芦名 雅 / 第11話

第10話 先輩、あの客は?

 十日目の午後十時。バックヤードの冷凍庫を開けた俺は、思わず声を上げた。 「増えたなあ……」  昨日、俺が発注数を増やしたチキンの箱が、ちゃんと届いている。唐揚げも少し多い。コロッケも一箱増えていた。数字を端末へ入れた時は、少しやりすぎた気がしていた。でも、実際に届いた箱を見ると妙な実感がある。俺が増やした。その結果、今日の在庫が増えた。 「先輩」 「ん」 「昨日の発注、本当にそのまま通ったんですね」 「通したからな」 「なんか責任感じるなあ」 「余ったら廃棄になるぞ」 「いきなり重くしないでくださいよ」 「責任感じてんだろ」 「そうですけど」  榊原先輩は検品端末を片手に、箱の数を確認している。相変わらず眠たげな目。相変わらず濃紺の猫エプロン。相変わらず、やる気があるのかないのか分からない顔。十日働いて、だいぶ見慣れた。 「今日、あのリザードマンたち来ますかね」 「知らん」 「五人になるかもって言ってましたよ」 「来たら売れんだろ」 「来なかったら?」 「明日減らせ」 「発注って地味に怖いですね」 「コンビニだからな」  俺は箱を冷凍庫へ入れた。異世界につながる店でも。発注を外せば商品は余る。そこだけは、びっくりするくらい普通だった。 ◇  午前零時。自動ドアの向こうから、日本の駐車場が消える。暗い森。湿った夜気。草の匂い。もう、この切り替わりにも驚かない。 「十日目ですか」 「だな」 「俺、結構続いてますね」 「助かる」 「もっと感情込めてもらえます?」 「新人教えるのだりぃから」 「結局そこなんだよなあ」  俺はホットスナックケースを見る。昨日の団体客を見越して、チキンは多めに入れてある。唐揚げもある。コロッケもある。フランクもある。準備は万全。だったのだが。午前零時二十分。ウィーン。自動ドアが開いた。 「いらっしゃいませ」  入ってきたのは、常連のリザードマン一人だった。 「一人!」  思わず言ってしまった。リザードマンの琥珀色の目が俺を見る。 「一人だが」 「いや、昨日五人になるかもって」 「都合がつかなかった」 「俺の発注……」 「何の話だ?」 「こっちの話です」  レジの中から先輩が小さく笑った気がした。 「笑いました?」 「笑ってない」 「絶対笑った」  常連はいつもどおり、チキンを三つ頼んだ。俺は紙袋へ一つずつ入れる。 「今日は多いな」  ケースを見たリザードマンが言った。 「誰のせいだと思ってるんですか」 「我か?」 「あなたです」 「ならば、明日は仲間を連れてこよう」 「そういう解決方法じゃない!」  低い喉の音。笑っている。俺もつられて笑った。十日前。この人を見て叫んでいた自分が、少し遠い。会計を済ませたリザードマンが森へ帰る。ドアが閉じる。店内はまた静かになった。 「……来なかったな」  先輩が言う。 「言わないでください」 「明日減らせ」 「分かってますよ!」 ◇  午前二時十三分。客はしばらく途切れていた。俺は飲料ケースの前で、スポーツ飲料を前へ出していた。先輩はカウンターの中で、何かの伝票を見ている。店内に流れる小さな機械音。冷蔵ケースの低い唸り。外は暗い森。いつもの深夜だった。ウィーン。自動ドアが開くまでは。 「いらっしゃいませ」  反射で声を出す。入口に立っていた男を見て、俺の手が止まった。  人間に見えた。四十前後だろうか。百九十センチ近い上背と厚い肩は、魔王軍の将軍とそう変わらない。それなのに、棚へ近づいてくる足音を聞くと、俺は持っていたボトルを下ろせなくなった。  短い鉄灰色の髪の下、左の眉から頬へ古傷が走り、左目は少し白く濁っている。右目だけが店内を動き、黒い革鎧に重ねた錆の浮く金属板と、背負った大剣の金具が小さく鳴った。腰には革袋がいくつも下がっていたが、かごを取る素振りはない。  将軍は大きな身体を避けて歩いていた。この男は菓子棚へ肩をぶつけ、ガタンと揺らしても振り返らなかった。俺はボトルを棚へ戻し、倒れかけた商品と男の間を見た。  俺は反射的に先輩を見る。先輩も男を見ていた。眠たげな目のまま。ただ、伝票を置いていた。それだけだった。男はホットスナックケースの前まで来た。 「肉」  声は低く、ざらついていた。 「はい?」 「肉を出せ」 「チキンですか? 唐揚げもありますけど」 「全部だ」 「全部?」  ケースを見る。今日は多い。発注を増やしたから、普段よりかなり多い。 「えっと、全部買うってことですか?」  男が俺を見る。 「他に何がある」 「いや、まあ、そうですよね」  嫌な圧がある。でも客だ。買うなら売る。俺はトングを取った。 「じゃあ、チキンから入れますね」  紙袋を開く。