芦名 雅 / 第21話

第20話 先輩、勇者だったんですか

 ココアの段ボールを開けると、昨日の先輩の顔を思い出した。午前零時を過ぎたミッドマート北森店は、もう黒い森につながっている。ホット飲料の棚ではココアの列だけが手前から減り、空いた所へ隣の缶が一本傾いていた。俺はそれを戻しながら、レジの中の先輩を見た。 「先輩、ココア減ってます」 「補充」 「分かってます」  俺は開けた箱からココアを取り出した。以前より温かい物の補充が増え、缶を数えながらでも、レジの先輩と話せるようになっている。だから気がそれたのか、隣の列との境目を一本、間違えた。 「瀬尾」 「はい?」 「そこ、一本違う」 「あ」 同じような色の缶を一本、別の列へ入れかけていた。話しながらでもできると思った直後のミスなので、言い返しにくい。 「よく見てますね」 「お前が雑なんだろ」 「先輩、QR決済では止まったくせに」 「まだ言うのか」 「昨日覚えたんですよね。じゃあ次に来ても大丈夫ですね?」 「覚えた」 「来りゃ分かる」 「それ大丈夫って言わないんですよ」  先輩は欠伸をした。リザードマンを見ても。魔族を見ても。剣を抜きかけた客がいても。この人はほとんど動じない。なのにスマートフォンの支払い画面では止まる。考えれば考えるほど、よく分からない人だった。ウィーン。自動ドアが開いた。 「いらっしゃいませ」  反射で声を出すと、先頭の客が入口で仲間を待った。腰の直剣と、短い焦げ茶色の髪に見覚えがある。後ろから黒い杖の先を避ける声まで聞こえて、俺はすぐに四人を思い出した。 「あ」  銀色の軽鎧を着けた勇者がかごを取る間に、赤毛の小柄な女が横を抜けた。灰色のローブの袖から伸びた手で、背丈ほどの黒い杖を斜めに支えている。金髪を首の後ろで束ねた男は二人を待ち、最後に入った弓の女は、深緑の外套の裾を払うより先にホットスナックを見た。前に遠征用の食料を山ほど買った時と、興味の向く先まで変わらない。 「お久しぶりです」 俺が言うと、先頭の男が少し目を丸くした。向こうも、店員に覚えられているとは思っていなかったらしい。 「覚えていたのか」 「そりゃ覚えてますよ。おにぎりの開け方で全員苦戦した人たちですから」 「それで覚えられているのは不本意だな」 「私は一度でできた」  赤毛の女が言う。 「海苔、落としただろ」 「落としたのは一枚だけ」 「一枚落としたら失敗じゃない?」 「食べられたから成功」 「床に落ちた海苔は食べてませんよね?」 「店員が止めたから」 「止めてよかった……」  赤毛の女は悪びれず、金髪の男はその手元を見て苦笑していた。俺が勇者からかごを受け取ろうとすると、弓の女が先にケースへ顎を向ける。来る前から注文を決めていたらしい。 「肉」 出た。弓の女は前回と同じく、食べ物の話になると迷いがない。 「チキンですか?」 「それだ」 「前に食べたいって言ってましたね」 「覚えていたか」 「最後に念押しされたので」 「四つ。一人一個……いや、私は二つ」 「じゃあ五つでは?」 「四つでいい」 「遠慮した」  勇者が言う。 「誰が遠慮した」 「お前」 「していない」 「じゃあ四つで足りるんだな?」 「……あとで考える」 「絶対増えるやつだ」  俺はケースのチキンを四つ数え、注文の数をレジ脇に控えた。ほかの買い物もするらしいので、先に冷ましてしまわないよう、袋へ入れるのは会計の時にする。先輩が四人へ目を向けたので、俺も顔を上げた。 「また遠出か」 勇者が先輩を見る。先輩は客の顔より先に、かごの中の水を見ていた。 「ああ」 「何日」 「今回は二日ほどだ」 「なら前よりマシだな」 「覚えているのか?」 「水買わせた」 勇者は自分のかごへ目を落とした。前回の買い物を覚えている相手に、少し意外そうな顔をする。 「そうだったな」  勇者が笑った。俺は用意した紙袋をレジ脇へ置き、先輩を見た。この人は、前に渡した物まで覚えている。昨日は支払い方法を教わる側だったのに、今は何も迷わず客の話を聞いていた。  四人は前と同じように、まず常温の食品棚へ向かった。ただし今回は迷わない。勇者がパン。赤毛の女がチョコレート。