芦名 雅 / 第42話

第28話 これ、小説にしたら面白くないか

 最後の冬の札を外すと、その裏にテープの跡が残った。午後十時すぎのミッドマート北森店で、俺は爪を立てずにそこをこすり、代わりに春商品の案内を差し込んだ。外の山にはまだ雪があるのに、手元の箱には桃色の菓子が詰まっている。 「冬のプリン、完全になくなりましたね」 「売り切ったからな」  榊原先輩は外した札をまとめていた。客がいないのを確かめ、俺は少し声を落とした。 「最後の一個、女王陛下と魔王軍の将軍がじゃんけんで決めたんですよね」 「見てただろ」 「見てたどころか、合図しましたけど」 「仕事したな」 「コンビニの仕事として、想定してなかったです」  先輩が少し笑った。俺は箱を開け、桜風味の焼き菓子を並べる。女王の開いた手と、将軍が残した大きな拳を思い出して、自分でも笑いそうになった。誰かに話せたら、それだけでひと晩盛り上がりそうな出来事だ。けれど、その「誰か」を気軽に選べない店で、俺は働いていた。  零時が来る前に、チキンと袋を用意した。ガラスの向こうが森へ変わったあとも、レジ横の桃色だけはそのままだった。いつもと違う商品をどの客が選ぶだろうと考えていると、最初に来たリザードマンが、ちょうどその前で足を止めた。 「今夜も世話になる」 「いらっしゃいませ。チキン、ありますよ」 「それはよい。……これは何だ」  太い爪が、桜の花びらの描かれた袋を示した。チキンだけ見ていると思っていたので、少し意外だった。 「桜風味の焼き菓子です」 「さくら」 「花の名前ですね。甘いお菓子です」 「花を食うのか」  俺は袋を裏返した。写真を見ただけで花そのものが入っていると言ってしまうのは違う気がした。 「花を丸ごと食べる商品ではないです。香りをつけた感じで。詳しい作り方までは分からないですけど」 「肉ではないな」 「そこは確実に違います」  常連は袋を持ち直し、しばらく眺めた。甘いものを選ぶ時にも、ちゃんと迷うらしい。いつも同じ鶏肉を買う人、という俺の方の決めつけが、少しずれた。 「では、一つ試す」 「チキンと一緒に?」 「別に食えばよかろう」 「それはそうです」  チキン三つ、水一本、おにぎり二つ。そこへ桃色の袋が一つ加わった。支払いを終えると、常連は焼き菓子が潰れないよう、袋の中の上へ置いた。 「花の菓子がうまければ、次は仲間にも持っていく」 「じゃあ、感想待ってます」 「分かった」  白猫の袋が森へ消え、俺は空いた一つ分を前へ出した。巨大なリザードマンが仲間への土産に桜のお菓子を選ぶ。その姿もおかしいが、口に合うか自分で試してから持っていこうとしているのが、妙に気になった。 「先輩。今の、面白くないですか」 「何が」 「あの人が、花のお菓子をお土産にするんですよ」 「まだ食ってねえんだろ」 「そうじゃなくて。絵面も、買い方も」  先輩はケースの曇りを拭きながら、こちらを見た。 「客は客だろ」  いつもの言葉だった。初めてあの常連を見た夜にも、そう言われた。あの時は二本足で歩く大きなトカゲにしか見えなかったのに、今は何個買うかを聞き、包みを潰さないように渡している。そこで起きていることは、もう俺にとって驚くだけの出来事ではなかった。  俺は桃色の袋を棚へ置いた。置いたあとも指が離れず、袋の上をなぞっていた。これを文章にしたら、どこから書くだろう。常連が「肉ではないな」と言うところか。それより前に、チキンを買うつもりで入ってきたのを見せた方がいいか。 「瀬尾」 「あ、はい」 「置いたなら、次」  俺は慌てて手を動かした。仕事は続いている。それでも、頭の隅に一つ浮かんだ問いは、レジへ戻っても消えなかった。これ、小説にしたら面白くないか。 ◇  午前三時四十分、客足が途切れたところで休憩に入った。