芦名 雅 / 第63話

第37話 ケンタウロス、店内で曲がれない

 客の前半分が入ってから、後ろの長さに気づいた。午前零時を少し回ったミッドマート北森店で、俺は菓子の箱を抱えたまま、開ききった自動ドアを見ていた。  日に焼けた男の上半身。肩までの黒髪を革紐で束ね、革の胸当てから出た腕は太い。背中には弓と矢筒がある。その腰の下から、濃い栗色の馬体が続いていた。一本、もう一本と黒い蹄が床を鳴らす。客は後ろまで入りきるのを待ち、ようやくこちらへ顔を向けた。 「夜でも、食料が買えると聞いた」 「はい。いらっしゃいませ」  声が遅れた。俺の知っている言葉なら、ケンタウロスだ。大きな客は何人も来たが、この人の長さは今までと違う。自動ドアの向こうは雨の止んだ森で、蹄から落ちた土がマットに残った。  客は入口脇のかごを一つ取った。人間と変わらない手が、赤い持ち手を上げる。濃い茶色の目が売り場へ動き、食料のある方へ行こうとした。 「……ここを、曲がるのか」  前脚が中央棚へ向いたところで、止まった。上半身からは空いて見える通路でも、胴体がついていくには角が近すぎる。栗色の横腹が菓子棚へ寄り、俺は抱えていた箱を下ろした。 「すみません、そのまま止まってください。後ろが棚に近いです」 「動かない」  客はすぐに答えた。振り返ろうとしても、肩越しから見える範囲には限りがある。俺は横の通路へ回り、馬体の後ろと棚の角を見比べた。隙間は、思っていたより少なかった。  レジの榊原先輩が伝票を置いて出てくる。客の前脚の位置を見て、それから入口を確かめた。 「入ってきた方へ、真っすぐ戻れるか」 「下がれる。ただ、後ろは見えん」 「瀬尾、横から棚との間を見ろ。声は俺が掛ける」 「はい」  俺まで左右を指示すれば、どちらを聞けばいいのか分からなくなる。棚の端で待ち、当たりそうになれば止めるとだけ伝えた。先輩が入口寄りの空いた床を示し、客は来た動きをゆっくり戻し始めた。  蹄が一つずつ鳴った。俺は隙間を見続けた。尻尾が袋へ触れそうになった時には、客の方で根元を動かして寄せる。身体を分かっている人に、俺が全部の脚の運びまで教える必要はなかった。 「そこまででいい。今なら、前の通路へ出られる」  先輩の声で動きが止まった。客は棚へ背を向けたまま、首だけこちらへ動かした。 「危ないところだった」 「俺が先に、通れる場所を見ておくべきでした。すみません」 「入れるから、奥も行けると思った。私もだ」  客はかごを持つ手を下げた。買い物を諦めるのかと思ったが、視線はまだ食料の棚へ向いている。 「奥へ行かなければ、買えないか」 「いえ。必要な物を教えてもらえれば、こちらへ持ってきます」  俺は入口とレジの間の広い通路を示した。そこなら客の身体が真っすぐ収まり、ほかの人が通る余地も残る。先輩が床に置いてあった俺の空箱を拾い、すぐ近くのレジ台を片付けた。 「ここへ出せば、見てもらえるだろ」 「助かります。かご、いったん置かせてもらっていいですか」  客から受け取ったかごを台へ載せる。前の方へ進む時にも、大きく向きを変えずに済む道を先に確かめた。脚が落ち着き、客が顔を上げると、俺の目線よりかなり高い所に茶色の目があった。 「二日ほど森を抜ける。食料と、水が欲しい」 「火を使って食べます?」 「使わず済むなら、その方がよい」  答えを聞き、俺は冷蔵の弁当棚へ伸ばしかけた手を戻した。選ぶ商品は決まっても、客本人には棚がほとんど見えていない。何種類あるかだけでも分かるように、まず水の大小二本を持ってきた。 「こっちは小さくて、そのまま飲みやすい方。大きい方は四倍入ってます。値段も違うので、両方読みますね」 「大きい方が、量の割には安いのか」  価格を聞いたあと、客が尋ねた。俺が頷くと、大きいボトルを持ち上げる。重さより先に、その太さを確かめていた。 