芦名 雅 / 第48話

第34話 神官、レシートを捨てられない

 新しいレシート用紙を入れると、何も書かれていない先端だけが長く出た。午後十一時四十分。俺はそれを切り、ゴミ箱へ落としかけてから手を止める。試しに送っただけの紙と、夕方の客が置いていった買い物の記録が、カウンターの下では同じように丸まっていた。 「先輩、これ、要らない方で合ってます?」 「白紙の端だろ。捨てていい」 「レシートも、もらわない人多いですよね」 榊原先輩は検品中の伝票から目を上げた。俺の手の紙じゃなく、自分が今見ている紙を、指先で軽く叩く。 「あとで困る方は残しとけよ」 「それとこれは違いますって」 「混ぜそうだったから」  伝票をゴミへ入れたことはない。そう言い返しながらも、俺は捨てる方の紙を先に片付けた。春の売り場になって、薄い箱や小さな菓子は増えたが、裏で使う紙の量は減った気がしない。レジには新しいロール、先輩の前には届いた品の記録。俺の鞄にも、まだ途中の小説を書き留めたノートが入っている。  零時になると、ガラスの向こうへ森が戻った。最初の客にチキンを渡し、次の客のパンを通す。出てきたレシートを差し出すと、片手を振られた。渡さなかった紙を所定の箱へ入れ、次の会計へ戻る。その繰り返しのあと、一時半過ぎに、青い縁取りの外套が入ってきた。 「今夜も、あの甘い飲み物はあるか」  杖を持った男の声に、俺は顔を上げた。淡い灰色の髪を首の後ろで束ね、白い長衣の胸元には銀の円環がある。以前、ひどく疲れた様子で水を探しに来た神官だった。今夜も裾に土は付いているが、杖へ寄り掛かってはいない。 「スポーツ飲料ですね。同じ場所にあります」 「助かる。塩と糖の入っている方だ」 「はい。普通の水の隣です」  神官は頷き、かごを取った。以前の聖水の話を思い出して少し笑うと、向こうも何を考えたか分かったらしく、円環へ指を当てる。 「今日は、祈りには使わんぞ」 「まだ何も言ってませんよ」 「言いそうだった」  そう返して、飲料棚へ歩いていった。俺はあとを追わず、空いた紙袋を補う。透明に近い飲み物を三本選び、今度はパンの所でこちらを呼んだ。二つとも今夜仲間と食べる分だという。具と味を伝えると一つずつかごへ入れ、ナッツの小袋も加えた。  絆創膏とウェットティッシュは、手元に残っているものの補充だった。俺が棚の位置を示すと、神官は大きな袋へは手を伸ばさず、小さい方を選んだ。 「皆の荷にまだある。こちらまで大きいものを持つこともない」 「じゃあ、足りない分だけですね」 「ああ。ただ、誰が幾つ持っていたか、帰ると話がずれる」  少し困ったように笑った。かごの取っ手を持ち直すと、杖をつく手とは反対側へ提げる。俺はレジへ戻り、飲料三本、パン二つ、ナッツ、絆創膏、ウェットティッシュの八点を通した。  支払いが終わる間に、重い飲料と潰れやすいパンを分ける。銀色の硬貨をしまった神官へ袋を渡し、次にレシートを差し出すと、その手が途中で止まった。 「前にも、その紙をもらったな」 「買った物の記録です。今回は八点ですね」 「八点、というのは、品の数か。それとも種類か」  いつもより細かい聞き方だったので、俺は紙を引っ込めず、文字が見やすい向きへ置いた。神官は袋をレジ脇へ寄せ、杖を肘へ預ける。両手が空くと、細長い紙の端を押さえた。 「数です。飲み物三本で三点、パンが二つ。その下の三つは、一つずつです」 「こちらは同じ字で、数字が三。ここは違う字が二つある」 「飲み物は同じ商品なので、まとめて三本って出てます。パンは種類が違うので、一つずつですね」  神官の指が、三という数字と、パンの二行を往復した。日本語を読めるようになったわけではない。同じ字がどこまで続くかを見て、さっき自分が取った物と結びつけている。 「なるほど。