芦名 雅 / 第12話

第11話 地図、コピーできます

 あの大剣の男が来た夜から、何日か経った。山の夜は、その間に一段寒くなった気がする。午後十一時過ぎ。ミッドマート北森店のガラスの向こうは真っ暗で、駐車場の白線だけが店の明かりに浮かんでいる。自動ドアが開くたびに、ひやりとした空気が足元へ入り込んだ。 「寒っ」  俺は思わず肩をすくめた。 「山だからな」  榊原先輩はレジの中で納品伝票を見ながら言った。 「先輩、それしか言わないですよね」 「寒いもんは寒いだろ」 「もうちょっと季節を感じるとか」 「感じてる」 「どこで?」  先輩が顎でレジ横を示した。そこには、少し前までなかった白い保温ケースが置かれている。透明な扉の内側には、丸い中華まん。肉まん、あんまん、ピザまん。白い湯気でガラスがうっすら曇っていた。 「売り場で季節感じる人、初めて見ました」 「コンビニ店員だからな」 「それ便利な言葉になってません?」 「実際便利だろ」  否定できない。秋が深まってきたら、中華まんが増える。飲料棚も冷たいものばかりではなくなってきた。入口近くには、温かい缶コーヒーの案内まで出ている。俺がこの店へ来た頃と、棚の顔が少しずつ変わり始めていた。毎日同じ場所に立っていると、こういう変化が意外と目につく。 「肉まん、夜中も売れるんですかね」 「売れんじゃねえの」 「異世界の人、肉まん知ってます?」 「知らん」 「でしょうね」  最近は、先輩に「知らん」と言われても、そのまま受け取れないことがある。あの大剣の男をどう帰らせたのかは、まだ聞けずにいた。今も聞こうと思えば聞ける。けれど、先輩は伝票の数量と届いた箱を照らし合わせていて、俺の前には拭きかけのトングがある。口を開くきっかけを逃したまま、俺は柄の継ぎ目に残った水滴を拭った。 ◇  午前零時、短い電子音とともに照明が一瞬揺れた。ガラスの向こうにあった駐車場の白線が消え、木々の幹が店の明かりの届く所まで迫る。扉が開くのを待っている間は暖房の音しか聞こえないのに、その向こうだけが別の夜になっていた。俺は時計を確かめてから、拭き終えたトングをケースの脇へ戻した。 「よし」  レジ横の中華まんケースを見る。 「何がよしなんだ」 「今日は何が最初に売れるかなって」 「暇か」 「ちょっと楽しくなってきたんですよ」 「最初は客見るたび騒いでたのにな」 「成長したって言ってください」 「慣れただけだろ」  だいたい同じ意味だと思う。零時を過ぎて最初に来たのは、見覚えのない男だった。灰色の外套の泥を入口で軽く払い、腰の短い剣がドアへ当たらないように身をひねって入ってくる。焦げ茶色の髪を短く切った、二十代半ばくらいの人間だ。顎には薄い髭が伸び、外套の下の革の胸当ても、肩から斜めに掛けた布袋も、よく擦れる所だけ白っぽくなっていた。 「いらっしゃいませ」  俺が声をかけると、男は片手を上げた。 「ああ」  男は商品棚と冷蔵ケースを見渡し、レジへ向きかけた顔を入口脇へ戻した。雑誌棚の横にあるコピー機で視線が止まる。正面へ近づいて画面を覗き、脇からも確かめているが、使い始める様子はなかった。 「……何してるんだろ」 「見りゃ分かるだろ」 「分かんないから言ってるんですよ」  先輩はレジに残っている。男は画面を一度押し、表示が変わった途端に手を引いた。もう一度押すと、今度は別の選択肢が並ぶ。文字が読めないのか、絵の付いたボタンを見比べたまま指を宙に浮かせていた。 「……」  完全に困っている。俺はレジを出た。 「何かお困りですか?」  男が振り向く。 「これを使いたい」 「コピー機ですか?」 「こぴーき」 「ああ、えっと。紙を写す機械です」 「やはりそうか」  男は少し安心したように頷いた。 「聞いたことがある。この店には、紙に描いたものを同じ形のまま増やす箱があると」 「そんな説明で広まってるんだ……」  誰が伝えたのか知らないが、間違ってはいない。 「何をコピーしたいんです?」 「これだ」  男は肩の布袋を下ろした。中から取り出したのは、丸められた一枚の紙だった。紙、と言っていいのか少し迷う。俺たちが使うコピー用紙より厚く、少し黄ばんでいる。端も綺麗な直線ではない。何度も広げたり丸めたりしたのか、細かな折れと皺が付いていた。