「二本欲しい。荷袋へ分ければ入る」 「分かりました。もう一本、取ってきます」  小さい方を棚へ戻し、大きい二本を会計台の端に並べた。客は胴体の左右に掛けた革の荷袋を確認する。見た目だけで持てるだろうと決めずに済んだ。運ぶ場所は、本人がもう用意していた。  次にジャーキーとサラミ、ナッツ、クラッカーを持ってきた。どれも常温の棚の品だ。客は一度に抱えず、台へ並べたものを一袋ずつ取る。ジャーキーを裏返し、文字が読めないと言ったので、中身と保存方法を読み上げた。 「薄い肉だな」 「乾かしてあるんです。これは、袋を開けたらそのまま食べられます」 「三つ。こちらの丸い肉も一つ試す」  サラミが隣へ置かれた。ナッツは二袋、塩味のクラッカーは一つ。客が選んだ物をかごへ移すと、初めて持ってきた品が全部ではないと分かるよう、見本を置く所が空いた。 「パンもあります。二日分の途中で食べるなら、期限を見て選びましょう」 「見たい」  柔らかいパンを二種類、もう一度取りに行った。戻る途中で別の客が入ってきたので、俺はそちらへ挨拶をする。ケンタウロスの客も身体を少し寄せかけたが、先輩にそのままでいいと言われて止まった。旅人は中央棚の反対側を通り、水を取って別のレジへ向かった。  先輩がそちらを会計する間、俺はパンの印字を確かめた。一方は先に食べる必要があり、もう一方は、予定している二日の間に食べられる期限だった。保存する条件も添えると、客は後の方を二つ選んだ。 「長く持つ方が、いつもよいわけでもないのだな」 「今夜食べるだけなら、好きな方でいいです。今回はこちらの予定なので」 「では、今日はこっちだ」  決めたパンをかごへ入れる。男の腕は台まで無理なく届く。奥の棚へ行けないことと、選ぶものまで俺が決めていいことは、別だった。  最後のパンを持ってきたところで、客は少し言いにくそうに口を開いた。 「布も、見せてもらえるか」 「手や顔を拭くものですか」 「ああ。何度も歩かせることになるが」 「今度はついでに、ほかの候補も持ってきます。甘いものとか、要ります?」  さっきから菓子の写真を見ていたので尋ねた。客はすぐ頷き、歩いている途中に食べられる物がいいと答えた。俺はタオルとウェットティッシュ、それにチョコ、飴、ひとくち羊羹を同じかごへ入れた。  戻ると、先輩が空いている台を拭き直していた。水を置いた所に結露の跡がある。そこへ布製品を載せる前に気づいてくれたらしい。 「ありがとうございます」 「水はこっち。乾いたの、そっちへ出せ」  客も置き方を見て、ボトルを端へ寄せた。俺はタオルの寸法を伝え、ウェットティッシュには最初から湿った薄いシートが入っていることを説明した。顔や手に使える種類であることも、表示を見て確かめる。 「水がなくても、拭けるのか」 「はい。使ったら、この口を閉じます。開けたままだと乾くので」 「乾いた布と、濡れた布が両方売っている」  客は二つを並べて眺め、どちらも欲しいと言った。包装を開けずに仕組みを確かめられる所は、指で示すだけにする。選んだ二つをかごへ収めると、今度は甘い品の前へ顔が近づいた。 「黒い物が二つあるな」 「こっちはチョコレートで、こちらは豆を甘くして固めた羊羹です」 「豆を甘く?」 「はい。こっちの羊羹は柔らかいです。飴の方は硬くて、口の中でゆっくり溶かして食べます」  客は羊羹を少し持ち上げた。小さな長方形を目の高さへ近づけ、俺へ向け直す。 「どこから開く」 「この端です。上を引くと、ここから中身が出ます」 「全部、手へ出さずに済むか」 「少しずつ押し出して食べられます」  頷き方が大きくなった。形を面白がっているだけではなく、道でどう食べるかを選んでいた。羊羹を二つ、飴を一袋。チョコは暖かい所で柔らかくなると聞き、今回は戻すことにした。 