芦名 雅 / 第25話

第24話 棚ごと売ってくれ

 赤い札を少し傾けるだけで、隣の菓子が見えなくなった。俺は留め具をつけ直し、棚から一歩離れた。『今だけ二十%増量』の文字が正面を向く。日本語の読める客には分かりやすいが、午前零時を過ぎたこの店では、ただ赤いものが揺れているように見えるのかもしれない。 「先輩、こういうの、向こうの客にも意味あるんですかね」 「見てるやつはいるだろ」 「文字は読めなくても?」 「何だって聞かれたら説明しろよ」  榊原先輩はレジで検品の続きを始めた。俺は十二袋並んだ増量チョコの向きを揃える。ガラスの向こうの森は暗く、枝の白いものが風で落ちている。中の売り場だけは、赤や黄色の札で賑やかだった。  入ってきた男は、挨拶への返事より先に、その札を見た。厚手の暗褐色の外套は袖口まで整っていて、肩の鞄には硬そうな角当てがついている。四十歳前後だろうか。撫でつけた茶色の髪と細い口髭の下で、口元だけがわずかに動いた。 「なるほど」 「何かお探しですか?」 「まず、見せてもらおう」  男はかごを取らず、両手を背中で組んで棚へ向かった。商品をひとつずつ眺めるというより、棚の一段を端から端まで見ている。次に値札、その次に包装の裏側。腰の三つの革袋が歩くたびに触れ合った。  俺は邪魔にならないようレジへ戻ったが、すぐに呼び戻された。男が指していたのは、さっき直した赤い札だった。 「ここには何と書いてある」 「今だけ、いつもより中身が二十%増えてます」 「値は?」 「いつもと同じです」 「同じ値で、中身を多く入れてあるのか」 「はい。この札の下の商品ですね」  男は袋を一つ持ち上げ、厚さを確かめた。説明を聞いて不思議がるのかと思ったが、その手はもう隣の段を示していた。 「この棚ごと売ってくれ」 「棚は売れません」 「棚の上だ」 「全部ですか!?」 「全部だ。代価は払う」  革袋が叩かれ、硬貨の重なる音がした。俺は棚を見直した。増量チョコ十二袋、隣の冬限定ナッツチョコが八袋、クッキーが十袋。下の段にはビスケットや飴もある。男は赤い札の商品だけでなく、この一帯を丸ごと買うつもりらしい。 「一度にそこまでだと、数を確認させてください」 「そこにある物を買うのだぞ」 「このあと来るお客さんの分も要るので」 「なら、また並べればよい」 「奥にある分を出して、なくなったら次の配送待ちです。すぐ同じだけ増やせるわけじゃないんですよ」  男はバックヤードの扉を見た。そこに品物がどれだけ積んであるか、扉越しに測っているような目だった。 「全部売れて困る店があるとはな」 「……先輩」 「全部はやめとけ。まだ夜長いしな」  レジから返事が来た。時計は零時四十分を指している。店へ戻ってきた客が何も買えずに帰る顔は、できれば見たくなかった。でも、せっかく買いたいと言っている人を、何となくで追い返すのも違う。  俺は男に少し待ってもらい、奥の在庫を見た。増量チョコは補充用の箱が一つある。棚に出ている数と、最近の売れ方を先輩に示すと、今夜残しておきたい分を短く確認された。俺は端末を持って売り場へ戻った。 「まず、このチョコは六袋なら」 「十」 「そんなに減らせません」 「九」 「値段の交渉みたいに数を刻まないでください」 「七」  俺はもう一度、手元の数を見た。七袋売っても、補充用を全部出さずに、次の客が選べるだけは残る。少なめに答えた一袋を頭の中で引いてから、先輩へ確認した。頷きが返る。 「……七袋までです。今日はそれでお願いします」 「決まりだ」  男はすぐに袋を取った。迷っている俺の前で、腕の中へ七袋が積まれていく。慌ててかごを差し出すと、ようやく受け取った。 「最初に渡してくれればよかった」 「最初、使わずに行ったのそっちですよね?」  男は聞いていない。今度は黄色い札の前で止まっていた。俺は二つ目のかごも持っていくことにした。 「これは何だ」 「数量限定のビスケットです。入る数が決まっていて、なくなったら終わりです」 「では、全部」 「今、話したばかりじゃないですか!」 「限定なら、なおさら早く押さえるべきだろう」  男は悪びれずに答えた。その声には、珍しい食べ物を自分で試したいという興奮とは別の速さがある。俺は袋を戻してもらいながら聞いた。 「商売してる方ですか?」 「そうだ。街で店を三つ持っている。香辛料、布、保存食、旅道具。珍しい品も扱う」  胸元から出てきたのは、小さな玉が何列も並んだ木板だった。男は片手でそれを支え、指先で玉を弾く。 「ここはよい。包みが揃っている。持ち運びやすい。値も一定だ。中身まで多いとなれば、なおよい」 「仕入れて持っていくつもりなんですね」 「自分で全部食うと思ったのか」 「ここだと、そういう人もいるので」 男が一度だけ顔を上げた。俺は冗談じゃなく答えたが、どちらも追及はしなかった。木板の玉がまた動き、今度は乾燥肉の棚へ視線が飛ぶ。 「限定の方を五袋。そこの焼き菓子は十。乾いた肉も要る。水は箱であるか」 「一つずつお願いします。水は重いですよ」 「運ぶ者はいる」 「外で待ってるんです?」 「ああ」 ガラスの向こうを見ても人影は分からなかった。けれど、男の頑丈な鞄だけで全部運ぶつもりではないらしい。俺は先輩にも聞こえるよう品名を挙げ、一種類ずつ数を決めた。