芦名 雅 / 第43話

第29話 朝番に見られたメモ

 エプロンのポケットに、小さな黒いノートが入っていた。品出しのたびに角が当たるので、俺は上から押さえ、落ちないところまで入れ直した。午後十一時四十分。ミッドマート北森店のガラスの向こうには、まだ日本の駐車場がある。 「瀬尾」 「はい」 「手、止まってる」 「あ、すみません」  いちご菓子を一つ握ったままだった。棚へ置き、空の箱を畳む。榊原先輩はホットスナックケースの温度を確認しながら、こちらを一度だけ見た。 「メモなら休憩でやれよ」 「まだ開いてもないですよ」 「開きそうな顔だった」 「顔、そんなに分かりやすいですか」 「手が止まるからな」  それは反論できなかった。数日前、家で久しぶりに小説を書き始めた。店のことをそのまま書くのではなく、場所も人物も別の話へ変えている。ノートは、その続きを忘れないために持ってきたものだった。今夜はもう、休憩で書きたいことが二つある。けれど、その前に棚へ戻さなければいけない菓子が、手元にまだ三つ残っていた。  並べ終え、袋とチキンの残数を確かめているうちに零時になった。入口の向こうが森へ変わる。見慣れた鱗の常連が来たのは、その少しあとだった。 「いらっしゃいませ。チキンですか?」 「今日は二つだ」 「三つじゃなくて?」 「二つ」  常連の琥珀色の目がケースへ向いた。俺は手を伸ばしてから、もう一度二つと復唱した。注文を決めつけていないつもりでも、頭の中では三つ分の袋を用意しかけていた。 「今日は仲間の分がないのでな」 「ああ、自分の分だけなんですね」 「そうだ」  それ以上の事情は話さず、常連は水とおにぎりを取りに行った。先輩が低い声で言う。 「勝手に三つにすんなよ」 「してません。聞き直しただけです」 「ならいい」  常連が一人で三つ食べる夜だってある。それを知っているのに、いつもの数から外れると、つい理由まで聞きたくなる。本人にとっては、今日の自分の買い物をしただけだろう。俺はチキン二つを用意し、持ってきた水とおにぎりを一緒に会計した。  硬貨が精算機に入る音を聞きながら、常連は桜の菓子の棚へも目をやった。今夜は追加しない。そのことまで俺が聞く必要はなく、袋を渡すといつもどおり片手が上がった。 「では、また」 「ありがとうございました」  自動ドアが閉まった。白猫の袋が森の中を遠ざかる。事件もないし、大きな驚きもない。それでも俺は、ポケットのノートへ手を当てていた。二つを入れた時、余って見えた袋の中のことを書き留めたかった。 「先輩、ちょっとメモしていいですか」 「発注?」 「違います」 「じゃあ休憩で」 「ですよね」  俺は手を下ろした。今は袋を補充し、揚げ物の次の数を考える方が先だった。書きたいことが浮かぶたびに仕事を止めていたら、ノートのために来ている人になってしまう。ケースを拭きながら、言葉だけを頭の端へ置いておいた。 ◇  午前三時過ぎに客足が途切れ、先輩へ声をかけてバックヤードに入った。折り畳み椅子を引き、ノートを机へ置く。開くと、最初のページに『月明かりの宿』と書いてある。まだ仮の名前だった。夜店だけではなく、客がそのまま泊まれる場所にしてみようと、家で続きを書きながら考えたのだ。  その下には、角のある大男や、無口な古参店員のことが並んでいる。大男は、現実のリザードマンとは別の姿と暮らしを持つ人物だ。店員が昔どこかで剣を振るっていたらしいという設定も、先輩の過去の書き写しではない。俺が知っている先輩の昔は、勇者だったというところまでだった。  空いている場所へ、今夜思い出したことを書いた。『大男は二つだけ注文した。いつもは三つなのに、今日は二つ』。書き終えた途端、自分で首を傾げた。 「……これ、そのまますぎるな」  線を引き、横へ書き直す。『普段より少なく買う客。