芦名 雅 / 第39話

第25話 雨宿りの冒険者

 入口のマットを拭いても、次の客が来ない。午前二時を少し過ぎたミッドマート北森店で、俺はモップを片づけながらガラスの向こうを見た。細い雨が森を白く煙らせ、店の光が届く地面には水が浮いている。さっき泥を落としていった客の足跡も、もう見えなかった。 「今日、少ないですね」 「雨だからだろ」  榊原先輩は検品端末を置き、ホットスナックの残りを見た。いつもなら常連の注文で何度も扉を開けるケースも、今夜は静かだった。俺は曇りを拭き、ガラスに映る自分の手の向こうで、自動ドアが開くのを見た。 「いらっしゃいませ」  入ってきた若い男は、すぐにはこちらを見なかった。十代の終わりか、二十歳くらいだろうか。濡れた栗色の髪が額に張りつき、顎から落ちた滴が革の胸当てへ染みていく。灰色の外套は重たく垂れ、靴も脛の辺りまで泥で汚れていた。腰の短剣より先に目についたのは、左腕に巻かれた布だった。端に赤黒い色が滲んでいる。 「……店、か?」 「はい。大丈夫ですか?」 「大丈夫だ」  答えた肩が、すぐに大きく震えた。俺がカウンターを出ようとすると、先輩も端末から手を離していた。 「血、まだ出てんのか」  男は布の端を見下ろす。 「もう、ほとんど止まった。岩で切っただけだ」 「深い?」 「いや。指も動く」  男は左手を少し開いて見せた。それだけで俺には傷のことなど分からない。先輩も治ったとは言わず、入口を指した。 「そこ、風入るぞ。中へ来い」 「ここに、いていいのか?」 「突っ立ってるよりはな」  男は外を一度振り返ってから、ようやくマットの上を離れた。歩くたびに外套の裾から水が落ちる。俺がその足元へ目をやると、男も気づき、足を止めた。 「すまない。床を」 「あとで拭きます。何か探してます?」  しばらく返事がなかった。男は明るい棚を見回し、顔を少し伏せてから言った。 「温かいもの。安い方でいい」  俺は勧めかけたホット飲料から手を引いた。暖まる飲み物なら何種類もあるが、それで腹まで満ちるとは限らない。聞き直すと、男は首を縦に振った。 「食べるものも欲しい」 「じゃあ、こっちを見ましょう。予算はあります?」 「多くはない」  腰の革袋を右手で確かめる。その手つきを見て、俺はタオルも弁当もと次々に勧めるのをやめた。まず温かいもの、と言われたことを忘れないようにして、即席スープの棚へ案内した。  男はカップの写真を見比べた。コーンポタージュの黄色い写真で指が止まる。水が滴る髪から、その目だけがじっとこちらへ向いた。 「これは、このまま食えるのか」 「お湯を入れて作ります。お湯は、ここで使えますよ」 「火を起こさずに?」 「はい。あの給湯器です」  カウンターの脇を示すと、男はそちらまで視線を動かした。入ってきてから初めて、物のある場所を確かめるように顔を上げる。 「すぐ飲める?」 「表示どおりに作って、少し待てば。熱いので、すぐには口をつけない方がいいです」  男はカップを持ち上げた。包装の文字が読めないらしく、表の写真へ戻ってくる。 「甘いのか」 「少し甘いです。お菓子というより、食事のスープですね」 「なら、これにする」  決めたところで、また肩が震えた。俺は隣の日用品棚を指し、体や髪を拭く布もあると伝えた。薄いフェイスタオルを見せると、男は欲しそうに触りかけて、値札を見た。 「高いか?」 「今ある中では、これが安い方です。ただ、そっちの硬貨でいくらになるかは、俺には換算できなくて」 「店なのに?」 「レジの精算機がやるんです。買う物を決めても、足りなければそのまま進めずに教えてください」  不思議な説明になった。男はカップとタオルを見比べ、タオルを返そうとしたが、濡れた袖が包装に触れると手を止めた。 「これも。町へ戻ってからも使えるなら」 「使えますよ」  男はそれで頷いた。もうひとつと目をやったのは、小さなパンだった。スープだけでは足りないと思ったのだろう。俺が中身を伝えると、それも持ってレジへ戻ってきた。  