限定ビスケットは四袋、普通のクッキーは六袋、ジャーキーは五袋。水は箱じゃなく六本にしてもらう。  全部を断られた時より、男の返事は早くなった。手に入る数が決まれば、その先の計算をするらしい。袋をかごへ置くたびに木板の玉が動く。俺には読めない文字が端に刻まれているが、今何を確かめているかは分かった。 「まとめて買うのだ。一袋あたりの値は下がるな?」 「下がりません」  指が止まった。 「これだけ買うのに?」 「これだけ買っても、値札どおりです」 「私は十袋買う客なら値を下げる」 「この店では、その交渉はしてないです」  男が先輩を見る。俺を飛ばして上へ聞こうとしているのが分かった。先輩は視線を受け止め、同じ答えを返す。 「値札どおり」 「少しも?」 「俺たちが勝手に変えるもんじゃねえ」 男は口髭の下で唇を引き結び、計算をやり直した。こちらの返事が変わるのを待つ顔じゃなく、下がらない値で買うかどうかを考えている顔だ。そのままかごを返されるかと思ったが、男は持ち手を握り直した。 「よかろう。珍しいことには変わりない」  俺が水の入ったかごをカウンターへ運んでいる間に、男はレジ横の台紙へ目を留めた。黄色い三日月に、丸い白猫。その下に対象の菓子が二種類並んでいる。 「この白い獣も売っているのか」 「猫です。それはステッカーで、対象のお菓子を二つ買うと一枚もらえます」 「代価なしで?」 「お菓子を買ってもらった分のおまけです」  男は台紙と対象商品の値札を見比べた。ほかの商品と見間違えないよう、俺はその二種類を指し直す。さっきまでの増量チョコとは別の菓子だと確認すると、男は新たに二つ取った。 「その印だけを欲しがる者もいそうだ」 「そっちまで売るんですか」 「まず相場を見る」  答えながら、もうステッカーの見本を観察している。三日月の黄色や猫の丸さにも値をつけるつもりなのだろうか。俺が台紙の端を直すと、男は手を引いて、小さく頷いた。 「これは、まだ私のものではなかったな」 「会計のあとに、新しいのをお渡しします」 「分かった」  男はもう一度ステッカーの台紙へ目をやり、かごを台へ載せた。まとめ買いの値引きはなくても、買うのをやめる気にはならなかったらしい。  会計では二つのかごを並べ、品物を混ぜないように順に通した。増量チョコ七袋、限定ビスケット四袋、クッキー六袋、ジャーキー五袋、水六本。ステッカーの対象チョコ二つも忘れずに加える。最後に男が置いたのは、キャンディ二袋だった。 「それもですか」 「この二袋なら、全部よいな?」 「その二袋は全部どうぞ」  男が初めて口元を緩めた。俺が合計を示すと、革袋の口が開く。厚いもの、薄いもの、大小の硬貨が精算機へ入り、表示が変わっていった。俺には一枚の価値が分からないが、男は何枚出すか迷わず選んでいる。支払い完了の声を聞いて、ようやく革袋を閉じた。 「会計が早いのはよいな」 「そこは素直に褒めるんですね」 「商人にとっては大事なことだ」  俺は未使用のステッカーを一枚渡した。男は袋へ放り込まず、革の手帳を出して間に挟んだ。菓子より先に傷まないよう収める、その扱いだけは少し意外だった。 「売れるか、まだ分からないんですよね?」 「折れたものを見せて、欲しいかどうか聞くつもりはない」  言われてみればそのとおりだ。俺は広げかけたレジ袋の底を整え、水の重みが一点へ寄らないように分けて入れた。四つの袋がカウンターに並ぶと、男は一つずつ持ち上げ、重さを確かめた。 「次はいつ入る」 「商品によります。限定品は、同じものがまた入るとは限りません」 「金を先に払って三十個押さえることは?」 「この場で、俺たちが約束することはできないです」  男の手が革袋へ近づきかけて戻った。今度は、金を見せても答えが変わらないと分かったらしい。 「では、また来る。次は荷車を近くまで寄せよう」 「持っていける量の話と、売れる数の話は別ですからね」 「覚えておく」  返事が少し軽い。俺は念を押すつもりで顔を見たが、男はもう袋を持っていた。自動ドアが開くと、外から誰かの足音と短い声が聞こえる。袋の二つが入口の向こうで別の手へ渡り、男の姿も森へ消えた。  俺は売り場へ戻った。棚そのものは残っている。当たり前なのに、さっきの注文を思うと少しおかしかった。奥から持ってきた分を補充すると、七袋減った列も、次の客が選べる形に戻った。 「全部売ってたら、売上はもっと増えてましたね」 「今夜だけならな」  先輩は空いたかごを重ね、入口側へ向けた。 「いつ来ても何もねえ店には、来なくなるやつもいるだろ」 「さっきのお客さんも、次に来て空だったら嫌そうですね」 「だろうな」  俺は端末に残った数を確かめた。売れたから同じだけ増やす、と押せば済む話ではない。次もあの男が来るか、その荷車が本当に必要になるかは、まだ分からなかった。  赤い札が、補充した袋の陰に半分隠れていた。俺は引き出して、少しだけ角度を変えた。見えなくしておけば静かで済むのに、などとは思わなかった。次に「何と書いてある」と聞かれたら、今度は慌てず答えるつもりで、十二袋の並びをもう一度確かめた。

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