芦名 雅 / 第14話

第13話 それは聖水じゃありません

 温かい飲み物の区画を二段に増やすと、隣にあったスポーツ飲料が少し窮屈になった。午後十一時半、俺は飲料ケースの前にしゃがみ、倒れかけた一本を奥へ戻していた。赤い「温」の表示の下には缶コーヒーやお茶が並び、その脇で、冷たい透明なボトルが白い光を受けている。自分が今買うなら、温かい方だろう。入口が開くたびに、床近くまで冷気が流れてくる。 「先輩、ホット増えましたね」 「寒くなったからな」  レジの中で榊原先輩が答える。 「最近そればっかりですね」 「季節の話したいんじゃなかったのか」 「もうちょっと情緒ある返しを期待してるんですよ」 「コンビニで?」 「コンビニでも」  先輩は返事の代わりに、カウンターへ届いた箱を顎で示した。温かい飲み物を増やした分、並べ替えも増える。俺は立ち上がり、箱を受け取って常温の棚へ回った。冷たい麺がいた所にはスープが並び、レジ横では中華まんのケースが曇っている。昨日と同じつもりで手を伸ばすと、違う商品に触るようになってきた。 「異世界の客も温かいの買いますかね」 「寒けりゃ買うだろ」 「向こうも寒くなってるんですか?」 「知らん」 「そこは知らないんだ」 「外見りゃ寒そうではある」 それ以上は言わない。先輩が知っているのは、自分で見た範囲だけなのだと思う。俺も最近は、そこを無理に聞かないようになった。 ◇  午前零時を過ぎる。自動ドアの向こうから駐車場が消え、暗い森が戻ってきた。木々の間を抜ける風が強い。葉の擦れる音が、ガラス越しにもかすかに聞こえる。 「向こうも寒そうですね」 「そうだな」 「今日は認めるんだ」 「見りゃ分かる」  そのまま三十分ほど、客は来なかった。俺はレジ周りを拭き、先輩は発注端末を見ている。午前零時四十分。ウィーン。 「いらっしゃいませ」  反射で声を出すと、入口の男が杖をついて立ち止まった。白い長衣の裾も、その上に羽織った青い縁取りの外套も泥で重そうだ。顔を上げる前に一度、肩を大きく上下させて息を吐く。首の後ろで束ねた淡い灰色の髪の下に、こけた頬と目の下の隈が見えた。三十歳前後だろうか。背は俺より少し高いが、今は杖へ体重を預けている。  胸元と杖の先には、同じ銀色の円環が付いていた。神官か僧侶のような格好だと思ったが、その印を確かめている間にも、男の目は飲料ケースへ向いた。腰に下げた細長い本と革袋が、歩き出す拍子にぶつかって鳴る。 「水はあるか」  声まで少しかすれていた。 「ありますよ。こっちです」  俺は飲料ケースへ案内する。男はついてきたが、歩き方が少し重い。 「普通の水なら、この辺です」  俺が列を指すと、男は透明なボトルを一本取った。すぐには持ち上げず、冷えた容器を握り直している。杖は離さないままだ。 「冷たいな。湯はあるか?」 「飲み物なら温かいお茶とかあります。お湯だけならカップ麺用の給湯器がありますけど」 「麺?」 「今は忘れてください」  説明を増やすと長くなる。男は素直に頷いた。 「では、水でよい」  そう言ったものの、棚の前から動かない。視線が隣へ移る。そこには、透明に近い薄い色のスポーツ飲料が並んでいた。白と淡い青を基調にしたラベル。男が一本取る。 「これは?」 「スポーツ飲料です」 「すぽーつ」 「……ですよね」  通じるとは思っていなかった。 「たくさん歩いたり、汗をかいたりした時に飲むものです。水だけじゃなくて、塩分とか糖分とかも入ってます」 「塩と糖?」 「そうです」 「疲れた者が飲む?」 「そういう時にも飲みます」  男の目が少し変わった。透明なボトルを、店の照明へかざす。中の液体が白い光を通した。 「では、これは聖水か」 「違います」  俺より先に、後ろから声が飛んできた。先輩だった。即答。男が振り返る。俺も振り返る。 「先輩、早いですね」 「違うもんは違うだろ」 「いや、俺も違うと思いますけど」  男はボトルを見直した。 「聖水ではない?」 「普通の飲み物です」 「……もしかして、神官さんですか?」 「ああ。神官だ」 「なるほど」  胸元の円環も杖も、それなら納得がいく。 「疲れた者が飲むのに?」 