金髪の男がナッツ。弓の女は迷わずジャーキー。 「慣れてる……」 思わず口から出た。前回は一つずつ説明した棚を、今は誰も迷わず回っている。 「前に教わった」 金髪の男が笑う。説明を覚えていることより、実際に使って困らなかったことの方が自信になっているようだった。 「冷たい弁当は長く持ち歩かない。水は多め。軽い食べ物を選ぶ」 「完璧です」 「あと回復する者に重い荷物を持たせない」  金髪の男がレジへ顔を向けた。先輩は伝票を見たままだが、弓の女は勇者のかごに入った水の本数を確かめている。 「それも覚えてたんですね」 「忘れたくても忘れられない」  金髪の男が自分の肩をさする。 「帰り道までずっと三人に言われた」 「だって荷物偏ってたでしょ」  赤毛の女が言う。 「君が甘い物を入れすぎたせいでもある」 「甘いものは必要」 「前も聞きました、それ」 「正しいことは何度言っても正しい」 「強いな」  俺は笑いながら、商品名が隠れていた袋を正面へ直した。勇者はパンを手に取ると、明日まで持つかとこちらへ差し出す。俺が表示を確かめて頷く間、赤毛の女もチョコをかごへ入れる前に彼を見た。前はそれぞれが思いつくまま放り込んでいた。説明がなくても進む所と、まだ確かめる所が分かれてきたらしい。 「店員」  弓の女に呼ばれた。 「はい?」 「これは前と違う」  手にしていたのは、冬限定の濃い味付けのジャーキーだった。 「新商品です。たぶん前のより味濃いですね」 「肉は?」 「肉です」 「なら買う」 「判断が早い」 「肉は裏切らない」 「それも前に聞きました」 「正しいことは何度言っても正しい」 「さっきの人と同じこと言ってる!」  赤毛の女が向こうで笑った。俺も笑う。普通だ。勇者パーティーがコンビニで買い物しているのに。もう、普通に見える。たぶん俺の感覚がおかしくなった。 「ロープは?」  先輩が突然言った。勇者が振り返る。 「ある」 「何本」 「二本」 「前より増えたな」 「学んだ」 「ならいい」  それだけ言って、先輩はまた伝票へ視線を戻す。俺は何となく気になった。 「今回も橋とかあるんです?」 「橋ではない」  勇者が答える。 「北へ抜ける峠を越える。途中に崩れた斜面があるらしい」 「寒そうですね」 「寒い」  赤毛の女が即答した。 「だから温かい飲み物も持っていきたい」 「持って歩けば、そのうち冷めますよ」  赤毛の女は伸ばしかけた手を止め、峠の方角を確かめるように入口へ顔を向けた。俺もそこまで温かさを運ぶ方法は知らない。 「……じゃあ、ここで飲んでから行く」 「それなら温かいうちに飲めます」 「一つでも今のうちに済ませておく」  赤毛の女はホット飲料の棚へ向かい、ココアを一本手に取った。かごへは入れず、温かい容器を両手で包んでいる。遠征へ持っていく物とは別に、今飲む分を選んだらしい。  その間、勇者はかごの中を確かめていた。水とパン、保存の利く食料に、簡単な衛生用品も入っている。袋を少しずつずらし、底に足りないものがないか探しているようだった。 「二日ならこんなものか」 「多分、大丈夫じゃないですか」  俺は答えた。 「道中で補給できるならですけど」 「一度、山小屋に寄れる予定だ」 「じゃあ前より安心ですね」 「ああ。ただ」  勇者が少しだけ表情を変えた。 「峠の近くに、厄介な獣が出るらしい」 俺の口が止まる。先輩の過去へつながりそうな言葉を、客の前で軽く追うのは違う気がした。 「獣?」 「四つ脚で、人より大きい。全身が岩のように硬い、と聞いた」 「それ、結構危なくないです?」 「危険だから我々が行く」 「勇者だ……」  今さらだけど。コンビニでおにぎりの開け方を失敗していた人たちも、外ではそういうことをしているらしい。赤毛の女が温かいココアを持って戻ってきた。 「真正面から魔法を当てても弾かれるって話」 「じゃあどうするんだ?」  金髪の男が聞く。 「柔らかいところを探す」 「近づきたくないなあ」 「弓も通りにくいらしい」  弓の女が眉を寄せる。四人が自然に相談を始めた。俺には何も言えない。ゲームなら弱点とか攻略法とか考えるのかもしれない。でもこれは本物だ。