途中で、男が左腕を軽く押さえた。 「薬はあるか」 「絆創膏とか、傷用の用品ならあります。ただ、その傷に何が必要かは俺には判断できません」 「町まで戻れば治療院がある」 「そこへ行くつもりなんですね」 「ああ。雨が弱くなれば」  男はガラスの向こうを見た。急いで出ようとしているのか、まだ出たくないのか、俺には決められなかった。先輩がカウンターの内側から声をかける。 「まず、食って拭け。今すぐその雨の中へ戻んなくていい」 「……長居になるぞ」 「通路塞がなきゃいい。入口脇、使えるから」  先輩が示したのは、いつも客が買った物を食べる場所だった。男はそちらを見て、それから手にあるパンを見た。思いがけず椅子や寝床を与えられたわけではない。買った物を食べて、雨をやり過ごす。その程度の話として受け取れたのがよかったのか、返事はさっきよりしっかりしていた。 「そうさせてもらう」  俺はスープとタオルとパンをレジへ通した。男が硬貨を出し、精算機へ一枚ずつ入れていく。画面を確かめる横顔に力が入っている。支払い完了の声がして、戻ってきた釣り銭を革袋へ収めると、ようやく手が下りた。 「お湯、入れますね」 「頼む」  カップの表示を確かめ、蓋を開けて中身を出し、決められたところまで湯を注いだ。男はタオルの袋を右手で開けようとしていたが、濡れた指ではうまく掴めない。俺が開け口を示すと、少しやり直してから、ようやく乾いた布が出てきた。  最初に髪、次に首を拭く。布を押し当てている間だけ目が閉じられた。拭いた面を変えてもう一度額へ当てると、顔に張りついていた髪が離れた。まだ頬は冷えていそうだったが、さっきより目がよく見えた。 「薄いのに、よく吸うな」 「全部びしょ濡れになる前に、乾いてるところ使ってください」 「ああ」  俺は混ぜたスープを、入口脇の邪魔にならないところへ運んだ。男はタオルを首に掛け、買ったパンを置く。左腕を気にしていたので、パンの袋を開けるのを手伝うか聞くと、少し迷ってから渡してきた。 「頼む。握ると、まだ痛む」 「開けたところだけ広げますね」  袋の口を大きくして返す。男は右手でパンをちぎり、スープの湯気が落ち着くまで待った。何でも平気だと言っていた人が、一つ頼んでくれたことで、俺も何を手伝えばいいか分かった。  最初の一口は、唇を触れさせたところで止まった。 「……熱い」 「まだ少し待った方がいいですね」 「匂いが先に来る」  男は困ったように笑い、カップを戻してパンを食べた。俺もつられて笑った。外では雨がガラスを叩いている。店の中にはコーンの甘い匂いが残り、先輩はレジ横で袋を揃えていた。  俺はカウンターへ戻った。ずっと食べるところを見られていても落ち着かないだろう。品出しの続きをしながら、通路に落ちた水だけを途中で拭く。男の外套からも滴が落ちていたが、近くまでモップを入れると気にしそうなので、そこはあとにした。  しばらくして、空のカップを持った男がこちらへ来た。どこへ捨てるか聞かれ、分別の表示を指しかけて、文字が読めないのを思い出す。投入口まで示すと、男は頷いてパンの袋も片づけた。 「雨、まだありますね」 「さっきよりは弱い」  男が入口に立つ。ドアを開けるところまでは進まず、ガラス越しに外を見ている。俺も横へ寄ったが、彼の方が長く森を見ていた。 「どこまで行くんです?」 「東の街道へ出る。そこから町まで。ここからなら二刻もかからないと思う」 その長さを、俺は正確には掴めなかった。先輩が聞いたのは、時間じゃなく道の方だった。 「帰る方角、分かってんのか」 「街道まで戻れば分かる。来る途中で、沢沿いへ下りすぎた」 「それで腕やった?」 「ああ。足を滑らせて」  男は左腕の布を見る。さっき拭いた髪が少し乾いて浮き始めても、傷までなくなるわけではない。俺は町へ着いたら診てもらうという言葉を思い出し、余計な大丈夫を言わずに待った。 「一度、道が分からなくなったんだ」  男が続けた。 