フライヤーは片方を清掃し、もう片方は使えるように残している。調理済みのチキンはホットスナックケースにあり、次の客の分も少し用意できていた。先輩へ任せ、バックヤードの折り畳み椅子を引く。  机の上へコーヒーを置いて、スマホのメモを開いた。白い画面に何を書けばいいか、しばらく考える。普段ならそこで嫌になった。今夜は、いくつも出てきて選べなかった。  コピー機で増えた地図を何度も見比べる客。カップ麺の出来上がりを待ちきれないドワーフ。プリンを一個ずつ買い足していった女王。思い出した端から文字にしかけて、俺は手を止めた。このまま並べれば、ただの勤務記録になる。  このバイトを始める前から、小説は書こうとしていた。家のパソコンには、途中で止まった文章がいくつもある。強い敵を出し、大きな事件を起こし、主人公をその真ん中へ置く。書き始めた時は面白そうだったのに、会話を始めると全員が同じようなことを言い出した。誰が何をしたいのか、自分でも分からなくなって、また最初の方を直していた。  今夜の客なら、少なくとも何をしたかったかは分かる。鶏を買い、知らない菓子を一つ試し、うまければ仲間に持っていく。それを、勝手に世界を救う人へ変える必要はない。そう考えてから、俺はコーヒーを持ち上げた。飲まずに考えすぎて、もうぬるくなっていた。  水野さんが言っていた、直しているうちに最初のよさが分からなくなるという話も思い出す。あの時、俺は自分が何を書いているのか言えなかった。完成していないから、と言えば逃げられる。それでも、何も完成しないままでいいとは思っていなかった。  スマホの画面に、『夜の店』とだけ打った。そこから指が止まる。この店で起きていることを、事情を知らない相手へ事実として伝えようとすれば、店に関する記憶が消える。聞いたのはそういう話だった。小説として書いた場合まで、分かったわけではない。  俺は画面を伏せ、休憩室の入口から売り場を確かめた。ほかの客はいない。先輩はレジに立っていた。 「先輩、ちょっといいですか」 「何」 「ここで起きたこと、小説にしたらどうなると思います?」 「知らん」 「速いな」 「俺に聞くな」 「記憶、消えたりしますかね」  先輩はそこで手を止めた。俺の顔を一度見て、さっきよりゆっくり答える。 「知らねえ。俺が仕組み作ったわけじゃねえし」 「……ですよね」 「大丈夫だと思って言ったんじゃねえぞ」  頷くと、先輩は台へ視線を戻した。分からないことを分からないままにする返事が、今は少し重かった。俺は休憩室へ戻り、メモの続きを見た。『夜の店』の下は、まだ空いている。  誰かへこの店のことを知らせたいのだろうか。そうではない。リザードマンに会った証拠を出したいわけでも、北森店を探しに来てもらいたいわけでもなかった。俺が書きたいのは、あの客が知らない菓子の前で少し考えたところだった。  なら、見たままの店も、見たままの客も使わなくていい。名前だけ変えれば十分だとは思わない。場所や店の形、時間、人物の経歴、出来事の順番まで変える。そのうえで、読んだ人が実在のここへ辿り着くような材料は残さない。  それでも、どこまでなら安全なのかを今ここで決めることはできなかった。俺は発表するつもりの文章ではなく、まず自分の手元で考えるためのメモに、別の店の入口を書いた。看板の名前はまだない。山道沿いのコンビニでもない。町外れで、月の高い夜にだけ変わった客が訪れる店だった。  表へ戻ると、先輩が俺を見た。 「決まったのか」 「全部は。でも、そのままは書きません」 「そうか」  先輩は、それなら安全だとも面白いとも言わなかった。代わりに減った袋を示す。俺は頷いて、新しい束を取り出した。手を動かしている間も、今度は実際の店ではなく、まだ誰も入っていない架空の店が頭に浮かんでいた。  