芦名 雅 / 第20話

第19話 先輩、QR決済知らないんですか

 午後十一時四十八分。自動ドアの向こうは、まだ日本の駐車場だった。山道を走る車の明かりもほとんどなく、ガラスに映るのは店内の白い照明と、レジ前に吊られた赤い販促札くらいだ。俺はカウンター脇に立てた小さなPOPを見た。冬のあったか商品キャンペーン。対象商品を買ってコード決済すると、後日ポイントが付く。昨日から始まったらしい。 「先輩」 「ん」 「これ、内容分かって貼りました?」  レジの中で伝票を見ていた榊原先輩が、顔を上げずに答えた。 「貼れって書いてあったから貼った」 「内容は?」 「ポイントがどうとか」 「ふわっとしてるなあ」 「客が分かってりゃいいだろ」 「店員も分かってた方がいいですよ」 「瀬尾が分かってる」 「俺に丸投げしないでください」  先輩は欠伸をして、ずれた猫エプロンの紐を直した。二十九歳、俺より七つ上だ。リザードマンの注文にも、剣を抜きかけた客たちにも平気で対応するくせに、こういう新しい案内にはやけに関心が薄い。もっとも、俺が入ってから夜に一番よく見ている支払いは、異世界の硬貨を精算機へ入れるやり方だった。キャンペーンの手順を実際に使うところは、まだあまり見ていない。そんなことを考えていると、自動ドアが開いた。 「いらっしゃいませ」  俺と先輩の声が重なった。入ってきたのは、黒いダウンジャケットを着た男だった。三十代くらいだろうか。肩に夜露が少し光り、片手には車の鍵を持っている。普通の日本人。それだけで、最近は少し珍しく感じる自分が怖い。男は温かい飲料の棚から缶コーヒーを一本取り、サンドイッチと小さなチョコレートをかごへ入れた。レジ前まで来たところで、キャンペーンのPOPに目を留める。 「これ、今日からでしたっけ」 「昨日からです」  俺が答えると、男は「ああ、じゃあちょうどいいな」とスマートフォンを取り出した。先輩がレジに立つ。ピッ。ピッ。商品を通す手つきはいつもどおりだ。三点を読み終え、袋が必要かを確認し、会計画面へ進む。 「お支払いは?」 「コード決済で」 「……コード?」  先輩の手が止まった。男はスマートフォンに支払い用のコードを出し、カウンターへ向けて待っている。先輩はその画面を見て、レジを見て、もう一度スマートフォンへ目を戻してから俺を呼んだ。 「瀬尾、これどこ押す」 「……こっちです」  声が裏返りそうになったが、客を待たせている。先に「少々お待ちください」と頭を下げ、俺はレジの横へ回った。先輩は知らないままボタンを押さず、俺が画面を指すまで手を離していた。 「この店だと、ここです。『コード決済』を選んで」  画面を一度押す。 「それから、こっちのスキャナでお客さんのコードを読みます」 「商品のバーコードと同じか」 「だいたい操作としては」 「最初からそう言え」 「今言ったでしょうが」  先輩がハンドスキャナを取る。男がスマートフォンを少し傾けた。ピッ。短い電子音。レジ画面に決済完了の表示が出た。 「……終わりか」 「終わりです」 「簡単だな」 「さっきまで何を警戒してたんです?」 「知らねえ画面を勝手に押す方が危ねえだろ」 「それは正しいですけど」  客の男が小さく笑った。 「大丈夫ですよ。自分の親も最初そんな感じでした」 「親」  先輩の眉がほんの少し動いた。俺は吹き出しそうになって、慌てて口を閉じた。 「ありがとうございました」  先輩の声だけが少し低くなった気がする。男は商品を受け取り、まだ笑いを残した顔で店を出ていった。自動ドアが閉まる。数秒。 「先輩」 「何も言うな」 「まだ何も言ってないですよ」 「顔がうるさい」 「顔にまで文句つけないでください」  俺はとうとう笑った。 「先輩、QR決済知らなかったんですか」  客の車が駐車場を出てから、ようやく口にできた。先輩はレジ画面へ視線を残したまま、伝票を脇へ寄せる。 「スマホで払うのがあるのは知ってる」 「使い方は?」 「今見た」 「正直だなあ。カードとか電子マネーは大丈夫ですよね?」 「そっちは分かる。カードを入れるのも、かざすのも」 「じゃあ、コードだけが初めて?」 「種類が多すぎんだよ」  先輩は不機嫌そうに、キャンペーンPOPを見る。 「カード出す。金出す。そこまでは分かる。何で電話の画面見せて金払えるんだ」 「電話って言い方がもうちょっと古いんですよね」 「スマホだろ」 「持ってるじゃないですか、先輩も」 「電話と連絡に使えりゃ十分だ」 「地図とか動画とか買い物とか」 「別に困ってねえ」 「二十九歳の発言とは思えない」  先輩がじろりと俺を見る。 