芦名 雅 / 第44話

第30話 小説、書いてるんですか?

 バッグのファスナーが閉まっているのを確かめてから、俺はエプロンをつけた。黒いノートも中にある。今夜はポケットへ入れない。バックヤードを出るところで、榊原先輩と目が合った。 「置いてきたか」 「何をですか」 「落とすやつ」 「もう落としません」 「じゃあフライ」  先輩は俺の返事を待たず、売り場へ戻った。三月に入って、外の雪は少しずつ減っている。店内には、春の菓子と冬の間から売っている温かい商品が同居していた。俺は油温を確かめ、チキンを用意する。バッグの中へ何度も目をやりたい気持ちは、作業を始めると少し薄れた。  ここ数日、仕事から帰ると文章を書いていた。すぐ眠ってから開く日もあれば、先に数行だけ打つ日もある。続きが浮かばず、前の日に書いたところを読み返すだけで終わった日もあった。それでも、別の話を作り始めることはしていない。同じファイルを開くのが、ようやく習慣になりかけていた。  零時を過ぎると、入口の向こうが暗い森へ変わった。常連のリザードマンが来たあとには、灰色の外套の旅人や、小柄な獣人の二人組も入ってくる。俺は客の姿より先に、手元のかごと、どの棚で止まるかを見るようになっていた。もちろん、剣を気にする手が見えれば話は別だ。けれど今夜、常連の大きな爪が指したのは、いつものケースだった。 「鶏を二つ。そちらを一つ」 「チキン二つと、コロッケ一つですね」 「うむ」 「今日はチキン、三つじゃないんですか」 「昨日食いすぎた」  俺は二つ目を取りながら、コロッケを見た。全部で三つなのは変わらない。 「……控えたの、鶏だけですか?」 「違うものも食いたい」 「なるほど」  聞いてみれば、それで終わる話だった。前に二つ買った夜には仲間の分がないと言っていた。今日は昨日の食べすぎと、コロッケを食べたい気分。同じ数を頼まれても、中身は同じではない。  俺が少し笑うと、常連がこちらを見た。 「何だ」 「いえ。いつもの注文にも、その日の都合があるんだなって」 「我の腹だからな」 「それはそうですね」  トングを持った手が止まりかけたので、先にコロッケを袋へ入れた。聞いたことを頭の中で文章に変えるのはあとでいい。会計を終え、温かい袋を渡す。常連が受け取る指を調整し、爪で紙を引っかけない持ち方へ変えるのが見えた。 「ありがとうございました」 「また来る」  森へ出ていった背中を見送ると、隣から声がした。 「休憩でメモする顔だな」 「顔だけで全部分からないでくださいよ」 「今日は手、止めなかったな」 「仕事してるので」  先輩は頷き、次の客へ向き直った。俺も袋の補充へ戻った。褒められたのか、注意の続きだったのかは分からない。ただ、今夜書きたいことを、客を待たせずに残せたのは少し嬉しかった。 ◇  午前三時半、バックヤードの椅子へ座って黒いノートを開いた。今日書くのは一行だけにした。『いつもの注文が少ない日には、その客にしか分からない理由がある』。具体的な数も、鱗の色も、そのままは書かない。ノートを閉じ、スマホの原稿を開いた。 「……二万三千」  表示された文字数を、小さく口にした。長い小説ならまだ途中だ。それでも、二万三千文字あった。最初の数千文字で気に入らなくなり、新しいファイルを作っていた頃とは違う。消したい段落があっても、そこに印をつけて先へ進めた分が、画面の向こうに続いていた。  舞台は『月明かりの宿』になっている。夜になると遠い土地へ道がつながり、角のある客や魔法を使う旅人が来る。宿の人間も、ここで働く俺や先輩とは別人だった。同じような言い方をさせてしまった時は、その人が今何をしたいのか考え直す。元の店の会話を借りて済ませられないところで、手が止まることもあった。  画面を少し戻した。昨日印をつけた段落は、やっぱり気に入らない。今書き直したくなったが、続きを読むと、その客が荷物を持ち直す一文は残したいと思った。全部消すのではなく、直すところと残すところを分けてみる。水野さんの、最初のよさが分からなくなるという言葉を思い出したが、それだけで手が動くわけではない。少しでも先へ書いたから、戻って読めるものができていた。  