芦名 雅 / 第46話

第32話 獣人にマスクは小さすぎる

 ポケットティッシュの箱を開けたところで、自分の鼻がむずむずした。俺は商品から顔をそらし、くしゃみが出るのを待った。出ない。息だけ変に吸って、鼻の下を押さえたままになった。 「何やってんだ」 「今、出そうだったんですけど」 「出ないなら、並べろ」  榊原先輩の返事はいつもどおりだった。三月も後半に入ったミッドマート北森店では、入口近くにティッシュとマスクが並ぶようになっている。冬の防寒用品より薄く、軽そうな商品ばかりなのに、補充する箱は意外に重かった。 「先輩、鼻、平気ですか」 「平気」 「いいなあ。俺、外へ出ると時々こうなるんですよ」 「店ん中でも止まってるけどな」  また鼻がむずむずしたので、返す前に顔をそむけた。今度も出ない。先輩の笑う気配だけが、レジの方から伝わってきた。  零時を過ぎ、駐車場が黒い森へ変わった。棚を整えてレジへ戻り、十分ほど経ったところで、自動ドアが開く。 「いらっしゃいま――」 「はっ、はっ……はっくしょん!」  俺の挨拶が全部持っていかれた。入口に立っていた客は、長い鼻先を両手で覆っている。首から頬にかけて灰褐色の毛があり、頭の上には大きな三角の耳。薄い黄褐色の目は涙で潤み、目の下の毛まで湿っていた。深緑の外套に細長い荷袋を背負った、初めて見る獣人だった。 「大丈夫ですか」 「紙はないか。鼻を拭く、柔らかい――はっ」  続きが出る前に肩が上がった。俺は日用品棚へ向かい、さっき並べたポケットティッシュを取った。相手は外套の袖を顔へ当てかけ、それから汚れているのを見てやめる。 「こういう紙です。小さい袋に分かれてます」 「幾つ入っている」 「これは十個のまとめパックです」 「それでよい。今、使いたい」  返事の途中でまた鼻をすすった。ほかの商品を案内するより先に、俺はレジへ戻った。ティッシュを読み取り、精算機を示す。客は腰の曲刀へ手を近づけないよう、反対側の革袋を外した。楕円形に近い銀色の硬貨が投入口へ入ると、表示が変わっていく。  会計が終わって商品を返すと、客は大きな包装の開け口で少し手間取った。短い爪を立てて破るのではなく、指の腹で端を探している。俺が切り込みを示すと、そこからようやく一袋が出てきた。 「薄いな」 「広げて使えますよ」  長い鼻先へ一枚を当ててみて、客はもう一枚重ねた。勢いよく拭うかと思ったが、毛の濡れた辺りへ慎重に押し当てている。やがて大きく息を吐き、初めてこちらをまともに見た。 「……これはよい」 「足りました?」 「今はな。さっきは、話すたびに鼻が先に返事をした」  笑っていいのか迷っていると、本人が少しだけ口元を緩めた。使った紙を捨てる場所を聞かれ、俺は投入口まで示した。残りのパックは自分の荷袋へしまい、一個だけ外套の取り出しやすい所へ入れる。それから、日用品棚へ目を戻した。 「隣の、顔に付けるものも見たい」 「マスクですか」 「鼻を覆っている絵だ。あの粉を吸わずに済むのかと思ってな」  客が見ていたのは、白いマスクを着けた人間の横顔だった。俺もその絵を見て、次に本人の鼻先へ目をやった。かなり前へ出ている。耳の位置も、絵とはまるで違った。 「粉って、森のですか?」 「ああ。東の街道沿いに、今の時期だけ黄色い粉を飛ばす木がある。そこを通ると、毎年こうなる」 「毎年は、つらいですね」 「通らなければ町へ戻れん。遠回りすれば、今度は帰りが遅くなる」  客は棚の箱へ顔を近づけた。これは大きいのか、と尋ねる声に、さっきとは違う期待があった。鼻を拭うものは手に入った。次は、拭わなくて済むものが欲しいのだろう。 「人間が使う中では、大きめのサイズです。ただ、顔の形が合うかどうか……」  箱に書かれた寸法を読み、両手で幅を示した。客も自分の鼻へ指を添えた。