「お前、年上を何だと思ってんだ」 「七歳しか違わないでしょう」 「七年ありゃ色々変わる」 「七年でQR決済を古代文明みたいに見ます?」 「見てねえ」 「三回見比べてましたよ。スマホ、レジ、スマホって」 「確認だ」 「めちゃくちゃ警戒してた」  先輩は答えず、レジの操作画面へ指を伸ばした。 「で。もう一回」 「え?」 「客来た時に止まる方が面倒だろ。手順」 「ああ」  先輩はハンドスキャナを元の位置へ戻し、支払い方法の選択画面を開いた。さっきは俺の指を待っていた手が、今度は自分で該当のボタンへ伸びる。客がいないうちに場所を確かめたいらしい。俺も隣へ寄った。 「商品を通した後、ここでコード決済を選んで、お客さんの画面を読みます。完了した表示まで見てください」 「ここ」 「はい」 「これ押す」 「はい」 「読む」 「そうです」 「終わり」 「終わりです」  先輩は一度だけ頷き、画面を最初の状態へ戻した。それからもう一度開き、今度は何も訊かずに同じボタンを指す。俺が頷くと、その先へは進めず元へ戻した。客のコードもないのに、会計を試すつもりはないらしい。 「簡単じゃねえか」 「だから最初からそう言ってるんですよ」 「説明が長い」 「三手順しかない!」  先輩はレジ横に置かれたハンドスキャナを持ち上げ、裏返した。 「これで商品も読むんだよな」 「はい」 「支払いの時も読む」 「この店ではそうです」 「同じ機械なのに、片方は商品で片方は金か」 「画面側で何を読むか切り替えてるんですよ」 「めんどくせえ」 「便利になった結果、店員が覚えること増えてるんです」  俺はレジ前の支払い案内を指差した。現金、クレジットカード、電子マネー、コード決済。小さなマークが何種類も並んでいる。普段なら意識もしない。客に言われた支払い方法を選んで、表示どおりに進めるだけだ。先輩は、その小さなマークの列をしばらく眺めた。 「多くねえか」 「多いです」 「減らせ」 「俺に言わないでください」 「現金一個でいいだろ」 「全国のキャッシュレス派を敵に回しますよ」 「知らん」 「カード派もいますし、スマホだけで出かける人もいますから」 「財布持たねえの?」 「そういう人もいます」  先輩は本気で理解できないものを見る顔をした。 「充電切れたら終わりじゃねえか」 「そこなんですよね」 「電波なくても困るだろ」 「方法によりますけど、困ることはあります」 「財布でいい」 「急に説得力出さないでください」  懐中電灯を買っていった魔法使いに、電池切れを説明した時もそうだった。便利なものには、便利なものなりの弱点がある。ただし今、その話をしているのは異世界の魔法使いではなく、日本人の二十九歳だ。 「先輩、スマホ何に使ってるんです?」 「電話」 「それは知ってます」 「連絡」 「同じようなものじゃないですか」 「地図」 先輩はポケットからスマホを出すでもなく、レジ台の端を指で二度叩いた。使っていないわけではないが、機能を増やすこと自体には興味が薄いらしい。 「お、ちゃんと現代的」 「天気」 「普通」 「以上」 「少ない!」  先輩がポケットから自分のスマートフォンを出した。黒いケースに入った、別に古くもない端末だ。画面に並んでいるアプリは本当に少ない。電話、メッセージ、地図、天気。あとは最初から入っていそうなものがいくつか。 「決済アプリ入ってないんですか」 「必要ねえ」 「ポイントとか」 「いらん」 先輩は一切迷わず画面を閉じかけた。便利なものが増えた話をしている俺と、必要なものしか入れない先輩で、興味の向く場所がまるで違う。 「キャンペーンとか」 「知らん」 「さっき貼ったやつですよ!」 「貼る仕事はした」 「内容も覚えて!」  先輩はスマートフォンをポケットへ戻した。 「昔はカード出しゃ済んだ」 「昔って」  そこまで言いかけて、俺は口を閉じた。先輩は二十九歳だ。俺より七歳上なだけなのに、ときどき話の中に出てくる「昔」が妙に遠い。本人の見た目と、知っているものの年代が噛み合わない感じがする。 「何だ」 「いや」 「言えよ」 「先輩の昔、長くないですか?」 「意味分かんねえ」 「俺も今、自分で言っててよく分かりません」 「なら黙ってろ」 「はい」  先輩は伝票へ戻った。追及するほどのことでもない。ただ、また一つだけ引っかかりが増えた。店内時計を見る。午後十一時五十九分。あと一分。俺はレジ横のキャンペーンPOPを直した。さっき客が見ていた赤い札。