「薬ではないので、傷が治るようなものではないです。甘みと塩分のある飲み物ですね」  神官は胸元の円環に指を添えて、ラベルを裏返した。細かな文字を目で追っても読めないらしい。俺は隣から、成分が載っている所を指した。 「水の代わりなのか?」 「水も飲みます。たくさん歩いたり汗をかいたりした時には、こういうのを選ぶ人もいます」 「では、疲れそのものを取り去るのではないのだな」  訊き直す声が真剣だったので、俺も軽く頷くだけでは済ませなかった。ラベルに指を置いたまま、もう一度顔を上げる。 「そこまでは言えません。おいしく飲めるものなら勧められますけど、具合が悪い時のことまで、俺には分からないです」 「店員だろう」 「店員なんです。神官さんみたいな仕事はできないですよ」  男が俺を見る。こちらへ預けかけていた判断を引き取るように、手の中のボトルをもう一度見た。 「……なるほど。では味を知りたい」 「少し甘いです。塩も入っています」 「それはもう聞いた」  後ろで先輩が小さく息を漏らした。俺は聞こえないふりをしたが、神官の顔にもほんの少し表情が戻っていた。 「飲めば分かりますけど」 「飲んでよいのか?」 「会計してからなら」 「先に飲むと?」 「困ります」 男は瓶を口元へ運びかけた手を止めた。飲み物そのものより、会計の順番の方が今は引っかかったらしい。 「なぜだ」 「まだ店の商品なんで」 「なるほど」  そこはすぐ納得してくれた。  男は普通の水を棚へ戻し、スポーツ飲料を一本だけ持ってレジへ来た。俺はバーコードを通す。ピッ。 「お支払いは精算機へお願いします」  男は腰の革袋から銀色の硬貨を二枚出した。精算機が処理を終えるまで、空いた手で杖を支えて待っている。自分で神官だと名乗った客が、普通の飲み物を一本買う。俺はお釣りを取り終えたのを確かめてから、レシートとボトルを渡した。 「これで飲んでよい?」 「どうぞ」  男はキャップを見た。 「開かない」 「回してください」 「回す?」 「こうです」  俺は自分の手で回す真似をする。男がボトルの蓋を掴んだ。きゅっ。ぱきっ。封が切れる音。男の眉が上がる。 「音がした」 「最初だけです」 「封印か」 「封ではありますけど、今考えてるほど大げさじゃないと思います」  男は少し警戒しながら、ボトルへ口を付けた。一口。止まる。 「甘い」 「甘いですよ」 「少し塩もある」 「たぶんそれがさっき説明したやつです」  もう一口。今度は長かった。喉が何度も動く。男は一気にボトルの三分の一ほど飲み、ふう、と息を吐いた。 「……うまい」 「かなり喉渇いてたんじゃないですか?」 「ああ」 「どれくらい歩いたんです?」 「日が沈む前から、ほとんど休んでいない」 「ずっとですか」 「道を急いだ。日が落ちる前には、もう少し先へ進めると思っていたのだが」  神官は言い終えてからもう一口飲み、杖をつく手を持ち替えた。俺は次の会計ができるよう、レジ前から少し横へ案内した。ここなら扉が開くたびに冷気をまともに浴びずに済む。 「急いで戻らないといけないんですか?」 「仲間は休んでいる。……私も少し、息をついてから行こう」  自分へ言い聞かせるように返し、男は外套の襟を緩めた。杖へ預けていた重みが少し減る。身体の中で何が起きているかは分からないが、入口で水を探していた時より、言葉を急がなくなっていた。 「効いている」 「だから薬じゃないですって」 「だが楽になった」 「休んで飲み物飲んだからじゃないですか?」  先輩が伝票から目を上げた。 「ひと息つけたなら、急いで飲み切ることねえだろ」  神官はボトルを口元へ運びかけて止め、残っている量を確かめた。俺はそれを見て、ようやく自分も肩から力を抜いた。何かを治したわけではない。急かさずに立っていられる場所と、飲みたいものを渡せただけだ。 「飲み残したら、また蓋をしてよい?」 「はい。こぼれないように、ちゃんと閉めてください」  男は今度こそ、自分でキャップを回した。封を切った時とは違い、音がしないことを指先で確かめている。 「便利な水だな」 「水って言い切ると怒られそうですけどね」 「誰に?」 「作ってる人とか」  男は少しだけ笑った。