男が近くの商品棚の端を借りて、それを広げる。 「地図?」 「ああ」  地図には山並みらしい線と川の曲線が走り、その間を細かな木の印が埋めていた。途中には赤いインクで丸や矢印が書き足されている。添えられた文字は俺には読めない。会話が通じるからといって、男の指す場所が何なのかまで分かるわけではなかった。 「これ、同じものを作りたいんですか?」 「できるのか?」 「たぶん。大きさも入ると思います」  俺は地図を持ち上げ、コピー機の原稿台と見比べた。ぎりぎりではない。普通に収まりそうだ。 「何枚必要です?」 「三枚」 「三枚ですね」  男が俺の顔を見る。 「本当に同じものが三枚できるのか?」 「できますよ」 「今から?」 「今から」 男の目がコピー機へ移った。機械はまだ何もしていないのに、もう紙が増える瞬間を待っている顔だった。 「どれくらいかかる」 「一分もかからないと思います」 「……は?」 どこかで聞いた反応だった。時給三千円を見た時の俺も、こんな顔をしていた気がする。 「一分?」 「操作が終わればすぐです」 「待て」  男が地図を押さえた。 「これは宿の書き手に頼めば、早くても半日はかかる」 「手で写すなら、まあ」 「しかも三枚だぞ」 「コピー機なら枚数指定するだけなんで」  男はコピー機を見る。地図を見る。俺を見る。 「……魔道具か?」 「違います」 「では何だ」 「コピー機です」 「それは今聞いた」  説明になっていない。でも、俺もコピー機の内部構造なんて説明できない。 「先輩」 「あ?」 「コピー機って、どういう仕組みでしたっけ」 「俺に聞くな」 「ですよね」  素直に諦めた。 「とにかく、紙を置けば同じものが出てきます」 「雑だな」 「使う分にはそれで十分です」  男はまだ疑っている顔だった。俺は原稿台の蓋を開ける。 「地図、ここに置いてください。描いてある面を下に」 「下?」 「はい」 「見えなくなるぞ」 「それでいいんです」 「本当に?」 「本当に」  男は慎重に地図を置いた。少しずれる。 「もうちょい右です」 「こうか」 「はい。で、蓋を閉めます」  蓋を下ろす。男の眉が寄った。 「挟んだぞ」 「潰してないです」 「見えない」 「だから大丈夫ですって」 「お前を信じるぞ」 「コピー一枚でそんな重いこと言わないでください」  画面へ指を伸ばしたところで、先ほど見た赤い印を思い出した。白黒の設定のままでは色が残らない。俺はスタートを押す前に、男へ顔を向けた。 「この赤い印も、そのままの色で残します?」 「残るのか? それが消えると困る」  男の手が原稿へ伸びかけ、俺の手元を見て止まる。単に形が同じならいい、という買い物ではないらしい。 「じゃあ色付きで。白黒より料金が高くなります」  画面に出た三枚分の料金を伝えると、男は腰の革袋を確かめてから頷いた。俺は用紙の大きさと枚数を確認し直す。蓋の閉じた原稿台を見ていた男も、今度は何も言わずに待っていた。 「じゃあ、押しますよ」 「何を」 「これを」  スタートボタンを押した。コピー機の中で、低い機械音が鳴る。原稿台の下を光が走った。 「おおっ!?」  男が一歩下がった。 「大丈夫です」 「光ったぞ!」 「光ります」 「地図は!?」 「燃えてないです!」  紙が送られる音に合わせ、男が排出口へ首を伸ばした。一枚目に続いて二枚目、三枚目が出てくる。俺は紙を揃えて取り出すと、先に原稿台の蓋を開け、下に置いたままだった地図を男へ返した。丸まりかけた端を彼が押さえる。そこへ、今出てきた三枚を差し出した。 「はい」  男はすぐには受け取らず、原本と俺の手の中の紙を見比べた。同じ赤い矢印へ二度視線を往復させ、ようやく片手を伸ばす。その指先は、薄いコピー用紙の端だけを慎重につまんでいた。 「……同じだ」 「コピーなんで」  男は受け取った一枚へ目を近づけた。赤い丸から細い川の線をたどり、隅の文字へ移る。原本の端に付いていた茶色い染みを見つけると、そこだけを指先で軽くこすった。 「染みも同じだ」 「そこは別にいらないですけどね」 「線の太さまで同じだ」 「そういう機械なんで」 「この小さな傷も」 「そこまで見るんです?」  男は聞いていない。三枚を並べる。また見比べる。そして突然、俺を見る。 