾ばかりが気になり、男にどんな棚が見えていたのかまでは考えていなかった。 「あの夜は、温かいものを探してましたからね」 「最初は、明るい、暖かい、食べ物がある。それしか覚えられなかった」  男はそこまで言うと、目の前のカップを持ち上げた。黄色い粒の写真を指で押さえ、少し傾けてみる。 「これだ。これは覚えている」 「そんなに気に入りました?」 「うまかった。ただ、寒かったからかもしれん」 「今日は、そんなに寒くないですよ」 「だから、もう一度飲む」  カップがかごへ入った。今夜は温まるためだけではないらしい。俺は似たスープの方へ伸ばしかけた手を戻し、パンの棚へ向かった。男は前に買ったのと同じ小さなパンを選ぶ。今度はそちらの味も確かめたいという。 「前は、パンの味までは覚えていないんですか?」 「食ったことは覚えている。だが、熱かった方が残った」 「分かりやすいですね」 「水は、普通のでよい」  冷蔵ケースから一本取ってもらい、レジへ戻りかけたところで、先輩に呼ばれた。 「瀬尾、袋はこっちに出してあるぞ」 「ありがとうございます」  カウンター脇に、広げやすいよう向きを揃えた袋がある。俺がそちらを見ている間に、男の視線が名札へ下りた。 「瀬尾というのか」 「はい。瀬尾悠斗です。あっちは榊原先輩」 「榊原だ」  先輩は手を上げず、名前だけ返した。男が小さく二人の名を繰り返す。雨の夜も、値引きの話をした先日も、互いの名前を尋ねることはなかった。 「次に来た時、違う人だったら、そのスープを見せてくださいね。俺の名前より通じます」 「それはそうだろうな」 「そこ、即答されるとちょっと寂しい」  男はかごを持ち直して笑った。それから日用品棚を通り過ぎる手前で、もう一度足を止めた。薄手のタオルが掛かっている。前に渡したものと同じ袋だった。 「布も、残っているな」 「今日は要りませんでしたっけ」 「濡れていないからな。ただ、前のものは丈夫だった」  男は荷袋の口を開け、端だけを見せた。洗って畳んだらしい布が、他の荷物の間に挟まっている。少し使い込まれたそれを見て、俺は棚の新品と見比べた。 「まだ使ってくれてるんですね」 「使えるものを捨てないだろう」 「そうですけど、俺、売ったあとを見たの初めてなので」  男は布を戻した。袋の口を締めてから、棚の一枚を手に取る。今度は値札を見て、俺へ尋ねた。価格を伝えると、腰の革袋を指で確かめて頷く。 「では、もう一枚」 「今度は予備ですか」 「洗った方を乾かす間にも使える。前の一枚で、それが分かった」  俺はカウンターへ戻り、四つの商品を受け取った。コーンポタージュ、パン、水、タオル。前の買い物に水が一本加わっただけなのに、かごを置く手には随分余裕がある。 「怪我がない以外は、似た買い物ですね」 「床も濡らしていない」 「それも助かります」  先輩が横から、入口の方へ目をやった。 「今日はモップいらねえな」 「あの夜は、そんなに濡らしたか?」 「入口からレジまで、足跡で分かりましたよ」  男が少し気まずそうに黙ったので、俺は商品の読み取りを進めながら付け足した。 「雨ならそうなります。今度も濡れてたら、入る前に気にしすぎないでください。拭けば済むので」 「お前がな」 「先輩も拭いてくださいよ」  横から入った一言に、男の顔も緩んだ。会計額が出ると、今度は自分から精算機へ向き、硬貨を入れていく。支払いが終わり、お釣りを革袋へ戻すまで待ってから、俺はスープとスプーンを渡した。 「ここで作ります?」 「ああ。前は、そっちがやってくれたな」 「今日は自分でやってみますか。お湯のところだけ、一緒に見ます」  男は少し迷った。給湯器を見てから、まだ蓋の閉まったカップを確かめる。あの夜は震える手で受け取るのがやっとだったが、今日は両手とも空いていた。 「やってみる。どこまで開ける?」  俺は蓋の端を示し、表示を確かめてもらった。開けたカップの中を見せながら、湯を入れる線を指す。男は給湯器脇の台へ水とパンを置き、カップを受け台へ据えた。 「ここから湯が出ます。手を下へ入れないでくださいね」 「見ていれば分かるな。……これを押すのか?」 「はい。少しずつで大丈夫です」  ボタンが押され、湯が落ちた。立ち上った湯気に男の顔が少し引かれる。前には俺の手元を見ていただけの客が、今は自分の指を離して量を確かめ、もう一度押している。 「この線だな」 「そうです。そこで止めてください」  湯が止まった。男はすぐ持ち上げず、渡したスプーンで底からゆっくり混ぜる。