「沢から上がったあと、どこまで戻ればいいか分からなくて。木の間に、この灯りが見えた」 「店の?」 「ああ。たどり着けば、何かあると思った」  首のタオルを右手で押さえる。その手を見ながら、俺は窓に映った店内を確かめた。外からは、こんなふうに棚の中まで明るく見えていたのだろうか。いつも掃除している入口が、その人には歩く先を決める目印だった。 「じゃあ、戻る道は……」 「沢には下りない。来た方に戻って、上の道へ出る。街道へ分かれるところは、行きに通ったから覚えている」  男はガラス越しに方角を示した。俺には森の奥を確かめることはできないが、彼はさっきと同じ説明を繰り返さず、どこまで戻り、どこを避けるか言い直した。先輩は黙って聞き、最後に短く言った。 「分からなくなったまま歩くなよ」 「分かっている」 「急いで、また滑んな」 「経験があるような言い方だな」 「ある」  先輩はそれだけ答え、続きを聞かせる顔はしなかった。男も追及せずに頷く。その口元に、少し苦い笑いが浮かんだ。 「それは、もうしたくない」  すぐには出発せず、男はもう少し入口脇に残った。俺が別の棚を整え終える頃、ガラスを叩く音が細くなった。男は外套の裾を絞らずにまとめ、荷袋を右肩へ掛け直した。歩き出して一度だけ靴の具合を確かめ、それからこちらへ向き直る。 「世話になった」 「気をつけて。店、開いててよかったです」  何かもっと気の利いたことを言いたかったが、口に出たのはそれだけだった。男は頷いた。 「俺も、そう思う」 「次は怪我してない時に来い」  先輩が言うと、男は今度こそ笑った。 「努力する。次は、買う物を決めてから来る」 「決まってなくても大丈夫ですよ。今日も普通に買ってもらいましたし」 「そうか。……なら、まず棚を見る」  自動ドアが開いた。男は暗い森へ数歩進み、振り返って右手を上げた。俺も返す。白い灯りの端から姿が消えても、すぐに安心できたわけではなかった。雨の向こうで町まで着いたかどうかを、俺は見届けられない。 「ちゃんと着きますかね」 「そこまでは分からん」  先輩は俺を見てから、さっき片づけたモップへ目を向けた。 「今やれる方、やるぞ」  入口から、男が食べていた場所まで濡れた跡が残っていた。先輩が足元の物を寄せたので、俺はモップを取った。雨宿りした跡を、本人がいないところで拭ける。さっき遠慮して触れなかったところまで、今度はきれいに拭いた。 ◇  六時に森が消えると、こちらの駐車場には雪が残っていた。雨の夜とは別の朝だった。俺は濡れたマットを片づけ、新しいものを敷いて、引き継ぎの準備をした。  六時五十分頃、水野さんがそのマットで靴の雪を落とした。厚手のコートに薄い灰色のマフラーを巻き、生成り色のトートバッグを片手で持っている。挨拶を交わし、着替えて戻ってきたところで、外しておいたマットに気づかれた。 「ずいぶん濡れたんですね」 「夜中に、ずぶ濡れのお客さんが来たんですよ」 「こんな山の中で?」 「タオルとスープとパン、買っていきました」 「……それは、開いててよかったですね」  同じ言葉だった。俺は頷いて、スープ棚の引き継ぎもした。新しく入ったクラムチャウダーの販促カードを見て、水野さんが顔を近づける。 「これ、湯気がもう少し大きいと、温かそうに見えません?」 「温かいものを探してる人には、そっちの方が分かりやすいかも」 「また、ちょっと真面目に考えてますね」  水野さんは笑ったが、俺はしばらくカードを見ていた。文字が読めなくても、湯気の形なら伝わるだろうか。勝手に描き換えることはせず、前の商品の札に隠れていた端を出した。  七時になり、上着を着て戻ると、水野さんは別の棚を整えていた。俺は入口のマットがずれていないのを確かめ、外へ出た。こちら側に雨は降っていない。濡れた裾を気にせず歩ける朝の道を、俺はいつもより少しゆっくり渡った。

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