「もう三枚」 「増えた」 「六枚欲しい」 「最初三枚って言ってましたよね」 「予備だ」  プリンを二つ追加した女王陛下と同じことを言っている。予備という言葉は、案外便利なのかもしれない。 「では、追加の三枚も同じ料金でいいですか?」 「待て」 「追加する前に、何か変えます?」 「いや、料金は構わん。ただ、この紙に、今から印を足したら」 「それをまたコピーできます」 「別の地図になる?」 「書き足した状態のコピーになりますね」 「……」  男は答えず、複写した一枚を原本の横へ置いた。赤い矢印を指でたどり、残る二枚をその上へずらして重ねる。俺が追加の設定をしようとしても、まだ紙から手を離さない。 「書き足してからにします?」 「いや。今のままでよい」  男は三枚を重ねずに分けた。さっきまで原本が失われないか確かめていた手が、今度は一枚ずつの置き場所を作っている。 「これがあれば、別れて動く時にも全員が地図を持てる」 「ああ、今までは?」 「一枚しかなければ、持つ者から離れられなかった」  なるほど。単に便利というだけではないらしい。 「でも、写した地図が正しいかは元の地図次第ですよ」 「どういう意味だ」 「元が間違ってたら、その間違いも全部同じになります」  男は手元の地図を見る。 「……確かに」 「染みまで同じなんで」 「それはもう分かった」  少しだけ笑った。 「あと、俺はこの地図に何が書いてあるか読めないんで。内容までは保証できません」 「読めないのか?」 「話は通じるんですけど、文字は別みたいで」 「妙な店だな」 「それ、こっちも思ってます」  男は原本をこちらへ差し出した。俺は同じ向きで原稿台へ戻し、さらに三枚を出す。コピーが六枚になったところで、蓋を開けて元の地図も返した。男は原本を丸めて布袋の奥へしまい、新しい六枚は角を揃えて別に持つ。その区別を見届けてから、二人でレジへ戻った。コピー代は店内サービスとして会計し、見慣れない硬貨は半セルフ精算機がいつもどおり受け入れる。俺には相変わらず、そっちの方がコピー機より不思議だった。 「ところで」  会計を終えた男が、コピーした地図を布袋へ入れながら言った。 「あれは何だ?」  指差したのはレジ横。中華まんの保温ケースだった。 「肉まんです」 「肉?」 「中に肉が入ってるやつです」  男の目が少し変わった。 「温かいのか?」 「温かいですよ」 「一つくれ」 「はい」  地図を六枚作った直後でも、やることはいつもと同じだ。俺はトングを取った。白い肉まんを一つ挟み、専用の紙袋へ入れる。 「熱いので気をつけてください」 「分かった」  肉まんの分を追加で会計すると、男は渡された紙袋を両手で包んだ。さっきは原稿が無事かどうかしか見ていなかったのに、今度は袋越しの温かさを逃がさないよう、指を揃えている。 「温かいな」 「そういう商品です」  すぐ食べるのかと思ったが、男は少し迷ってから布袋の口を開いた。六枚の地図が入っている。俺は嫌な予感がした。 「待ってください」 「何だ」 「肉まんと地図、一緒に入れない方がいいです」 「なぜだ」 「湿気ます」  男が止まる。紙袋を見る。地図を見る。 「……危なかった」 「せっかくコピーしたのに全滅させないでくださいよ」 「この店は難しいな」 「コピー機より肉まんの方で苦戦しないでください」  結局、男は肉まんをその場で食べることにした。入口脇の邪魔にならない場所で、紙袋を開く。一口。湯気が上がる。 「熱っ」 「言いましたよね!?」 「思ったより熱い!」 「だから熱いって!」  先輩がレジの中で小さく欠伸をした。 「今日も平和だな」 「どこ見て言ってるんですか」  肉まんを食べ終えた男は、空いた紙袋を捨ててから、水と携帯用の菓子を少し買った。新しい地図六枚は、布袋から出した別の布で包み直している。角が折れないように荷物を入れ替えるのを待って、俺は最後の商品を渡した。自動ドアが閉まり、灰色の外套が森に見えなくなる。残ったコピー機は、もう最初の案内画面へ戻っていた。 「先輩」 「ん」 「コピー機って、すごいですね」 「今さら?」 「いや、今までコピー機見て感動したことなかったんで」 「普通そうだろ」 「でも、ない場所から見たら、めちゃくちゃ便利なんだなって」 「便利なもんは、慣れると普通になるからな」  先輩はそう言って、伝票へ視線を戻した。