「知らないものを一度に増やすと、次に何が欲しいか分からなくなる」 「では、チョコは次にですね」 「次にも、あるのなら」  次に来るつもりなのだと分かって、俺も少し声が明るくなった。客は台に残ったチョコを俺へ返す。身体を動かす代わりに、その手だけが、選んだものと選ばないものを行き来していた。  品物を読み取る前に、今夜の買い物を二人で確かめた。水二本、ジャーキー三袋、サラミ一袋、パン二つ、ナッツ二袋、クラッカー一つ。タオルとウェットティッシュが一つずつ、飴一袋、羊羹二つ。見せただけの小さな水もチョコも、会計台には残っていない。 「これで揃った。店の奥まで見た気になるな」 「同じ所、何往復もしましたからね」 「私が動けば、棚の方が動くところだった」  笑っていいものか一瞬迷ったが、客の口元も緩んでいた。俺は笑って返し、バーコードを通す。背の高い客に見える角度へ金額の表示を向けると、彼は腰の小さな革袋から硬貨を出した。  精算機には、無理に胴体ごと寄せず、届く位置で足を止めてもらった。掌から硬貨が一枚ずつ入る。店内の奥へは行けなくても、会計の操作を本人に任せられる所まで、今度は見て確かめてあった。  支払いが終わり、俺は重い水と食料を分けて渡した。客は左右の荷袋を開き、二本の水を一本ずつ収める。結露が乾いた食料へ触れないよう袋を使い、パンは潰れない上の方へ置いた。タオルと濡れたシートの袋は、休む時に出しやすい所へ移す。 「水を飲む時も、そのまま出せます?」 「出せる。紐を締めすぎなければな」  言いながら、客は片側の結びを直した。俺が全部詰めてしまわなくてよかった。荷を取り出す時に腕が届く場所は、彼にしか分からない。  最後の袋が収まると、客は入口を振り返った。こちらへ来た時と同じ道を戻るなら、後ろ向きになる。先輩も気づき、隣のレジから通路へ出た。 「回らずに戻る方がいいな」 「そうしたい。後ろを頼めるか」 「見ます。入口の脇から声を掛けますね」  俺は先に店内のマットを確かめ、近づけばドアが開く位置に立った。扉が開くと、濡れた外気が足元へ流れる。外へは出ないまま、客の進路と棚の距離を見た。先輩はほかの客が近づいていないか、反対側から確かめていた。  蹄がゆっくり後ろへ動く。途中で荷袋の端が棚へ寄りかけたので一度止め、客に寄せ直してもらった。足元の線を示してから、また真っすぐ戻る。全身が外へ出ると、ようやく広い地面で向きを変えられた。 「入るより出る方が難しかったな」  開いたドアの向こうから声がした。俺は入口の内側で頷いた。 「次は最初から、前の広い所で伺います」 「欲しい品も覚えてくる。ただ、まだ見ていない物もありそうだ」 「その時は聞いてください。ほかのお客さんがいたら、少し待ってもらうことはありますけど」 「待つ。棚を倒すよりは早い」  客はそう答えて笑った。こちらへ片手を上げると、四本の脚が森へ向く。革の荷袋が左右で小さく揺れ、白い袋はその内側に収まっていた。蹄の音が土の上で鈍くなり、やがて姿も見えなくなる。  ドアが閉まってから、俺はかごを元の所へ戻した。最初に置いてしまった空箱を先輩が畳んでいる。箱がなくなっただけで、入口から見える床が少し広くなった。 「ここに置かなければ、最初から少し楽でしたね」 「奥の角は、それでも曲がれねえけどな」 「そこは、店の広さが変わらないんで」  俺は返事をしながら、パンを持ってきたかごの中を確かめた。売らなかった見本が一つ残っている。棚へ戻し、倒れかけていた菓子袋も直した。客が次に来ても通路は同じ幅だ。けれど、説明する前に立ってもらう場所なら、もう分かっていた。  入口を振り返ると、先輩が畳んだ箱を抱えて裏へ入るところだった。俺は次の補充用の箱を床へ置かず、棚の前まで持っていった。

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