全部違う品が八つではないのだな」 「はい。こっちが単価で、横にその商品の分の金額が出ています」 「では、飲み物を一本だけ買った時の額も分かるか」  該当する数字を示すと、神官は細長い手帳を腰から外した。表紙の角は丸く擦れ、閉じる紐の下に、小さな筆記具が差してある。紙を渡すだけのつもりだった俺も、レジ台へ広げていた袋の束を片側へ寄せた。 「お金、分けるんですか?」 「ああ。旅の金を何人かで出している。戻ったら、何に使ったかを話す」  手帳が開かれた。俺には読めない文字の間に、短い線で区切った欄が並んでいる。神官は新しい行へ何かを書きかけ、そこで手を止めた。 「飲み物を三本、と書く。だが、この紙には、誰が飲む分かまではないな」 「そこは、俺も聞いてないですから」 「そうだった。私の分と、歩いて戻る二人の分だ。これは自分で書けばよい」  小さな字が足された。絆創膏は皆で使う分、パンは今夜の食事。袋から品物を出して並べ直すのではなく、俺が読み上げたところへ順に印を付ける。記録する内容を決める声には迷いがなく、何を書く道具なのかまで教える必要はなかった。 「これ、前にも残してたんです?」 「紙は、どこかへ挟んだはずだ。何が書いてあるかまでは聞かなかった」 「前は、かなり疲れてましたもんね」 「水を飲む方が先だった。紙を見ている余裕はなかったな」  神官はそう言って笑った。あの夜、こちらが説明したことを全部覚えているはずもない。ただ、今回初めてこの紙を見たことにしてしまうのも違った。俺は余計な相槌をやめ、尋ねられた日付と会計時刻を読み上げた。  壁の時計を見た神官が、紙の上の数字を確かめる。こちらの暦が向こうでそのまま使えるわけではないと分かると、自分の手帳にだけ、別の印を足した。 「時刻まであるのか。ずいぶん細かい」 「レジが印刷してます。今、この店で買った記録ですね」 「前の夜と混ざらずに済む。……この紙は、皆も受け取っているのか?」  俺は隣のレジを見た。先輩が会計を終えた旅人へ紙を差し出している。相手は商品だけ持ち上げ、軽く首を振った。客がいなくなってから、神官はその手元を見た。 「要らぬのか」 「自分の買い物なら、見返さない人もいますね」 「そうか。私は戻って、説明しなければならん」  羨ましそうな言い方ではなかった。手帳に書きかけた行へ目が戻る。それを仕上げるために、最後の数字を俺へ尋ねた。 「これは、払った額か」 「ここが合計です。下はお預かりと、お釣り。持ってきた硬貨の名前までは載っていません」  神官は財布の革袋へ触れた。紙だけ持ち帰れば、こちらで使った金の説明が全部済むと思いかけていたらしい。精算機に通した金と、返ってきた金を思い出し、手帳の別の所へ短く書く。 「では、これはこれとして写す。金のことは、私の帳面にも残す」 「数字、必要ならもう一度読みますよ」 「頼む。ここだけだ」  指の置かれた行を読み直すと、神官は頷いた。俺が知っている文字と、神官が必要としている記録は、ぴったり同じではない。それでも今、同じ一枚を見ながら話せていた。  書き終えると、神官はレシートを手帳へ挟もうとした。折り目をつける前に、一度こちらへ向け直す。 「何年も、このまま読めるのか」 「長く残すなら、書き写しておいた方がいいです。この紙は熱で色が出るものなので、熱や保管の仕方で黒くなったり、文字が薄くなったりすることがあります」  頷きかけた首が止まった。神官は照明に紙を透かし、爪でこすろうとした。俺は自分が用紙を替えた時のことを思い出し、慌てて手を上げた。 「そこ、わざわざ試さなくていいです。今日の記録なので」 「そうか。貴重な一枚で試すことはないな」  先輩がレジの奥から、余った白紙の切れ端を寄せた。俺が端をこすると、黒い線が付く。神官の指は、その線へ触れる手前で止まった。 