店員が理由を知りたがるが、客には説明するつもりがない』。そこまで書くと、現実とは違う場面が浮かんだ。数を聞いただけなのに、詮索されたと思う客。逆に店員の方が、少なくて足りるか気にしている。二人が見ているものをずらせば、今夜の会話をそのまま使わなくても続きを考えられそうだった。  俺は一番上の具体的な数をもう一度横線で消した。消したから誰にも読めないわけではない。人へ見せる原稿にする時は、こういう途中の書き方も残さず整理しなければと思った。今は、自分がどこを直したかったか分かるようにしておく。  書き直した行の下で、ペンが少し速く動いた。店員はいつもの客のことを知っているつもりでいる。それを、客本人がひと言で外す。うまく書けるかは分からないが、この先を家で試したかった。 「瀬尾、客」  表から声がした。俺は時計を見て、ノートを閉じた。五分だけ休むつもりだったが、まだ三分半ほどしか経っていない。先輩にあとで残りの休憩を取ると返し、ノートをポケットへ戻した。  レジへ戻ると、先輩は別の客の品物を通していた。俺も空いているレジへ客を案内する。思いついた台詞を覚えていようとして、注文を聞き逃しては元も子もない。ここからは買う物を確かめる方へ、頭を切り替えた。  そのあと落ち着いた時に短く休み直したが、ノートは開かなかった。書く場所があると思うだけで安心して、すぐ書かなくても残せる気がしていた。 ◇  六時になると森が消え、雪の残る駐車場が戻った。マットを交換し、レジ下の袋を補充する。しゃがむたびにエプロンが膝へ引っ張られ、ポケットの重みが少し動いた。俺は片手で押さえたつもりになり、そのまま空き箱を運んだ。 「春ですかね」  入口の外の、少なくなった雪を見て言うと、先輩がゴミ袋を縛りながら返した。 「まだ寒い」 「寒くなくなったら春?」 「それでいいだろ」 「判定、雑だなあ」 「花粉飛び始めたら春でもいい」 「急に嫌な基準になった」  先輩は笑わずに袋を持ち上げた。俺は春商品の前出しへ向かう。桃色の菓子を並べる手は、夜より少し遅かった。ノートに書いたことを考えていたせいではなく、普通に眠い。あとで家の画面を開けるだろうかと考え、開くだけはしようと思った。  六時五十二分、水野さんが出勤した。いつもの生成り色のトートバッグに、少し軽そうな上着。入口近くのいちご菓子を見ると、挨拶のすぐあとに足を止めた。 「あ、増えましたね」 「やっぱり、そこ見るんですね」 「急にピンクなので」 「外、まだ雪ありますけど」 「店の中は春です」 「俺もさっき言ったら、まだ寒いで終わりました」 「榊原さんに?」  頷くと、水野さんは納得した顔で笑った。先輩がレジから「聞こえてるぞ」と言う。俺が返す前に、彼女は荷物を置きに入っていった。  着替えて戻ってきた水野さんへ、ホット飲料の補充と、途中まで進めた前出しを伝えた。夜にいちごのデザートが三つ売れたと付け加えると、端末を見た彼女が小さく頷く。 「また夜中に甘いもの」 「夜中だから食べたい人もいますからね」 「その説明で、だいぶ押し切ってますよね」 「便利なので」 「言葉が?」 「はい」  笑っている間に七時が近づいた。俺はエプロンを外す前に、ノートを確かめようとポケットへ手を入れた。右にはない。左を押さえても、さっきまで当たっていた角がなかった。  指をもう一度奥まで入れ、ポケットの底をつまんだ。空だと分かるまでに、妙に時間が掛かった。休憩のあとに戻したのは覚えている。最後に触ったのは、レジ下でしゃがんだ時だっただろうか。 「どうしました?」 「いや、ちょっと」  足元と作業台を見る。レジの外へ出た時に落としたのかもしれない。誰かに拾われていたら、と考えたところで、背中に冷たいものが走った。 「これですか?」  振り返ると、水野さんの手に黒いノートがあった。彼女もしゃがんだところから立ち上がったばかりで、もう片方の手をレジ台に添えている。 