適当なことを言って怪我されたら困る。だから黙っていた。 「正面から止めようとすんな」  先輩の声に、勇者が顔を上げた。赤毛の女はココアを胸元へ寄せ、弓の女は棚へ伸ばしていた手を戻す。先輩は伝票を台へ置き、初めて四人の方を向いた。 「同じ獣を知っているのか?」  勇者が訊く。先輩は首を振った。 「見てねえから分からん。今聞いた話だけなら、正面で受けるのはやめとけってことだ」 「突進するかも分からないだろう」 「なら、そこから確かめろ。体がでかくて硬いからって、全部同じ動きするとは限らねえ」  勇者はすぐには頷かなかった。俺は二人の間に置かれた買い物かごを見た。今までは食料を何日分持つかの話だったのに、選んでいるのは、その先で何を確かめるかだ。 「突っ込んでくるなら、避けて走らせろ。重いやつほど急には曲がれねえ。足元や向きを崩せるか、先に見る」 「斜面へ誘う?」  弓の女が口を挟んだ。 「こっちまで崩れる場所なら意味ねえだろ。立てる所は選べ」  女は入口へ一度目をやった。獣だけでなく、峠の足元まで考え直しているようだった。先輩は続ける。 「硬い胴体へ当て続けるより、目や関節を見ろ。動かす所まで全部固まってるとは限らねえ。魔法も、効くか分からねえうちに全部使うな」 「小さく試して、残す」  赤毛の女が杖を少し持ち直した。軽口はなかった。先輩が金髪の男へ目を移すと、彼は自分の胸を指した。 「私は後ろだろう?」 「分かってんなら前に出るな」 「誰かが怪我をした時は、出ることになる」 「その時に下がれる場所を残しとけ。こいつらにも戻ってこさせろ」  金髪の男は勇者を見た。勇者もその視線を受けたが、すぐには返事をせず、かごの持ち手を握り直す。二人の間で返事を待つように、弓の女が少し身体を引いた。 「倒せなければ、峠を通る者が困る」 「お前らが全員倒れたら、その先に誰が知らせるんだ」  先輩の返事は速かった。勇者は口を閉じ、俺は冷蔵ケースの音が急に近くなった気がした。 「思ったより硬い、数が増えた、天気が崩れた。予定どおりにならねえ理由はいくらでもある。逃げ道を先に決めとけ」 「勝てないと判断したら?」 「帰れ」 赤毛の女の指が、杖の柄で止まった。冗談で流すには、少し引っかかる言い方だったらしい。 「勇者なのに、逃げてもいいの?」 「肩書きで死ななくなるなら、好きにしろ」  勇者は赤毛の女を見てから、先輩へ顔を戻した。 「……下がる場所を先に確かめる。先へ進めなかった時に戻る道も」 「それ決めてから行け」  先輩はもう伝票へ手を伸ばしていた。相手がどういう獣なのか、俺には何も分からない。ただ、退く話になった途端に先輩の返事が速くなったことは分かった。十日目の夜、俺を先に裏へ下がらせた声も、こんなふうに短かった。  弓の女が勇者を見る。 「理にはかなっている」 「ああ」 勇者は先輩を見た。さっきまでの買い物の顔ではなく、同じ肩書を聞いた相手を見る目になっている。 「あんた」 「ん」 「戦ったことがあるのか?」  店内が、一瞬だけ静かになった。俺は先輩を見る。先輩は勇者を見る。数秒。 「客の相談に乗っただけだ」 「それで今の話が出るか?」 「出たんだろ」 「答えになっていない」 「買い物終わったか?」  話を切った。勇者は少しだけ眉を上げた。でも、それ以上は聞かなかった。 「まだだ」 「なら買え」 「店員らしいな」 「店員だからな」  先輩が紙へ目を戻しても、俺はすぐには棚へ戻れなかった。獣の名前を知っていたわけではない。聞いた特徴から、確かめるべきことと、やめるべきことを分けていた。俺が怪物という言葉に固まっている間に、あの人は四人の帰る場所を考えていたのだ。 「店員」  今度は勇者に呼ばれた。 「はい」 「これを追加する」  水が二本。 「はい」 「あと、布」 「タオルですか?」 「それだ」 「何枚?」 「四枚」 前より準備が慎重になっている。前回の遠征で何を使ったかが、そのまま買い方へ残っていた。 「先輩に言われたからです?」 「それもある」  勇者は答えた。 「前の遠征で、余分に持った水とロープに助けられた」 「あ」 「崩れた道が、聞いていたより酷かった。