芦名 雅 / 第13話

第12話 携帯食ならこっちです

 肉まんの追加を一個で止めたのは、俺ではなく榊原先輩だった。午後十一時半、保温ケースには食べ頃のものが二つ残っている。俺は冷凍庫から出した一個を手に、発注端末を見ている先輩へ声をかけた。 「これだけでいいんですか。最近、結構売れますよ」 「だから先に一個入れとけ。売れてからじゃ間に合わねえ」 「だったら二個でも」 「余ったらどうすんだ」  ケースの中では、白い二つが並んで湯気を浴びている。明け方まで何人来るかは分からない。昨夜の客の数を思い出している間に、先輩が画面から目を上げた。 「食うつもりなら増やすなよ」 「今、何も言ってないですよ」 「顔」  俺は一個だけ追加し、温まり切るまで売らないよう時間を合わせた。ガラスの向こうの駐車場は、夜露で光っている。こういう夜に入口から入ってくると、冷蔵ケースより先に、この白い湯気へ目が向くのは分かる気がした。 「先輩」 「ん」 「これ、向こうの人に説明するなら、肉を包んだパンですかね」 「訊かれたらそう言え」 「カップ麺の時みたいに、どこから説明するか迷うんですよ」  俺は白い皮の下に具を透かそうとして、ケースへ顔を寄せた。肉の入ったものだと知らなければ、見た目だけでは甘い菓子と区別がつかないかもしれない。 「瀬尾」 「はい」 「説明考える前に、さっきの時間書いとけ」 「書いてますって」  指で記録を示すと、先輩はようやく端末へ戻った。俺もケースから離れる。売れ方を想像するのは好きだが、想像した分だけ客が来るわけではない。 ◇  午前零時を少し回った頃。自動ドアの向こうは、いつもの暗い森に変わっていた。湿った土。黒い木々。店の白い明かりが届く範囲だけ、草の葉がぼんやり浮かんでいる。最初の頃なら、それだけで何度も入口を見ていた。今は違う。 「いらっしゃいませ」  ドアの音に反応して、客の姿を見るより先に声が出た。入ってきたのは、厚い茶色の外套を着た、俺より頭一つほど大きな獣人だった。外套の下から灰褐色の毛に覆われた腕がのぞき、顔は人間に近いが鼻先が少し前へ伸びている。三角形の耳をこちらへ向けたまま、入口で鼻を二度動かした。犬なのか狼なのか、そこまでは分からない。  背中の大きな革の荷袋が、立ち止まった拍子に肩から少しずれた。腰には短剣を差し、外套の裾にも革靴にも乾いた泥が付いている。旅の途中らしい客は荷物を直すことも忘れて、また匂いを嗅いだ。 「……何か匂います?」  思わず聞いた。獣人の耳がこちらへ向く。 「肉だ」 「肉?」 「温かい。豚だな」  俺はゆっくりレジ横を見る。肉まん。 「これ?」  保温ケースを指す。獣人は数歩近づき、透明な扉の向こうを見た。 「それだ」 「まだケース開けてないですよ」 「匂う」 「すご……」 「瀬尾」  レジの中から先輩の声。 「客に失礼」 「すみません」 「別に構わん」  獣人はもう一度、肉まんの方へ鼻を向けた。 「これは何だ?」 「肉まんです。中に肉が入った、蒸したパンみたいなものです」 「肉をパンで包むのか」 「だいたいそんな感じです」 「今食える?」 「食べられますよ」 「一つくれ」 「はい」  目的も聞かないうちに、一品売れた。追加分も温まって三個になった肉まんから、俺は一個をトングで取った。紙に包んで渡すと、獣人はすぐには食べず、鼻先へ袋を近づけた。 「豚」 「そうです」 「生姜も入っているな」 「表示を見れば分かりますけど、匂いだけで?」  獣人は答える代わりに、紙の口を少し開いた。俺にも豚肉らしい匂いは分かる。その向こうにあるものを嗅ぎ分けるように鼻先を動かして、やっと頷いた。 