俺は少しだけ先輩を見た。今の言葉に、何か意味があるのか。それとも、ただコピー機の話をしただけなのか。やっぱり分からない。 「瀬尾」 「はい」 「コピー用紙、残り見とけよ」 「六枚で空にはならないですよ」 「六枚出せたから、次も出るとは限らねえだろ」  俺は用紙トレイへ手を掛けた。昨日補充された束には、まだ十分な厚みがある。機械が一分で仕事を終えても、こういう確認まではやってくれないらしい。残数を確かめてトレイを閉めると、レジ横で先輩が次の伝票をめくっていた。 ◇  午前六時になると森が消え、薄い霧のかかった山と駐車場が戻ってきた。俺は床を掃き、レジ台を拭いて、朝番へ引き継ぐ売り場を整えた。夜の間に肉まんが二つ、あんまんが一つ売れている。ピザまんはまだ残っていた。  午前六時五十分過ぎ。バックヤード側の扉が開く。 「おはようございます」  水野さんだった。肩ほどの焦げ茶色の髪を後ろでゆるく束ね、今日は薄手の上着を一枚多く羽織っている。肩の生成り色のトートバッグには、いつものように薄い絵の具汚れが残っていた。 「おはようございます」 「寒くなりましたね」 「山、思ったより早いですね」 「瀬尾さん、まだ秋の山なめてました?」 「ちょっとだけ」 「冬もっと寒いですよ」 「今から帰りたくなってきた」 「これから帰るんですよね?」 「そうでした」  水野さんが笑う。それから、レジ横を見た。 「あ、今日は中華まん残ってるんですね」 「夜にいくつか売れましたけど、まだあります」 「私が来る頃、いつも少なくなってるんですよね」 「夜、意外と売れるんで」 「この店、夜だけ妙に食べ物売れますよね」 「……そうですね」  返事が一瞬遅れた。水野さんは気づいたのか気づいていないのか、中華まんケースへ顔を寄せる。 「新しいピザまん、まだ食べてないんですよ」 「俺もです。匂いだけ毎晩嗅いでます」 「一番つらいやつじゃないですか」 「勤務中に食うわけにもいかないんで」 「帰りに買えばいいのに」 「朝にピザまんかあ」 「夜勤明けなら朝ごはんじゃないですか?」 「言われてみれば」  生活時間がずれていると、何が朝食なのか分からなくなる。俺は掃除の最後に残していたコピー機へ回り、原稿台を拭こうと蓋を開けた。レジへ入ろうとしていた水野さんが、その手元を見て足を止める。 「あれ」 「はい?」 「コピー機、夜に使ったんですか?」  水野さんの視線の先には、俺が開けて拭いていた原稿台がある。手元の布を一度折り直してから、蓋を下ろした。 「そうです。どうして?」 「清掃してたから。昨日はほとんど動いてなかったんですよ。課題でコピーする時、ここにもこれがあったなって思い出して」 「美大だと、結構使います?」 「使いますよ。失敗した紙も増えますけど」  水野さんは手で薄い紙を揃える真似をした。俺には、さっきの男が六枚を一枚ずつ確かめていた手つきが浮かんだ。 「夜は、地図を六枚ほど」 「地図?」 「はい」 「夜中に?」 「夜中に」  水野さんは笑った。 「山の中で、夜中に地図を六枚コピーして、中華まんが売れる」 「並べると怪しいですね」 「この店、何屋なんでしょうね」 「コンビニです」  レジの奥から先輩の声が飛んできた。水野さんがそちらを見る。 「榊原さん、それで全部済ませますよね」 「コンビニだからな」 「ほら」  俺と水野さんの声が重なった。先輩は気にせず欠伸をする。胸元では、三日月を抱いた白猫がいつもどおり笑っていた。俺はレジ横の中華まんケースを見る。コピー機を見る。夜中に地図を六枚増やして。朝にはピザまんの話をする。どっちも同じ店の、一晩の出来事だ。 「瀬尾さん」 「はい?」 「帰るなら、ピザまん一個残ってますよ」  水野さんがケースを指した。 「……買って帰ろうかな」 「匂いだけで終わるのもったいないですよ」 「じゃあ一個」 「お買い上げありがとうございます」 「店員同士でやるやつですか、それ」  朝七時。俺は夜勤を上がる前に、結局ピザまんを一つ買った。外へ出る。冷たい朝の空気の中で、紙袋だけがやけに温かかった。

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