一個。二個。三個。男は黙って見ている。 「全部、一つの袋だと潰れるので分けます」 「好きにしろ」 「はい」  チキン。唐揚げ。コロッケ、フランク。ホットスナックケースがどんどん空になる。昨日なら喜んだかもしれない。発注した分が売れる。でも今は、妙に手が落ち着かなかった。男がカウンターへ肘をつく。 「酒は」 「ありますけど」  俺は売り場の方向を示した。 「向こうです」 「持ってこい」 「セルフなんで、ご自分でお願いします」  右目が細くなる。 「俺に取りに行けと言うのか」 「はい。普通のお店なんで」  言ってから、少しまずかったかと思った。男の口元が動く。笑ったわけではない。 「普通」 「はい」 「俺を知らんらしいな」 「すみません。初めて見るお客さんなので」  背後から先輩の声がした。 「瀬尾」 「はい?」 「酒、案内だけしろ」 「あ、はい」  俺はカウンターから出た。 「こちらです」  男はついてくる。酒の冷蔵棚まで行くと、男は一番大きな缶を一本取った。次にもう一本。さらに一本。商品を選ぶ手つきも荒い。缶同士がぶつかって、金属音が鳴る。 「これで」 「お会計、あちらです」 「面倒な店だ」 「すみません」 「謝るな」  先輩がレジから言った。 「別に悪いことしてねえだろ」  男が先輩を見る。先輩は視線を逸らさない。二人の間に、短い沈黙が落ちた。俺だけが妙に居心地悪い。 「……会計しますね」  俺は先にカウンターへ戻った。ホットスナックと缶三本。かなりの量になった。ピッ。ピッ。ピッ。バーコードを通す。男は腕を組んで待っている。 「お支払いは、こちらの精算機へお願いします」  俺が示す。男は動かなかった。 「お支払いを」 「しない」 「……はい?」 「聞こえなかったか」 「いや、聞こえましたけど」  男は紙袋へ手を伸ばした。俺は反射的に袋を引いた。 「会計前なので」  右目が、俺を見る。 「小僧」 「はい」 「それを寄越せ」 「お金払ってもらえれば」 「払わん」 「じゃあ渡せません」  言い終えても、袋を引いた指は緩められなかった。カウンターが間にある。それだけを頼りに、俺は客の右手を見ていた。自分が強くなったわけではない。ただ、ここで離したら、次に何をされても同じことになる気がした。  男の顔から、わずかに表情が消えた。 「……俺の名を知らんから、そんな口が利ける」 「名前は聞いてないので」 「瀬尾」  先輩の声。さっきより低い。俺は黙った。男の手が伸びる。紙袋ではない。俺のエプロンの胸元。三日月を抱く白猫の刺繍ごと、布を掴まれた。ぐっと身体が前へ引かれる。 「っ」 「ガキが」  男の顔が近づく。酒の匂いはしない。まだ飲んでいないから当然だ。なのに、酔っぱらいより厄介な目をしていた。 「店の物を出せと言っている」 「だから、会計を――」 「手、離せ」  いつもの低く、少しかすれた声だった。怒鳴ったわけではないのに、胸元を掴む指が一瞬止まる。俺は引かれていた肩をほんの少し戻し、横を見た。先輩は同じカウンターの内側、俺のすぐ隣まで来ていた。濃紺のエプロンには相変わらず白猫がいるが、伝票を見ていた時の眠たさは、その目から消えていた。 「何だ、お前」  男が言う。 「店員」  先輩はそれだけ答えた。 「こいつが先に――」 「会計してねえだろ」 「だから何だ」 「客なら払え」  先輩の目が男を見る。 「客じゃねえなら帰れ」  短い。説明もない。男は数秒、先輩を見た。そして、俺のエプロンから手を離した。助かった。そう思ったのも一瞬だった。男の右手が、背中へ回る。大剣の柄。俺の喉が乾いた。金属が鞘の中で擦れる音がした。ほんの数センチ。刃が出る。先輩が俺を見る。 「瀬尾」 「はい」 「裏へ下がれ。チキンの追加、用意しとけ」 「……え? 今それどころじゃ」 「いいから」  言葉は強くない。でも、初めてだった。この人の「いいから」に、逆らう気が起きなかったのは。 「……分かりました」  俺は紙袋を置き、バックヤードへ下がった。振り返りたい。でも、振り返らなかった。自動ドアではなく、バックヤードの扉が閉まる。売り場が見えなくなる。  バックヤードの冷凍庫を開け、チキンの箱を出した。扉を隔てた売り場には、まだ剣を抜きかけた男がいる。箱の縁を掴む手が震えて、冷凍庫の蓋へ一度ぶつかった。 「……何してんだ、俺」  警察を呼ぶべきなのか。スマホへ伸ばしかけた手が止まった。あの客をどう説明すればいい。店の秘密を知らない相手へ、本当のことは話せない。かといって、何もせずにこの扉の内側にいるのも怖かった。  売り場から何か音がすると思った。剣がぶつかる音でも、棚が倒れる音でもいい。