「少し甘い」 「皮じゃないですかね」 「食えば分かる」  獣人は精算機で会計を済ませ、肉まんを持ち直した。俺が次の言葉を出すより早く、大きく一口かじる。三角形の耳が、ぴんと立った。 「熱っ」 「中、熱いです!」 「先に言え」 「すみません、今のは遅かったです。少し割って冷ましてください」  獣人は口を閉じたまま俺を睨み、肉まんを顔から離した。匂いを当てるのに感心して、肝心な一言を忘れていた。横で先輩が紙を一枚、手の届く所へ寄せる。 「匂いで温度までは分かんねえか」 「温かいのは分かった」 「勢いまで任せるなよ」  獣人は少しだけ肉まんを冷まし、今度は慎重にかじった。もぐもぐと顎が動く。耳が少し下がった。 「うまい」 「よかったです」 「もう一つ」 「もう一つですね」  俺は二個目を袋へ入れ、追加分の会計を済ませた。朝まで残るかと思っていた二つが、同じ客の手に渡る。ケースには、さっき仕込んだ一個だけになった。 「先輩、先に追加しといてよかったですね」 「だから入れとけって言っただろ」 「二個入れてもよかったんじゃ」 「まだ一個ある」  指摘されてケースへ目を戻す。まだ売れていない一個まで、勝手に数へ入れるところだった。受け取った二個目の紙袋を、獣人は荷袋の口へ入れようとした。今度はその場で食べるつもりではないらしい。 「持っていくんですか?」 「ああ」 「長くは持たないですよ」  獣人の手が止まった。 「持たない?」 「それ、今食べる用です。何日も持ち歩く食べ物じゃないです」 「明日の昼は?」 「うーん……俺なら勧めないですね」 「そうなのか」  獣人は少し残念そうに袋を見る。その顔を見て、ようやく気づいた。 「もしかして、旅の食べ物を探してます?」 「ああ」 「何日くらいです?」 「四日。天気が崩れれば五日」 「それなら、そっちじゃないです」  俺は迷わず常温棚の方へ歩いた。前なら、弁当やおにぎりの棚から順番に説明していたかもしれない。でも今は分かる。数日持ち歩く。冷やせない。荷物は軽い方がいい。なら、見る場所は決まっている。 「携帯食ならこっちです」  常温棚の前で止まると、獣人も肩の荷袋が商品へ当たらないよう身体を寄せた。俺はジャーキーやサラミの列を示す。その下にはナッツ、ドライフルーツ、クラッカーもある。缶詰よりは、こうした小袋の方が持ち歩きやすそうだった。 「肉なら、まずこれですね」  ビーフジャーキーを一袋取る。 「乾燥させた肉です。開けなければ持ちますし、軽いです」  獣人は受け取った。表を見る。裏を見る。 「読めん」 「ですよね」  店内で会話はできても、日本語の商品表示まで読めるわけではない。そこは今までと同じだ。 「牛です」 「牛」 「薄くして、味付けして乾かしてあります」  獣人が袋を鼻へ近づける。すん。 「牛だ」 「今言いましたよね」 「言われる前から分かっていた」 「じゃあ聞く必要なかったじゃないですか」 「本当に合っているか確認した」 「鼻で?」 「鼻で」  俺は隣のポークサラミも取って見せた。獣人は袋を鼻へ寄せると、今度はこちらの説明を待たずに頷く。 「豚。こっちも持っていく」 「こっちの細いのは鶏です。保存方法は、ちょっと表示を見ますね」  同じ肉でも、見た目だけで日持ちまでは決められない。俺が裏面を確かめる間に、獣人は下段の魚肉ソーセージへ顔を向けた。 「それは魚だな」 「まだ出してないですけど」 「匂う」  鼻は便利でも、文字を読む代わりにはならないらしい。俺は未開封で常温に置けることと、開けた後は早く食べることを伝えた。獣人は聞き終えるまで次の袋を取らず、選んだものをかごの片側へ揃えていく。 「これ」  獣人が一つの袋を持ち上げた。 