長さだけなら無理に引っ張れそうに見えても、鼻先を覆えば頬の方が足りなくなる。包装の絵へ戻った目が、今度は耳に掛ける紐で止まった。 「これは、耳へ掛けるのか」 「はい。左右へ」  客は頭の上の耳を片方だけ倒した。俺が示す位置と、自分の耳までの距離を測っているらしい。その仕草は真剣で、笑えるものではなかった。 「そこまで伸びる紐ではなさそうだな」 「形も、鼻の途中までしか来なさそうです」 「大きくすればよいという話ではないのか」 「すみません。今あるのは、こういう形だけなんです」  客はしばらく箱を持っていた。手放す前にもう一度だけ裏返し、ほかの着け方が描かれていないか確かめる。その目が俺へ戻ったので、別の絵も人間向けであることを伝えた。ようやく箱が棚へ戻る。 「開けてから分かるよりは、よかった」  そう言って、外套のポケットからティッシュを取り出した。手に入らなかったものを諦める仕草と、買ったものを使う手つきが続いている。俺は無理に別のマスクを持ち出さず、棚の端へ寄った。 「鼻を止める物はないか」 「その症状に使えるものは、俺には選べません。身体のことも分からないですし」  客は紙を鼻へ当てたまま、こちらを見た。俺がもう少し説明しようとすると、先に頷く。 「そうか。紙を売る者に、治せというのも違うな」  言い方に少し落胆が混じっていた。だからといって、大丈夫そうなものを勧めることはできなかった。俺は返す言葉を探し、日用品の棚へ視線を移した。 「布ならあります。顔を拭くものですけど」 「長いものか?」 「この辺のタオルです」  案内すると、客はフェイスタオルの袋を一つ取った。薄手のものを選び、広げた時の寸法を聞く。答えると、両手を鼻先から後ろへ回すように動かした。 「これなら、自分で巻けそうだ」 「マスクの代わりに粉を防げるかは、俺には分からないです」 「それは分かった。合わなければ、拭く布として使う」  客は袋越しに布を押した。用途を聞き終えると、まだ開けずにかごへ収める。今度は俺の方で、タオルなら何でも解決するような顔をしないようにした。  飲み物も欲しいと言われ、水の棚へ向かう。その途中で、客の鼻がひくりと動いた。俺が身構えると、今度はくしゃみではなかった。 「肉だな」 「チキンを揚げてます」 「入った時から匂っていた。鼻は役に立たんのに、あれだけ分かる」 「役に立ってるところもあるじゃないですか」 「腹ばかり空くのは、困る」  言いながら、視線はホットスナックケースへ向いたままだった。先輩がトングを持ち上げる。客は水を二本かごへ入れ、迷わず二つと注文した。 「タオルと水二本、それからチキン二つですね。ティッシュの会計は、さっき済んでます」 「ああ。二度払うほど、鼻に頭を取られてはいないぞ」 「俺が間違えないようにです」  そう返すと、客が笑った。二度目の会計を終え、水と布を一方へ、チキンの紙袋を別に渡す。さっきより硬貨を扱う手が落ち着いていて、お釣りも取り忘れず革袋へ戻した。  入口脇でタオルを広げると言うので、レジ前を空けてもらった。俺は会計台を拭き、先輩は揚げ物の記録をつける。しばらくして顔を上げると、客は両肘を張った格好で止まっていた。鼻へ当てたタオルの端を後ろへ回そうとすると、耳へ引っかかるらしい。 「後ろ、届きません?」 「届く。耳の上を通さなければな」  右から回し直すと、今度は左の耳が布を押し返した。客は一旦全部外し、手元で広げ直す。買ったばかりの布に苛立ちをぶつけず、折り方を変えて試していた。 「耳の下を通せば?」  先輩がレジから言った。客は手を止め、耳の付け根へ触れた。 「……下か」 「後ろへ回すところだけ、下げりゃ届くんじゃねえの」  教えるというより、見えたことを言った声だった。客は頷き、布の端を耳の下から後ろへ回した。