芦名 雅 / 第49話

第35話 値引きシール、待っても貼りません

 黄色いシールの端を押さえてから、榊原先輩はおにぎりを棚へ戻した。隣には、同じ具のものが正面を向いている。片方だけ安い。何も知らずに並べて見れば、たしかに妙な売り場だった。 「それ、こっちだけですか」 「入った便も、販売期限も違うからな。こっちはまだ」 「じゃあ、焼肉の方はまだ通常の値段で」 「そう。そっちは今、対象じゃない」  先輩が持つ端末へ目をやり、俺は手元の値札を直した。午前二時を少し過ぎたミッドマート北森店で、冷蔵棚だけが白く冷えて見える。向かいの菓子は抹茶フェアの緑色だ。入口の向こうは雨上がりの森で、扉が開くたびに、濡れた枝と土の匂いが入ってきた。  次に入ってきた男は、マットの上で靴の泥を落とした。灰色の外套も栗色の髪も乾いている。以前、ずぶ濡れで雨宿りに来た若い冒険者だった。左腕を振って歩いているのを見て、俺は挨拶の途中で顔を上げた。 「今日は怪我してない」  先に言われてしまった。俺の視線に気づいたらしく、男は袖口を軽く引く。まだ傷跡の具合を見せるほどには腕を出さず、そのまま店内へ目を向けた。 「それはよかったです。雨も、もう止んでますしね」 「ああ。今度は、買う物を決めてから来た」  前回の帰り際に言ったとおりだった。先輩もレジから顔を上げ、短く挨拶をした。男はかごを取り、パンを二つ選ぶ。温かいお茶を一本取ったところで、こちらを振り返った。 「これは、前の甘いスープとは違うな」 「お茶です。甘くない飲み物ですけど、そちらでいいですか」 「今日はこれにする」  かごへ収める手に迷いはなかった。俺はレジへ戻りかけたが、男は途中のおにぎり棚で足を止める。さっき先輩が置いた二つを見比べ、片方へ指を伸ばした。 「この印は、何だ?」 「値引きのシールです。こちらだけ、今は安くなってます」 「同じ食い物なのに?」 「販売できる時間が、こっちの方が短いんです。悪くなったものを売ってるわけじゃないですよ」  男の指が引っ込んだので、先にそこを補った。裏の表示を確かめて、残っている期限を説明する。値段は、シールのない方とある方の両方を伝えた。男は聞き終えると、黄色い方を取った。 「朝の分にできるか」 「これは、持ち歩いて朝まで置くより、今の食事にしてもらう方がいいです。冷やして並べているものですし。パンの方なら、選んだ二つはその予定に合います」  パンの表示も確認して伝えると、男はかごの中を見た。食べる順番を変えるだけなら、それほど困らないらしい。おにぎりをパンの上へ乗せず、底の空いている所へ置いた。 「なら、これも今夜だ」  返事を聞いて棚を離れようとした時、男の目が、その先の焼肉弁当へ向いた。黒い容器の透明な蓋の下に、肉とご飯が見える。最後に残った一つだったが、シールはない。 「そっちも、そのうち印が付くのか」  俺の足が止まった。先輩はもうレジへ戻っている。値引きの作業が終わったばかりだと告げると、男はそれでも弁当を見ていた。 「今夜、また貼ることはあるのか?」 「商品や残り方によります。ただ、待っていればこれが必ず安くなる、とは言えません」 「何時になれば分かる」 「決まった時刻を約束できるものではないです。今の値段で買われたら、それでなくなります」  男は黙り、かごのパンを少しずらした。弁当が入る場所を作りかけて、まだ取らない。その指が再び黄色いシールへ戻ったので、俺も続きを待った。 「少し待つ」 「待っている間の取り置きにはできません。それでもよければ」 「ああ。勝手に取っておけとは言っていない」  急いではいないのだろう。男は通路の端へ寄り、かごを足元へ下ろした。ほかの客が商品へ手を伸ばせる分だけ空けているのを見て、俺も仕事へ戻った。買わずに棚を見ていること自体は、止める用事ではない。  数分後、袋を補充していると、まだ同じ姿勢の男が目に入った。