「それです!」 「下に落ちてました。袋を取ろうとしたら――」  水野さんが差し出した時、表紙が指の間で少し開いた。俺からも『月明かりの宿』の文字が見える。すぐに表紙が閉じられたが、手を伸ばす速さまでは取り繕えなかった。 「ありがとうございます」  受け取ったノートを両手で挟む。確かに自分のものなのに、表紙を触る指の感覚がいつもと違った。水野さんが俺を見た。 「ごめんなさい。今、一番上が少し見えました」 「……どの辺まで」 「月明かりの宿、ってところです。その下は読んでないです」  分かりました、と言うつもりだった。けれど、口からは違う言葉が出た。 「忘れてください」 「そんな急に?」  水野さんが困ったように笑ったので、俺もようやく、自分の声が強くなっていたと気づいた。拾って返してもらっただけだ。彼女が勝手に中を探したわけではない。 「すみません。拾ってもらったのに」 「大事なメモだったんですね」 「大事というか……まだ途中なので」  思わず表紙を押さえ直した。北森店の名前も、先輩の名前も書いていない。今見えたのは、架空の宿の呼び名だけだ。それでも、自分が頭の中で動かしているものを突然見られるのは、秘密の店とは別の恥ずかしさがあった。 「描きかけの絵を、不意に見られる感じです」  そう言うと、水野さんの顔が変わった。納得したように口を閉じ、それから短く頷いた。 「ああ。それは、嫌です」 「でしょう?」 「私も、まだそうじゃないのにって思います。見えてるところだけで判断されたくないというか」 「そう、それです」  返事の勢いが大きくなり、二人とも少し笑った。水野さんはノートへもう一度目を向けかけたが、中を確かめるようにはしなかった。端末をレジ台へ置き直し、俺がノートをしまえるように半歩離れた。 「じゃあ、もう見ません」 「助かります」 「前に、完成してないからまだ言えないって言ってたの。それですか?」  俺は頷いた。何の趣味なのかまで言ってしまえば楽になる気もしたが、今はまだ声が出ない。水野さんは続きを待ちかけて、俺が表紙を撫でているのを見ると、尋ねるのをやめた。 「少し、進んだんですね」 「……まあ、書き留める分くらいは」 「なるほど」  楽しそうな声だった。何がなるほどなのか聞き返したくなったが、聞けば今度はこちらが説明しなければいけなくなる。俺はノートをしっかり持ち、そのまま時計へ目を向けた。 「七時だぞ」  先輩が言った。いつから聞いていたのか分からない。助けを求めるように見ると、先輩は目を合わせたまま、バックヤードの方を顎で示した。 「しまってから帰れ」 「……そうします」  俺はノートをポケットへ戻さず、手で持ってバックヤードへ行った。仕事用のバッグに入れ、今度はファスナーを最後まで閉めた。上着を着て売り場へ戻ると、水野さんは引き継いだ端末を確認していた。俺を見る目が、さっきノートを返した時と変わらないことに、少し安心した。 「お疲れさまでした」 「お疲れさまです。ノート、ありがとうございました」 「次は落とさない方がいいですよ」 「絶対、落としません」 「すごい決意」  水野さんが笑い、俺も少し笑った。自動ドアへ向かいながら、肩のバッグを片手で押さえた。中にはまだ、誰にも見せるつもりのない数行と、消した跡がある。  駐車場へ出ると、冷たい空気でようやく頬が落ち着いた。何を書いているのかを聞かれなかったことは、ありがたかった。けれど、いつまでも聞かれないままにしておきたいのかは、もうよく分からなかった。  俺はバッグのファスナーをもう一度だけ確かめた。帰ったら原稿を開こうと思った。今度は隠すためではなく、続きがまだあることを自分で確かめるためだった。

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