さっきより無理のない位置で結べる。少し首を動かして確かめてから、鼻先の辺りを緩めた。 「これなら耳は動くな」 「きつくないですか」 「そこは自分で直す」  結び目を少しずらし、客は満足したように両手を下ろした。深緑の外套に曲刀、その上に口元を隠す白い布。俺は思わず、入口からこの姿で現れたら驚くだろうな、と考えた。 「何だ、その目は」 「あ、いや。入ってきた時とは、かなり違う感じになったので」 「賊にでも見えるか」  先に言われ、返事に詰まった。先輩を見ると、あちらも口の端を押さえている。客は三角の耳をこちらへ向けた。 「代価は払った。剣は抜いていない。布を売ったのも、お前たちだぞ」 「すみません。そこは、全部そうです」 「ならばよい」  布の下で、少し笑ったような声になった。俺は頭を下げ、開けた包装を捨てる場所を示した。客は自分で片付け、それから待たせていたチキンの袋を開く。 「これは、ここで食う」  肉を口へ近づけたところで、動きが止まった。白いタオルと紙袋が、鼻先でぶつかっている。 「……」  俺も黙った。せっかく苦労して結んだばかりだ。客はチキンを見て、俺を見た。先輩が小さく吹き出す。 「先に食っときゃよかったな」 「今、それを言うか」  客は紙袋を置き、後ろの結び目をほどいた。外した布を畳む手が妙にきちんとしていたので、こちらまで笑いにくくなる。俺が顔をそらすと、客も短く笑った。 「腹が先だ。さっきから待っている」 「チキンは逃げませんから。熱いので、そこだけ気をつけてください」  鋭い牙が衣を噛み切った。くしゃみで何度も途切れていた口が、今は食べる方へ忙しく動く。客は一つ目を食べ終え、水を一口飲んでから、二つ目の袋も開いた。 「もう一つ、持って帰る」 「気に入りました?」 「紙と肉はよい店だ」 「マスクは、すみませんでした」 「それは私の顔に合わなかっただけだ。無理に買わせなかっただろう」  返事をして、追加の一つを会計した。三つ全部を一度に食べるのではなく、最後の袋は荷袋の上へ持っていく。タオルを巻き直す前に、口元をティッシュで拭うことも、今度は本人が先に済ませた。 帰り支度が整うと、客は日用品棚をもう一度見た。マスクの箱じゃなく、十個入りのティッシュが並んでいる場所だった。 「次も、この紙を頼む」 「はい。棚の場所が変わってたら聞いてください」 「顔に合う物も入ったら教えてくれ」 「発注できる商品の中では、まだ見たことないです。約束はできません」 「そうか。なら、紙だな」  返事は残念そうだったが、取り出しやすい所へ入れた一袋を軽く叩いた。手に入ったものの場所は、もう決まっている。  自動ドアが開くと、湿った森の空気が店へ入った。客は外で一度立ち止まり、結び目を確かめる。こちらへ手を上げかけたところで、また肩が大きく動いた。 「はっ……はっくしょん!」  扉が開いている間に、くぐもった音が届いた。俺が声を掛ける前に、客は自分でティッシュを出した。少し鼻先の布をずらし、使ったあとで戻す。その手つきは、入ってきた時よりずっと落ち着いていた。  ドアが閉まり、店内に冷蔵ケースの音が戻った。俺は日用品棚で、マスクの箱を元の位置へ揃えた。売れたのはティッシュと布。だからといって、マスクの棚を広げても仕方がない。 「先輩、ティッシュの十個入り、次の発注にも入れときます」 「在庫見たか」 「今、見ます」  答えて箱へ手を伸ばした途端、また鼻がむずむずした。今度はちゃんとくしゃみが出た。商品から顔をそらした俺へ、先輩が一言だけ寄越す。 「お前も買って帰れ」 「……一個は、欲しいです」  俺は鼻を押さえながら、棚の奥に残ったパックを数え直した。

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