この原稿を誰かに見せるかは、まだ決めきれていなかった。話として完成するかも分からないし、元にした店のことが伝わる形にはできない。それでも、自分で読むだけの途中の文章にも、終わりまで書きたいと思えるところはあった。 「瀬尾、客」  先輩の声が聞こえた。俺はスマホを閉じ、ノートと一緒にバッグへ戻した。ファスナーを最後まで引き、残りの休憩はあとで取ると返して立ち上がる。今夜はノートをポケットへ入れなかった。 ◇  六時になると、森の代わりに日本の駐車場が戻った。空が明るくなり始め、山の輪郭が冬の朝よりはっきり見える。俺はマットを交換し、先輩はゴミ袋をまとめていた。 「日、伸びましたね」 「春だからな」 「先輩が季節を認めた」 「うるせえ」 「前は、寒くなくなったら春って言ってましたよ」 「寒くなくなってきただろ」 「まだ寒いですけど」 「じゃあ冬」 「戻った」  笑いながらモップを片づけた。そのあと返品する雑誌をまとめ、ホットスナックの残りを確認する。六時四十分頃には引き継ぎの数字も揃い、あとは朝番を待つだけになった。  入口側のマルチコピー機が目に入った。家へ帰ってから続きを書くつもりだったが、一度、紙で読んでみたかった。画面では気にならなかった同じ言い回しが、紙だと急に目につくことがある。自分の原稿でもそうなのか、確かめたくなった。 「先輩。勤務終わってから、コピー機使っていいです?」 「客として金払うなら、好きにしろ」 「はい」 「何刷るんだ」 「文章です。自分で見る用の」  先輩はそれ以上聞かず、伝票を揃えた。中身まで尋ねられないのは助かった。ただ、何も聞かれなかったあとで、少し話したかったのかもしれないと思う。自分でも面倒だ。俺は印刷するファイルを頭の中で確かめ、引き継ぎの端末を置いた。  六時五十分、水野さんが出勤した。生成り色のトートバッグに、厚手のコート。今日は首元のマフラーがない。挨拶のあと、彼女は雪の残る駐車場を振り返った。 「今日は降ってないですね」 「やっと春っぽくなってきました」 「店の中は、だいぶ前からですけどね」 「先輩と、その話してました」 「何て言われました?」 「うるせえって」 「想像できます」  水野さんは笑いながらバックヤードへ入った。戻ってきて端末を受け取ると、いつもの手際で画面を送る。俺はチキンとコロッケ、飲料の補充を伝え、いちごのデザートが二つ売れたことも添えた。 「また夜中にいちご」 「夜中でも春は来るんですよ」 「何ですか、その言い方」 「今、思いつきました」 「ちょっと文章っぽい」  思わず口を閉じた。水野さんは端末を見たままで、それ以上は何も言わない。黒いノートを拾ってもらった朝から、何日か経っていた。次に聞かれたらどう答えるか、何度も考えたのに、実際にはまだ何も決まっていなかった。 「七時だぞ」  先輩に言われて時計を見た。俺はエプロンを外し、バッグを取りに戻った。上着を着て売り場へ出ると、先輩も帰るところだった。 「先に行っててください。コピー機使ってから帰ります」 「ああ。寝んなよ」 「子供じゃないんですから」 「今の顔、眠そうだぞ」 「夜勤明けなので」 「なら、余計寝んなよ」  言い返せないまま見送った。俺は客側へ回り、コピー機の画面を操作した。スマホから送るデータを選び、余計なファイルを開いていないのを確かめる。ここで刷るのは架空の宿の原稿だけだ。店の記録や、未整理のメモは送らない。  設定と料金を確認し、支払いをして印刷を始めた。白い紙が一枚ずつ出てくる。十数枚の束になるまで待つつもりだったのに、最初の一枚を思わず手に取った。自分の文章が、行になって紙に載っている。画面で何度も読んだはずなのに、急に、ここをこのまま誰かが読めるのだと感じた。 「結構ありますね」 「うわっ」  振り返ると、水野さんがコーヒーの補充用の品を持って通りかかったところだった。俺が慌てて紙を伏せると、彼女は足を止めずに、コーヒーマシンの方へ向かった。 「見てないです。枚数の音がしたので」 「すみません。驚きすぎました」  前に、描きかけを見られるのは嫌だと話した。そのことを、水野さんは本当に覚えていた。