底に残りやすい部分へ目を向け、スプーンが引っかからなくなるまで手を動かしていた。 「待たなくてよいのか?」 「これは、よく混ぜてからです。熱いので、飲む方は急がずに」 「それは覚えている」  返事が早かった。前に一口飲んで、熱いと言った顔が浮かぶ。俺もそこは繰り返さず、レジへ戻って袋の残りを整えた。店内にはコーンポタージュの甘い匂いが広がり、森の方では細い枝が揺れている。  男がようやくカップを口へ運んだ。少量を飲み、少し離す。舌に残った味を確かめるように口を閉じてから、もう一口飲んだところで俺を見る。 「やっぱり、うまい」 「寒さだけじゃなかったですね」 「ああ。これが好きらしい」  俺は笑った。自分の好みを今知ったという言い方だったが、それをからかう気にはならなかった。男はパンも開け、今度はスープを飲む合間に、ゆっくり食べている。前は温まることに使っていた両手が、今日は食べる順番を選んでいた。 「最初に町へ戻った時、この店を知らないかと聞いた」  しばらくして、男が言った。俺は袋を揃える手を止めたが、すぐ続きを待った。異世界側で店の噂を聞いた客は、これまでにも来ている。 「夜の森にある、白く明るい店。だが、俺の聞いた相手は誰も知らなかった」 「見つからなかったんですか」 「旅人から、妙な店の噂を聞いたことがあるという者はいた。それだけだ」  男の目が入口へ向いた。白い床が、ガラスの向こうの暗い土へ変わるところを見ている。 「仕事でこの辺りを通る時は、灯りを気にしている。先日も、今夜も、木の間に見えたんだ」 「それでまた、寄ってくれたんですね」 「ああ。最初に来た夜は道を外れていたから、同じ歩き方では来られん。今夜は帰り道の方も分かっている」  俺には、街道からどう歩いて来るのかは分からない。店の中から見えるのは、明かりの届く木々までだ。男は空いた指で外套の端を直し、カップを持ち直した。道を尋ねる気配は、今夜はもうなかった。 「見つかってよかったです」 「今日は道に迷っていない。戻る方も分かっている」 「じゃあ、スープを飲んで帰るだけですね」 「パンも食っている」 「そうでした」  男は残りを口へ入れ、カップを台へ戻した。俺が売ったものを数えるより、本人の方が正確だった。  食べ終えると、男は空いた包装をまとめた。ごみ箱の表示だけ俺に確かめ、スプーンと容器をそれぞれ捨てる。水はまだ残っていたので蓋を閉め、タオルと別に荷袋へ入れた。布を新しく買っても、古い一枚を追い出すようなことはしなかった。 「次は、別のパンにする」  袋の口を締めながら、男が言った。 「スープは、同じので?」 「あればな」 「パンの方だけ冒険するんですね」 「冒険者だからな」  返事があまりに真面目で、俺は一拍遅れて吹き出した。男がこちらを見る。先輩まで、伝票へ向けた顔のまま口元を動かしている。 「今の、狙って言いました?」 「違うのか」 「違わないです。すごく、ちゃんと冒険者です」  男は少し考えたあと、俺の笑いが収まるのを待たずにかごを戻した。入口へ向かう足取りには、もうどちらかの腕をかばう動きもない。 「最初は、この店を灯りだと思っていた」  ドアの手前で足が止まる。俺もそこへ目を向けた。男は、さっき自分で湯を入れた場所を振り返った。 「今日は、どこでスープを作るか分かった。布がどこにあるかも」 「次は、名前を言わなくても買えそうですね」 「瀬尾」 「はい?」 「名前は、そっちだろう」  俺はもう一度笑った。スープの名は覚えていなくても、呼ぶ相手の名前は一つ残ったらしい。 「また来たら、いらっしゃいませって言いますよ」 「ああ。次も怪我はしていない予定だ」 「そこは、ぜひ」 「道、気をつけろよ」  先輩の声に男が片手を上げる。自動ドアが開き、乾いた灰色の外套が白い光から離れていった。木々の間へ消える手前でもう一度振り返ったが、今夜は、そのまま迷わず進んでいった。  俺は入口の床を見た。濡れた足跡はない。マットの上に少し土が残っているだけで、モップを取りに行く必要はなかった。代わりに給湯器脇へ戻り、台に落ちたパン屑を払った。 「そこは汚れたな」 「食べましたからね」  先輩が言うので、俺もそのまま返した。布巾で拭いた台から、薄くコーンポタージュの匂いがする。今度はただの食べこぼしだ。片付け終えてから棚へ戻り、男が見ていた別のパンも、名前と中身が見える向きに揃えておいた。

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