六時まで、客が来るたびにその入口をいったん閉めた。レジで人を待たせている時に、頭の中の客と喋っていても仕方ない。朝に森が消え、掃除と引き継ぎを終える頃には、書きたい台詞を二つほど忘れていた。けれど、早く帰って書きたいという気持ちは残っていた。 ◇ 部屋へ戻ったのは八時前だった。上着を脱ぎ、シャワーを浴びると、一度はそのまま寝ようと思った。夜勤明けの身体は正直だった。なのに机の横を通る時、閉じたノートパソコンを見て足が止まる。  椅子を引き、画面を開いた。机の上は、この店へ応募する前と大して変わらない。途中で投げた原稿のあるフォルダを開くと、似たような仮題が並んでいた。どれかを続きを書くつもりで見たが、今日は新しいファイルを作った。古いものを全部消すことはしなかった。  題名は空欄にした。先に決めようとすると、そこで悩み続けそうだった。町外れの小さな夜店。月が真上にある間だけ、遠い土地へ扉がつながる。零時から六時という時刻は書かない。現実の地名も、店の看板も、制服も持ち込まない。  先輩に似た無愛想な店員を考えかけて、勇者という経歴を削った。俺が知らない過去を本当らしく補いたいのではない。店員はこの話の中で別の暮らしをしている人にする。客も、鱗の色を変えただけでは足りない。角のある大男を考え、どこから来て、今夜何を買いたいのか、その場の都合から組み直した。  最初の一文を打つ。  『月が高く昇った夜、店の扉を開けた最初の客には、角があった。』  そこで手を離して、画面を見た。記憶はある。応募の電話も、最初の出勤も、先輩に怒られたことも、さっき棚へ置いた桃色の袋も思い出せる。だからといって、これを誰かへ見せても安全だと分かったわけではなかった。ただ今、書いた一文は消えていないし、俺も続きを考えていられる。 「……書ける」  小さく言って、次の行へ進んだ。角のある男が、店員に温かい食べ物を頼む。現実と同じ三つにしかけたところで止まり、数を変えた。すると、どうしてその数が要るのか考えたくなった。二つを誰かと分けるつもりなのか、自分だけで食べるのか。客が答えを濁せば、店員はどこまで聞くだろう。  実際にあったやり取りを思い出すより、その男に合う言い方を探す時間の方が長くなった。書いた台詞を一つ消し、地の文へ変えた。大男の指が、包みを破らないように端をつまむ。その動きを見た店員が、次の包みを少し持ちやすい向きにする。大きな事件は起きないが、二人がさっきより違うものを見ている気がした。  途中で、ここに寝る場所もあれば、客は食べ終わったあとすぐに帰らなくていいのではないか、と考えた。まだ本編を全部変えず、別の欄に『夜店のある宿』と書き留める。あとで、どちらにするか考えるためだった。店の説明が増えそうになると、その欄へ移して本文を先へ進めた。  気に入らないところはあった。最初の数行へ戻りたい気持ちも、何度も出てきた。それでも、今夜の客を帰すところまでは書こうと思った。扉を閉めたあと、店員が何をするか知りたかったからだ。  やがて指が止まった。眠さで同じ文字を二度打ち、消してもまた同じところで間違える。俺は続きを始めず、ここまでの文章を保存した。明日の自分がどこから戻ればいいか分かるように、最後の行の下へ短いメモを残す。  画面を閉じる前に、もう一度ファイル名を確かめた。今までの原稿と並ぶ、新しい仮の名前があった。何千字書いたかを見直すより、その名前を覚えておこうと思った。  引き出しから小さな黒いノートを出し、仕事用のバッグへ入れた。思いついたことを、休憩に書いておくためだ。ファスナーを閉めて机を離れると、今度は迷わず寝る場所へ向かった。起きたあとに開くファイルは、もう決まっていた。

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