ところが、聞こえるのは冷凍庫の低い唸りだけだった。俺は包装の端を引き、必要な数を作業台へ並べた。フライヤーは扉の向こう、カウンター奥にある。揚げるには戻らなければならないが、先輩は下がれと言ったのだ。  手順の続きを探して、箱に残った数をもう一度数えた。合っている。それでも数え直す。扉に耳を向けるたび、指先から冷凍食品の冷たさだけが伝わってきた。  スマホで時刻を確かめた。さっきから七分が過ぎていた。ドワーフなら耐えられないだろうなと、一瞬だけ関係のないことが浮かび、すぐに消える。待っているだけでは、先輩が無事なのかさえ分からなかった。  俺は追加分を置き、空いた手を扉の取っ手へ掛けた。一度息を整え、売り場の様子が見える分だけ開ける。  店内は普通だった。 「……は?」  中央の棚も飲料ケースも倒れていない。ガラスは割れておらず、床にも何も落ちていない。さっき男が立っていた場所を確かめても、黒い革鎧はどこにも見えなかった。  榊原先輩だけがカウンターの中にいて、エプロンの紐を直しながら伝票を見ていた。俺が扉を開けた音で顔を上げると、目はもういつもどおり眠たげだった。 「……先輩」 「ん」 「あの客は?」 「帰った」 「帰った?」 「ああ」  俺は入口を見る。自動ドアの向こうは暗い森。男の姿はない。 「普通に?」 「何が普通か知らんけど、帰った」 「剣、抜こうとしてましたよね」 「そうだったな」 「俺、掴まれてましたよね」 「見てた」 「で、帰った?」 「帰った」  同じ答えしか返ってこない。俺は店内を見回した。本当に何もない。 「……何したんです?」 「別に」 「別にって」  先輩が、バックヤードの作業台を顎で示した。 「追加、出せたか」 「……はい」 「じゃあ揚げるぞ」  俺は用意したチキンを運んだ。バスケットへ並べて油へ沈めると、じゅわっと音が立つ。先輩が横でタイマーを押し、七分の数字が減り始めた。さっき待っていた七分と同じ長さだとは、どうしても思えなかった。  紙袋を準備する。さっきの男が買うはずだったホットスナックは、カウンターの上に置かれたままだった。 「これ、どうします?」 「会計してねえから戻せるもん戻せ」 「揚げ物は?」 「時間見て廃棄」 「ですよね」  あまりにも普通の返事だった。俺はますます分からなくなった。 ◇  午前三時。その後、普通の客が二組来た。片方は小柄な獣人らしい夫婦。もう片方はローブ姿の旅人。俺は普通に接客した。水を売った。パンを売った。さっき追加で揚げたチキンも二つ売れた。レジを打ちながらも、頭の片隅にはずっとあの男がいた。客が途切れる。俺はケースを拭く。先輩は伝票を書く。いつもの深夜に戻っている。 「先輩」 「ん」  聞こうと思った。何者なんですか。どうやって追い返したんですか。怖くなかったんですか。あの剣を抜かれて、何をしたんですか。でも。 「……ホットスナック、少し余りそうですね」 「明日減らせ」 「ですよね」  違うことを聞いた。先輩は何も気にしていない。俺も、それ以上は聞かなかった。聞けば答えてくれる気がしなかった。それに。十日間で、少し分かってきたことがある。この人は、話したくないから黙る時と。本当に知らないから「知らん」と言う時と。たぶん、両方ある。今のは。どっちなのか分からない。 ◇  午前六時。森が消える。日本の駐車場が戻る。空は薄く明るい。俺は入口の床をモップで拭いた。傷はない。何もない。あの大剣の男が本当にいたのかと思うくらい、何も残っていない。 「瀬尾」 「はい」 「そこ終わったらゴミ」 「はいはい」  先輩はいつもどおりだった。猫のエプロン。眠そうな顔。低い声。だるそうな動き。遠征へ行く勇者たちが来た夜も、荷物を見ただけで必要な物を言い当てた。姿の見えない精霊は、先輩にだけ見えていた。エルフも、魔王軍も、最初から何でもないみたいに見ていた。それでも俺は。異世界に慣れている変わった人なんだろう、とどこかで済ませていた。でも、今日は違った。あの男が俺のエプロンを掴んだ瞬間。先輩の声が変わった。剣が抜かれかけて。俺は裏へ下げられた。七分後。客は消えていた。店は無傷だった。 「先輩」 「今度は何だ」 「……いや」  俺はモップを持ち直した。 「何でもないです」 「そうか」  先輩は欠伸をした。その胸では、三日月を抱いた白猫が笑っている。  モップを持つ手を止めると、先輩はゴミ袋の方を指した。俺は頷き、今はそちらへ歩いた。聞きそびれた問いは残っている。榊原遼は、たぶん、ただのコンビニ店員ではない。

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