「肉が二種類ある」 「え?」  俺は表示を見る。ビーフとポークを混ぜたスナックだった。 「……合ってます」 「塩が強い」 「そこまで分かるんですか」 「少し」 「少しの基準おかしくない?」  獣人は気にせず、今度はナッツの袋を持った。 「これは肉ではない」 「見れば分かります」 「油の匂いがする」 「木の実です。肉だけより、こういうのも持っていった方がいいと思いますよ」 「腹に溜まる?」 「このくらいの小袋なら、歩く途中でも少しずつ食べられますよ。肉とは味も変わりますし」 「甘いものは?」 「ありますよ」  ドライフルーツとチョコレートの小袋を見せる。獣人の鼻が動いた。 「果物」 「はい」 「これは甘い」 「チョコです」 「ちょこ」 「甘いお菓子です」 「旅に必要か?」 「必要かと言われると……」  俺は少し考える。その時。 「持っとけ」  後ろから先輩が言った。俺と獣人が振り返る。先輩はレジから動いていない。 「甘いもん、疲れた時に食える」  獣人がチョコの袋を見る。 「お前、旅をするのか?」 「しねえよ」  即答だった。 「じゃあ、なぜ分かる」 「昔ちょっとな」  先輩はそれだけ言って、伝票へ視線を戻した。俺は一瞬だけ、その横顔を見る。昔ちょっと。この人の「ちょっと」は、信用しない方がいい気がする。でも今は聞かなかった。 「あと、水はちゃんと持ってます?」  俺は獣人へ向き直る。 「ある」 「乾いたもの多いんで、結構喉渇きますよ」 「川もある」 「その川、大丈夫なやつです?」 「煮る」 「なら俺よりちゃんとしてる」 「旅人だからな」  胸を張る。そこは少し格好よかった。獣人のかごは、選び終える頃にはかなり重くなっていた。ジャーキーとサラミは二袋ずつ、鶏のスティックは三本入っている。その横へナッツを二袋、ドライフルーツとチョコレートを一袋ずつ収め、クラッカーの箱を上に載せた。さらに水を二本取るのを見て、俺はかごの持ち手を握り直した。 「多くないですか?」 「五日なら食う」 「全部一人で?」 「ああ」 「結構食べますね」 「歩くからな」  獣人がさらっと答える。納得できるような、できないような。 「さっき買った肉まんも、もう一つありますよ」 「あれは今夜の分だ」 「二個目、明日じゃなかったんですか」 「持たないと言っただろ」 「ちゃんと聞いてたんですね」 「客に失礼だな、お前」  言い返せない。俺は商品をレジへ通していく。ピッ。ピッ。ピッ。最後に水を通す。 「お支払いは精算機へお願いします」  獣人が革袋から硬貨を出した。精算機へ入れる。ちゃりん。画面が処理して、お釣りを返す。もう、異世界の硬貨が機械へ吸い込まれても驚かない。俺は袋詰めを手伝った。重い水は下。潰れそうなものは上。獣人は横で鼻を動かしている。 「まだ何か匂います?」 「ああ」 「何です?」  獣人の鼻が、またレジ横へ向いた。保温ケースには最後の肉まんが一個ある。棚から視線を戻した途端、耳までそちらへ揃った。 「肉」 「またですか」 「豚」 「さっきと同じです」 「一つ」 「三個目ですよ」 「分かっている」 「今食べる分です?」 「それと、さっきのを食ってから行く。出るのは朝だ」  急いで保存食を集めていたから、すぐ旅立つものだと思い込んでいた。獣人は荷袋を足元へ置き、既に買った二個目の紙袋を開く。今度は自分で皮を少し割り、湯気を逃がしている。 「じゃあ、これは用意しておきますね」 「頼む。飲み物も見る」  肉まんを冷ましながら、獣人が冷蔵ケースへ顔を向けた。俺は最後の一個を紙袋へ取り、会計台へ置いた。先輩は空いた段へ次の一個を入れ、加熱の時刻を記録している。