「インクを足したのではないのか」 「はい。だから、保管する場所にも気をつけた方がいいです」 「火の近くには置かない。帰ったら、帳面に写す」  自分で決めてから、レシートを手帳へ戻した。だが、今度は外套の湿った裾へ目が行くらしい。紙をしまう場所を探し、腰の布袋を一度開けて閉じる。 「雨に当たると困るな。薄い袋は売っているか」 「チャックで閉じる袋があります。あちらです」  買った商品は本人にレジ脇へまとめてもらい、空いたかごだけを持って文具棚へ向かった。透明な小袋のパックを見せ、閉じ口の構造を包装の図で示す。水の中へ沈めても平気なものとは約束せず、紙を分けて入れておく用途を伝えた。  神官は手帳の幅と袋の寸法を比べ、レシートだけを入れるなら足りると判断した。その隣の小さなメモ帳にも目を留める。表紙を開けようとして、帯が掛かっているのを見て止まった。 「これは、書く前の紙だけか」 「はい。中は罫線だけのノートです」 「なら、これも買う。今の帳面には、ほかの記録も多い」 「買い物の分を、分けるんですね」 「ああ。食べたパンを探すのに、全部めくらずに済む」  今の手帳を軽く持ち上げて笑った。俺は袋とノートの二点を会計した。二度目の支払いが終わり、レシートが出る。先輩がそれを見て、ぼそりと言う。 「紙を入れるために買って、また紙だな」  神官の手が一瞬止まった。俺も白い二枚目を見る。けれど、本人はすぐにそれを受け取った。 「今度は、何を買ったか覚えている」 「さすがに二つですからね」 「二つなら覚えられると思って、その前の二つを忘れる。だから今書く」  俺へ言い聞かせるのではなく、自分の筆記具を抜きながら答えた。レジから離れた空き台で、購入したノートの最初のページを開く。最初の書き出しだけは少し迷い、それから二点の名前を俺へ確かめた。  記入を済ませると、袋のパックを開けて一枚取り出し、レシート二枚を重ならない向きで入れた。チャックを端から閉じ、浮いている所がないか指でなぞる。残りの未使用の袋はノートと一緒にしまった。 「次も紙をもらう。そう伝えておけばよいか」 「はい。レシート、って言ってもらえれば」 「れしーと」  声に出してから、ノートへもう一つ書いた。今夜はどの文字も読めるようにならなかったが、次にここでする用事は増えたらしい。 「それと、この紙を次に見せたら、同じ飲み物を買えるか」 「同じ商品があれば分かります。三本だった所を一本に変えたい時は、その時に言ってください」 「紙のとおりの数でなければならぬ、とは思っていない」 「すみません、先走りました」  神官は少し笑い、紙の入った袋を外套の内側へ収めた。三本の飲み物が入った重い袋を持ち上げると、空いた方の手で杖を取り直す。今夜も買った食べ物は誰かの所へ運ばれる。そのあとに説明するための道具まで、自分で選んでいた。 「世話になった。仲間の分を買いに来て、自分の仕事が増えた」 「書く分ですか?」 「覚えて帰る分が減ったから、よい」  短くそう言って、神官は入口へ向かった。白い長衣の裾を足に絡ませずに歩き、ドアが開くと青い縁取りだけが一瞬明るく見えた。二枚のレシートは、もう外からは見えなかった。  俺は空いた台を片付けた。余った紙へ、先ほどこすった黒い線が残っている。そちらを捨て、筆記具を置いていた跡を布巾で拭いた。次の客が来ると、少し前と同じように水を会計し、レシートを差し出す。 「紙はいらぬ」 「はい。ありがとうございました」  受け取られなかった一枚は、いつもの箱へ入れた。残した方がいいですよとは言わなかった。隣の先輩が伝票へ印を付ける音を聞きながら、俺は次の商品を置く場所を空けた。

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