水場へ着くのも遅れた」 「じゃあ、本当に役に立ったんですね」 「ああ」  俺は思わず先輩を見る。先輩は聞こえているはずなのに、何も言わない。 「そっちの店員には礼を言っておいてくれ」 「自分で言えばいいじゃないですか」 「聞いているだろう」 「聞いてる」 先輩が即答した。自分の過去を説明するより、目の前の客の準備を見ている方が楽そうだった。 「礼は?」  俺が言う。 「いらん」 「せめてどういたしましてくらい言いません?」 「役に立ったならよかったな」  勇者が少し笑った。 「十分だ」  先輩は礼を受け取るために向き直ることもなく、次の伝票を揃えた。勇者の方も、それを無礼だとは思っていないらしい。追加した水を自分のかごへ寄せ、タオルを四人分に分けている。俺だけが、昨日コード決済の画面を前に止まっていた同じ手を見ていた。 「瀬尾」 「はい?」 「会計」 「あっ」  まただ。俺はレジへ戻った。俺は注文の数を確かめ、チキンを四つ、ケースから取って一つずつ紙袋へ入れた。旅の荷物と合わせてレジに登録していく。パン、ナッツ、ジャーキー、チョコレート、水にタオル、絆創膏。今食べる分として勇者と金髪の男が選んだおにぎりもある。赤毛の女は温かいココアの横へ、いつの間にかプリンまで置いていた。 「これ、遠征に持っていくんですか?」 「今食べる」 「ですよね」 「温かいの飲んで、冷たいの食べる」 「自由だなあ」 「店の中は暖かいから平気」  弓の女が取り分けてあるチキンの袋へ目をやった。俺が個数を確かめると、四本立てた指を見て首を振る。 「一つ増やせ」 「やっぱり五つじゃないですか!」 「考えた結果だ」 「最初から分かってましたよ」  追加で一つ。勇者が呆れた顔をする。 「二つ食べるのか」 「肉は必要」 「それは聞いた」 「正しいことは」 「何度言っても正しい、だろ」 「分かってきたな」 「長い付き合いだからな」  四人が笑う。俺もつられる。さっきまで怪物との戦い方を相談していたのに。今はチキンが一つ増えたことで揉めている。この店では、そういう切り替わりが普通に起きる。 「お支払いはこちらです」  半セルフ精算機を示す。勇者が革袋から硬貨を出した。銀色。銅色。いくつかをまとめて入れる。精算機が勝手に判定する。会計完了。 「本当にこれは便利だな」 「先輩より使いこなしてますね」 「何の話だ」  先輩が言う。 「こっちの話です」 「瀬尾」 「はい」 「あとで覚えとけ」 「何を!?」  勇者たちには何の話か分からない。俺が笑いを収める間に先輩がチキン五つの袋を渡した。旅の荷物とは分けて、今食べる分は四人の手元へ置く。  四人は買い物袋を入口脇へ揃え、窓に沿って立った。勇者と金髪の男はおにぎりを手に取り、赤毛の女はココアを足元の袋へ入れて、先にプリンの蓋を開ける。弓の女は仲間へチキンを一個ずつ渡し、自分の二個目は紙の口を折って荷物に載せた。 「食べていい場所、ここでいいんだよな?」 「入口脇なら大丈夫です。通路塞がないようにだけお願いします」 「分かった」  俺は二人がおにぎりの包装を開ける所だけ見届け、売り場へ戻った。今度はどちらも海苔を落とさない。床に紙片がないのを確かめてから、飲料の減った列へ手を伸ばす。話を聞きたい気持ちは残っていたが、四人が食べている間にできる仕事もあった。 「店員」 「はい?」  赤毛の女がプリンの蓋を持ったまま俺を見る。 「これ、毎日ある?」 「プリンですか?」 「これ」 「その種類は冬限定ですね」 「冬だけ」 赤毛の女はプリンを持ったまま、棚に残った同じカップの数を確認した。いつでも買える物ではないと分かった途端、目つきが少し真剣になる。 「たぶん」 「では帰りにも買う」 「残ってれば」 「取っておいて」 俺は反射で首を横に振った。勇者の仲間だからといって、棚の商品を勤務中に隠しておくわけにはいかない。 「取り置きはできません」 「なぜ」 「他のお客さんも買うので」 「勇者」 「俺を見るな」 「権力で何とかして」 「できると思うか?」 「勇者なのに」 「勇者を何だと思ってるんだ」  女王陛下にも似たような話をした気がする。