旅支度は済んだのに、この客の買い物はまだ終わらない。  二個目を食べ終えた獣人は、空の袋を捨てると飲料棚の前へ移った。三個目はレジで待っているが、まず飲み物を決めるつもりらしい。透明な容器の列を見て、今度は鼻より先に首を傾げた。 「これ、全部水か?」 「違います」 「色がついている」 「お茶とかジュースとかです」 「じゅーす」 「甘い飲み物」  一本手に取る。 「これは果物」 「りんごです」 「これは?」 「オレンジ」 「これは?」 「コーヒーです」  獣人が鼻をしかめた。 「苦い」 「飲む前から?」 「匂いが苦い」 「表現すごいな」 「お前には分からんのか」 「分かりませんよ」 「鼻が悪いな」 「人間として普通です」  たぶん。少なくとも、密封されたペットボトルの中身を嗅ぎ分ける鼻は持っていない。獣人は結局、りんごジュースを一本追加した。 「肉まんと一緒に会計しますね」 「頼む」  獣人がりんごジュースをレジへ置いたので、用意しておいた三個目の肉まんと一緒に会計した。保存食とは別の支払いだ。俺は先にジュースを渡し、肉まんは持ちやすいよう紙の口を折った。 「今夜の食べ物と、明日からの食べ物で、荷物が分かれましたね」 「腹に入れれば持たずに済む」 「そういう分け方?」  獣人は当然のように頷く。足元の荷袋には五日まで見越した買い物が入っていて、手元には今食べたいものがある。俺は袋を渡す前に、今度こそ一言添えた。 「今度は熱いですからね」 「分かっている」 「本当に?」 「さっき学んだ」  獣人は受け取っても、すぐにはかじらなかった。少し待つ。湯気が弱くなってから、一口。 「うまい」 「学習してる」 「当たり前だ」  その言い方が少しおかしくて、俺は笑った。  三個目も食べ終えると、獣人は空になった紙袋とジュースのボトルを捨て、大きな荷袋を背負い直した。保存食は中へきれいに収まり、肩紐を締めても袋の形は崩れなかった。 「助かった」 「いえ。お気をつけて」 「次に通った時も、肉はあるか?」 「商品ならありますけど、同じ種類があるかは分からないです」 「変わるのか」 「新商品とか、入れ替わりありますから」  獣人は少し考えた。 「なら、また匂いで選ぶ」 「それが一番早そうですね」 「肉まんも」 「そっちは季節ものなんで、ずっとあるとは限らないですよ」  耳が止まった。 「なくなる?」 「暖かくなったら、たぶん」  獣人は、仕込み中の一個が入った保温ケースを見た。買った三つを食べ終えたばかりなのに、耳までそちらへ向けている。 「いつまでだ」 「そこまで俺も知りませんよ」 「店員だろ」 「店員でも全国の販売計画までは知らないです!」  レジの中から、先輩がぼそっと言う。 「あるうちに食っとけ」  獣人が頷いた。 「そうする」 「納得するんだ……」  自動ドアが開く。冷たい森の空気が少しだけ店内へ入り込んだ。 「ありがとうございました」  獣人は片手を上げ、大きな荷袋を揺らして森へ歩いていった。ドアが閉まると暖房の低い音が戻る。保温ケースを見ると、次の一個はまだ加熱中だった。記録した時刻まで、もう少しかかる。 「先輩」 「ん」 「今売れる肉まん、ゼロですね」 「次、もう入ってる」 「じゃあ、もう一個は?」  先輩が俺を見る。今度は何も言わなかった。 「……お客さんが来てからにします」 「お前の夜食なら、買うって言えよ」 「見抜かないでください」  俺はケースへ手を伸ばしかけ、先に加熱時間の表示を確かめた。あと少し。獣人の鼻を笑えないくらい、レジ横にはいい匂いが残っていた。

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