作業をしながらこちらを見ることはあっても、紙に顔を寄せるようなことはしない。俺は印刷の続きを取り、角を揃えた。  コピー機の脇の小さな作業台に束を置く。立ったまま数え直すうちに、欠伸が出た。つい肘をつき、まぶたを閉じる。すぐ開けたつもりだった。 「瀬尾さん、寝てます?」 「……寝てないです」 「返事まで、ちょっと間がありましたよ」 「目を休めてました」 「寝てた人の言い訳」  顔を上げると、水野さんが少し呆れたように笑っていた。先輩に聞かせたら、言っただろうで終わる。俺は姿勢を戻し、束を揃え直した。紙の向きもそこで変わり、一番上に仮題の載った面が来た。  水野さんの視線が一度そこへ落ちた。けれど、本文を追わず、俺の顔へ戻ってきた。 「瀬尾さん」 「はい」 「小説、書いてるんですか?」  趣味です、と答えかけた。仕事のメモではないと言った朝と同じように、曖昧なところへ逃げる言葉は、すぐに出てきた。けれど今の質問は、何の趣味かを決めつけるものではない。書いているのかどうかを聞かれている。  俺は紙の端を押さえた。二万三千文字はまだ途中だ。読めば直したいところも多いし、完成していないから人に渡せない。それでも、これは俺が書いた小説だった。 「……はい。書いてます」  声にしたあと、紙から指を離した。水野さんの目が少し大きくなる。それから、強く頷くでもなく、ほっとしたように表情が緩んだ。 「やっぱり。この前のノート、そういうことかなと思ってました」 「一行、見えただけですよね?」 「月明かりの宿って言葉が、仕事のメモには見えなかったので。でも、決めつけるのも違うかなって」 「……聞かなかったんですね」 「途中って言ってたでしょう」  それだけだった。気を遣ったと説明されるより、ずっと気を遣われていたのだと分かった。俺は原稿を裏返さずに持ち直した。水野さんはそれでも読もうとせず、空になった補充の袋を畳んでいた。 「趣味で書いてるんですか?」 「最初は、そういう言い方をしてましたけど」 「今は違う?」  こっちの方が言いにくかった。小説を書いているなら、紙を見せれば分かる。なりたいものの話は、今の自分には何もできていないという話と隣り合っていた。 「小説家に、なれたらいいなとは思ってます」  水野さんは畳む手を止めた。聞き返される前に、俺は続けかける。 「でも、まだ何も――」 「小説家志望、なんですね」 「……はい」  途中の紙の束を持って言うには、少し大きい言葉だった。投稿サイトのプロフィールへ書くのとは違う。明日の朝も顔を合わせる人が、俺の口から聞いている。 「何か、すごいですね」 「全然ですよ。書いてるだけなら誰でもできます」 「それ、描いてるだけなら誰でもできるって言われたら、私、ちょっと嫌です」  俺は黙った。水野さんも笑って流さず、少しだけ考えてから言い直す。 「すごい小説かどうかは、読んでないから分かりません。でも、こんなに書いてるのは、瀬尾さんが書いたんでしょう」  持っている束に目が落ちた。俺以外の誰かが続きを書いたわけではない。あまり大したことではないと言っておけば、面白くなかった時に傷が少なくなる。その言い方を、描く人の前でしていたのだと気づいた。 「……自分で書きました」 「ですよね」 「すみません。先に逃げる言い方になってました」 「私も言います。だから、ちょっと引っかかっただけです」  水野さんが笑ったので、俺も息を吐いた。励まされるだけでも、試されるだけでもない。その返事の方が、次の言葉を出しやすかった。 「前に、完成してないから言えないって答えたじゃないですか」 「覚えてます」 「まだ完成してないです。今日も」 「でも、今日は言えたんですね」  俺は少し頷いた。言えたからといって、未完成の文章が完成するわけではない。それでも、名前のない趣味として隠していたものを、今は二人とも小説と呼んでいた。 「どんな話です?」  尋ねられて、今度は秘密の方を思い出した。この店のことを説明するのではない。紙の上に作った、別の宿の話をすればいい。そう確かめてから、俺は口を開いた。 「夜だけ、変な客が来る宿の話です。遠い土地へ道がつながって、角のある人とか、魔法を使う人とかが泊まりに来るんです」 「それで、月明かりの宿?」 