王族でも。勇者でも。プリンは取り置きしない。そこは平等だ。 「なくなる前に来てください」  俺が言うと、赤毛の女は少し考えた。 「分かった。急いで帰る」 「プリンのために無茶しないでくださいね」 「大丈夫。勇者がいる」 「そこに責任押しつけるの?」  勇者が頭を抱えた。俺は笑った。 食事を終えた四人が、袋を持って入口へ向かう。荷物の持ち方は、来た時よりそれぞれの役割に合わせて分かれていた。 「ありがとうございました」  俺が声をかける。勇者が一度振り返った。先輩を見る。 「さっきの話」 「ん」 「参考にする」 「好きにしろ」 「もし当たっていたら、帰りに報告する」 「いらん」 「そう言うと思った」  勇者が笑う。 「では、また来る」 「お待ちしてます」  自動ドアが開いた。冷たい空気が流れ込む。四人が暗い森へ出ていく。最後尾の弓の女が、紙袋を少し持ち上げた。 「次はチキンを多めに」 「またですか!」 「五つでは足りないかもしれない」 「増えてる!」  ドアが閉まった。店内が静かになる。俺はしばらく入口を見ていた。 「瀬尾」 「はい」 「棚」 「……はい」  先輩はいつもどおり。俺も仕事へ戻った。ただ、頭の中に残ったものは、消えなかった。 ◇  午前六時、森が消えると、ガラスの向こうへ白い霜の残る駐車場が戻ってきた。俺は入口脇の床をモップで拭き、四人が袋を並べていた所まで滑らせた。カウンターの中では、先輩が夜の伝票を揃えている。誰かがここで峠の獣の話をしていたとは思えない朝だった。  未明、四人が出ていく時、先輩は最後の一人がドアを抜けるまで顔を上げていた。あの人にとっては、帰れるように話すことも、ちゃんと出ていったか確かめることも、同じことなのかもしれない。俺はモップを引いたところで手を止めた。大剣の男をどう帰らせたのかを訊くのは怖かった。それでも、あの夜に自分を助けた人を、何も知らないまま働き慣れた先輩として片付けたくはなかった。 「先輩」 「ん」 「聞いていいです?」 「内容による」 「それ、聞く前に分からなくないですか」 「なら言え」  俺は顔を上げ、カウンターの中の先輩をまっすぐ見た。伝票の端へ伸びる手は、まだいつもの速さで動いている。 「先輩、昔、何やってたんです?」  先輩の手が、伝票の端で一度止まった。すぐに揃え直したが、次の束には移らない。俺はモップをカウンターから少し離して立て、自分も作業の途中のふりをするのをやめた。 「色々」 「それじゃ分からないです」 「分からなくていいだろ」 「ここまで来たら気になりますよ」 「仕事に関係ねえ」 「関係ないのは分かってます」  先輩が俺を見る。眠そうな目。いつもの顔。 「でも、先輩、戦い慣れすぎじゃないですか」 「そうか?」 「そうですよ」 「気のせい」 「大剣の客、覚えてますからね」 先輩が黙る。レジの中で動いていた手も、ほんの少しだけ止まった。 「勇者パーティーの荷物見ただけで色々分かるし。今日だって、怪物の話聞いただけで普通に指示してたし」 「指示はしてねえ」 「ほぼしてました」 「相談に答えただけだ」 「じゃあ、何で答えられるんです?」  先輩は返事をしなかった。俺もすぐには次を重ねなかった。聞かれたくないなら、そう言うだろうと思ったが、先輩は伝票を揃え直すだけだった。 「全部話してくれって言ってるんじゃないです」 自分でも、さっきより声が小さくなったのが分かった。今度は好奇心だけで押していい質問ではない。 「あの時、俺を裏へ下げたじゃないですか。今日の四人にも、先に帰り道を決めろって。その言い方が同じだったから」  先輩が顔を上げた。眠たげな目は変わらない。俺は目を逸らさず、もう一度だけ呼んだ。 「先輩」 「しつけえな」 「昔、何してたんです?」  先輩は最後の伝票を束の上へ置いた。紙の角が台へ当たる乾いた音のあと、冷蔵ケースの唸りが残る。俺は視線を逸らさずに待った。先輩は少し首を傾け、昨日の支払い方でも答えるように言った。 「勇者」 「……はい?」

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