その横には、ホット飲料の新商品。入口近くには乾電池と小型ライトの冬向け販促。全部、日本では普通の売り場だ。先輩にとっては、そうでもないものが混じっているらしい。 「先輩」 「今度は何だ」 「先輩って、今の日本に妙に疎い時ありますよね」  言ってから、自分でも妙な言い方をしたと思った。先輩の手が一瞬だけ止まる。 「……変わるんじゃねえの」 「何です、その他人事みたいな言い方」 「零時だぞ」  話を切られた。店内時計の表示が、00:00へ変わる。照明がほんの一瞬だけ揺れた。ガラスの向こうから日本の駐車場が消える。暗い森。湿った土。黒い木々。いつもの六時間が始まった。 ◇  午前零時六分。ウィーン。 「いらっしゃいませ」  入ってきたのは、常連のリザードマンだった。苔色の鱗。擦れた革ベスト。腰には幅広の剣。最初に見た夜なら叫んでいた姿が、今ではもう見慣れた常連客にしか見えない。 「今日は冷えるな」 「こっちも寒くなってきました」 「では、温かいものを頼む」 「チキンです?」  リザードマンは答える前に、レジ横の赤いPOPへ顔を向けた。 「その赤い札は何だ?」 「これですか?」  俺はさっきまで先輩と話していたキャンペーン表示を見る。文字は日本語だから、この客には読めない。だが湯気の立つ飲み物や菓子の写真は見えるらしい。 「対象の商品を買って、決まった支払い方をすると、あとで少し得になる企画です」 「得」 「次の買い物に使える分が貯まる、みたいな感じですね」 「我も使えるのか?」 「ええと」  俺は先輩を見る。 「無理だろ」 「ですよね」 「なぜだ」 「スマホが要るんです」 「すまほ」  琥珀色の目が細くなる。聞いたことのない言葉らしい。 「こういう薄い機械です」  俺は自分のスマートフォンを取り出し、画面を消したまま形だけ見せた。黒い爪はすぐには伸びず、リザードマンの顔だけが掌の上へ近づいてくる。 「この店で使える支払いの仕組みを、これに用意するんです。機械を持っているだけでも駄目で」 「それがないと得にならぬ?」 「今回のは、そうですね」  リザードマンは少し考え、自分の大きな手を見る。黒い爪。そのまま腰の革袋を軽く叩いた。 「硬貨では駄目か」 「普通の買い物はできますけど、キャンペーンは別です」 「複雑だな」 「俺もそう思います」  先輩が言った。俺は反射で振り向く。 「さっきまで知らなかった人が一番共感してる」 「うるせえ」 リザードマンが低い喉の音を鳴らした。笑っているように聞こえた。 「では、得はせずともよい。鶏を三つ」 「結局そこに戻るんですね」 「うまいからな」 「三つですね」 「うむ」 「やっぱり」  俺がホットスナックケースへ向かうと、先輩は何の迷いもなくレジへ入った。リザードマンはチキンのほかに、温かいお茶を一本と、大きめのおにぎりを二つ持ってくる。ピッ。ピッ。ピッ。先輩の手は止まらない。 「こちらへ」  会計額を出し、半セルフ精算機を示す。リザードマンが革袋から何枚かの硬貨を出した。銀色のもの。くすんだ銅色のもの。俺には今でも価値の違いが分からない。硬貨が投入口へ落ちる。機械が勝手に判定する。表示が切り替わり、会計が終わった。 「ありがとうございました」 「うむ」  リザードマンは紙袋を爪で破らないよう丁寧につまみ、森へ帰っていった。ドアが閉まる。俺は先輩を見る。 「何だ」 「いや」 「言え」 「異世界の硬貨には一ミリも困らないのに、スマホで止まるんだなって」 「硬貨はあいつが入れるだけだ」 「機械が判定してますもんね」 「そういうことだ」 「QRも機械が判定してますよ」 俺が画面を指すと、先輩の視線がスマホと精算機の間を往復した。異世界の硬貨より、手元の四角い画面の方がまだ信用できていない顔だ。 「……」 「先輩?」 「瀬尾」 「はい」 「チキン補充」 「逃げた!」 「売れたから揚げる。コンビニだろ」 「そこだけは一貫してるなあ!」  先輩はもうレジの画面を見ていた。何も会計していない画面から、さっきのボタンの位置を一度指でなぞり、それからスキャナを取りやすい向きへ置き直す。俺はフライヤーの前へ回った。 「先輩、次の時は呼ばなくてもいけます?」 「客が来たら見とけ」  その言い方だけは、さっきより少し強かった。俺は笑ってバスケットを下ろす。油の音が立つ向こうで、先輩は貼ったばかりのキャンペーン札を、今度こそ裏まで読んでいた。

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