「仮題です。まだ変えるかもしれません」 「面白そう」 「まだ読んでないのに?」 「そういう場所は面白そうです。本文は読んでないので分かりません」 「正しいですね」  変に全部を褒められるより信用できた。水野さんは少し考え、宿に来た客は何をするのか聞いた。世界を救う、と言った方が派手かもしれない。けれど、俺が書いているのは今のところ違った。 「食事をしたり、買い物をしたり。店員が困り事を手伝うこともありますけど、いつも大事件が起こるわけじゃなくて」 「泊まったら、翌朝もいるんですね」 「そうです」 「じゃあ、同じ人の夜と朝を書けるんだ」  そう言われて、俺は宿にした理由を思い出した。食べてすぐに帰るだけでなく、その客が朝どうするかも見たかった。まだうまく書けていないところだったが、説明しようとすると、続きを考えたくなる。 「そこ、今ちょうど迷ってるんです」 「描きかけのところを聞いちゃいました?」 「いえ。今のは、俺が話したかった方です」  水野さんは頷き、それ以上中身を求めなかった。俺は紙を鞄へ入れようとして、思い出したように聞いた。 「水野さんは、何を描いてる時が好きなんです?」 「急ですね」 「前から聞きたかったんです。俺ばっかり話してるのも、なんか」 「交換条件?」 「嫌だったら答えなくていいです」 「嫌じゃないです。最近は、物がある場所を描くのが好きです」  分からずに首を傾げると、水野さんは手元の台を見た。補充のために一度寄せた物が、まだ元の位置へ戻っていない。 「机とか、部屋とか、お店とか。人がいなくても、誰か使った感じが残ってるところです」 「カップが置いてある、とか?」 「そうです。椅子の向きとか、本が開いてるところとか。同じ部屋でも、誰も何もしてない時とは違うでしょう」  俺は自分が肘をついていた台を見た。原稿の束があり、バッグの口が開いている。さっきまで誰もいなかった場所を、眠い夜勤明けの俺が少し散らかしていた。 「……今ここ、めちゃくちゃ眠そうな人がいますね」 「いますね。描くなら、目が閉じてるところかも」 「それはやめてください」  笑ってから、原稿をきちんと揃えた。水野さんは、実際に俺を描くと言ったわけではない。俺も、彼女の言ったことをそのまま小説に使うつもりではなかった。それでも、何を見て残したくなるかを聞くのは、学校の名前だけを知っている時よりずっと面白かった。  自動ドアが開き、朝の客が一人入ってきた。水野さんはすぐに挨拶をした。俺もつられて声を出しかけ、もう勤務が終わっているのを思い出す。 「帰って寝ます」 「それがいいです」  水野さんは補充の片づけを終え、レジの方へ戻った。客はまだ飲料を選んでいる。俺がコピー機の台に何も残っていないか確かめていると、レジから声をかけられた。 「瀬尾さん」 「はい」 「その小説、完成したら読んでみたいです」  バッグを閉じる手が止まった。見られたくないと思っていたくせに、読まなくていいですとは言えなかった。水野さんは俺を急かさず、返事を待っている。 「……まだ、結構かかりますよ」 「完成したらでいいです。嫌じゃなければ」 「嫌じゃないです」  そこだけは、すぐ言えた。 「完成したら、読んでください」 「はい。楽しみにしてます」  朝の客がレジへ向かったので、水野さんはそちらへ向き直った。俺も入口へ進む。途中で、もう一度だけ原稿の入ったバッグに触れた。今日渡したわけではない。約束したから明日書き上がるわけでもない。それでも、完成したものをどこへ持っていくか、一つ行き先ができていた。  外へ出ると、駐車場の端の雪が朝の光で濡れていた。俺はその脇を避けて歩いた。帰ったら、まず寝る。起きたら、紙を読んで直す場所に印をつける。それから続きを書く。考える順番が、ようやく決まった。  振り返ると、水野さんがいつものレジに立っていた。ガラス越しなので、声は聞こえない。俺はバッグを肩へ掛け直し、今夜もう一度ここへ来る時には、少しでも続きを増やしておこうと思いながら店を離れた。

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