疲れていたせいか、入ってきた時よりずっと柔らかい顔に見えた。 「同じものを、あと四本」 「増えたな」  俺は飲料ケースを見た。 「お仲間の分ですね」 「ああ。森の少し先で休ませている。私だけ水を探しに来た」 「それなら普通の水も持っていった方がいいですよ」 「これだけでは駄目か?」 「何でもこれだけで済ませる飲み物ではないと思います」  俺は隣のミネラルウォーターを指す。 「普通の水も何本か。あと、冷たいのが嫌なら温かいお茶もあります」 「茶?」 「葉っぱをお湯で出した飲み物です」 「それは分かる」 「よかった。久しぶりに一発で通じた」  男は温かい飲料の棚へ移った。一本触る。 「温かい」 「温めてあります」 「これも術ではない?」 「違います」 「加護でも?」 「ないです」 「この店は、術を使わずに妙なことをするな」 「俺に言われても困ります」  男は温かいほうじ茶を二本選び、普通の水を三本、スポーツ飲料を四本追加した。かごの持ち手を上げかけて、すぐ床へ戻す。片手には杖があった。俺がかごを持ってレジへ向かうと、男は遠慮したように手を出し、やがて小さく頷いてついてきた。 「持てます?」 「問題ない」 「杖もありますよ」 「この程度なら」  男は杖を左へ寄せ、荷物を持つ右手を開いてみせた。持てると言うなら無理に取り上げる理由はないが、俺は袋を一つへ詰め込まないことにした。 「分けて入れますね。途中で誰かに持ってもらう時も、その方が渡しやすいです」 「助かる。全員分を抱えて戻って、また息を切らすところだった」 「聖水の効き目って言われなくてよかったです」 「それはもう分かった」  今度の返事には、少し笑いが混じっていた。  二度目の会計を終え、俺は袋詰めを手伝った。水は下。温かいお茶は別の袋。冷たいものと一緒に入れたら、せっかく温めてある意味がない。 「茶だけ、さらに分けるのか」 「温かいのと冷たいの、一緒にするとぬるくなるんで」 「そこまで考えるのだな」 「コンビニ店員なんで」  言ってから、少しだけ胸を張った。先輩がこっちを見る。 「何です?」 「別に」 「今、何か言おうとしたでしょ」 「してねえ」  たぶん「お前が作った店じゃない」とでも言うつもりだったのだろう。男は袋を受け取る前に、ふとスポーツ飲料を一本持ち上げた。 「一つ聞きたい」 「はい」 「これを私が聖別したら、聖水になるのか?」 「……俺に聞くんですか?」 「店員だろう」 「神官さんの方が詳しいでしょ!」  男は初めて、はっきり笑った。 「それもそうだ」 「そうですよ!」  先輩が横から言う。 「もう買ってるだろ」 「先輩も乗らないでください」 「買ったもんをどうするかは、客が決めりゃいい」 「そこは確かに」  男は真面目に頷いた。 「では、持ち帰ってから試す」 「試すんだ……」  止める理由はない。もう会計は済んでいる。その先でスポーツ飲料が本当に聖水になるのかは、俺には分からない。というか、できれば知らないままでいたい。 「ありがとうございました」  自動ドアが開く。冷たい風が、男の外套の裾を揺らした。男は一歩外へ出て、振り返る。 「店員」 「はい?」 「助かった」  今度は、入ってきた時よりずっと声がしっかりしていた。 「仲間にも、これは聖水ではないと伝えておく」 「そこ強調してください」 「だが、疲れた時にはよい」 「それなら合ってます」  杖の音が遠ざかり、青い縁取りの外套が木々の間へ消えた。入口から見えなくなる手前で一度だけ立ち止まり、男は左右の袋を持ち替えていた。俺は飲料ケースへ戻る。最初の一本と追加の四本で、スポーツ飲料は五本減っていた。 「先輩」 「ん」 「あの人、帰ったら本当に聖別するんですかね」 「見に行く気か?」 「ないですけど」 「じゃあ、こっち」  先輩が示したのは、俺が前へ出し忘れた列だった。ボトルの白いラベルを正面へ向けて並べる。そのうち、普通に『あの甘いのを』と買いに来てくれたら、今度は水との違いから説明せずに済む。俺は空いた手で隣の列も揃え、冷蔵ケースを閉めた。

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