売り場の端で腕を組み、焼肉弁当を見ている。視線の先から一歩も動かないせいで、シールが生えてくるのを待っているように見えた。 「先輩、あの弁当、今日貼る予定あります?」 「今はない。さっき確認したろ」 「ですよね」 「お前も待ち始めんなよ」  つい同じ方を見ていた。俺は布巾へ目を戻し、レジ台の隅を拭いた。自動ドアが開き、茶色い上着の中年の旅人が入ってくる。小さな荷袋を手にしたその人は、挨拶を返すと、まっすぐ弁当の棚へ向かった。  若い冒険者がかごを持ち上げた。通路を空けたのだが、目だけは新しい客の手元を追っている。中年の男の手が焼肉弁当へ近づく。冒険者の肩が少し上がった。その手は途中で隣へ移り、幕の内弁当を取った。  息を吐いたのが、レジからでも分かった。俺の方まで少し力が抜けて、何を応援していたんだと自分でおかしくなる。中年の客の弁当を温め、支払いを終えて渡す。その間も、焼肉弁当の前の待ち人は変わらなかった。 「……疲れません?」  売り場の補充に出た時、つい声を掛けた。男はこちらへ顔を向け、少しだけ気まずそうに腕をほどく。 「俺が選ばなければ、ほかの者が買う。それは分かった」 「今の人、隣でしたね」 「ああ」  かごの中のお茶に触れ、男はもう一度弁当を見た。温かかったボトルは、冷蔵棚の前で待っている間に少し冷めている。取り替えようとはせず、そのまま持ち直した。 「そのお弁当が食べたいんですか」 「食いたい」 「でしたら、今の値段で――」 「分かっている。買えない値ではない」  少し強く言われ、俺は口を閉じた。お金があるなら買えばいい、と続けるところだった。前の夜も、男は財布の中を確かめてから、必要なものを一つずつ選んでいた。 「買ったあとで印が付くのが、惜しいんだ」  男は、今度は静かに言った。俺へ交渉する目ではない。自分でなかなか決められない理由を、ようやく言葉にしたらしかった。 「朝までに腹へ入れるなら、同じ物だろう。同じ物なら、安い方がいい」 「そうですね。俺もシールが付いてたら、そっちを見ると思います」 「お前もか」 「見ますよ。でも、こっちはまだ今の値段なので」  当たり前の説明へ戻ってしまい、二人とも少し笑った。そこで男の腹が鳴った。本人は何も言わず、下ろしていたかごをもう少し高く持つ。隠れるものではなかった。 「……さっきの客の弁当、いい匂いがしたな」 「温めましたから。焼肉の方も、温められます」 「それは、頼みたい」  男はそう言い、ようやく棚から弁当を取った。黄色いシールの付いていない蓋をしばらく見てから、かごの中へ水平に収める。取ったあとでまた戻すのかと思ったが、持ち手を握り直した。 「決めました?」 「ああ。あれを温める匂いを、もう一人分嗅ぐのは嫌だ」  レジから先輩が小さく吹き出した。男がそちらを見る。 「笑うことか」 「いや。温めるなら、空いてるぞ」  レンジの方を示す声に、まだ笑いが混じっていた。男も怒る顔にはならず、かごを持ってレジへ歩き出した。俺が先に内側へ回る間に、足元へ置いていた跡も、自分で一度確かめている。  パン二つ、お茶一本、値引きのおにぎり一つ、焼肉弁当一つ。五点を順に登録し、おにぎりの値引きが反映されている表示を示した。男は通常価格と安くなった額を見比べ、最後に弁当の数字へ目を移した。 「こっちは、印のない額だな」 「はい。お伝えした値段です」 「よし」  金額を受け入れた声だった。硬貨を精算機へ入れて、釣り銭を革袋へしまう。俺は弁当を温め始め、パンとお茶を袋へ入れた。おにぎりは今夜食べると言っていたので、弁当とは別に、すぐ取り出せる位置へ置いておく。  男はレンジの窓を見ていた。中の明かりに照らされた容器へ顔を寄せかけ、カウンターがあるので半歩手前で止まる。 「それで、火を使わず温まるのか」 「電子レンジです。この容器は使えるので、表示に合わせて温めてます」 「前は、湯を入れるものを買った。こっちは箱ごと入るんだな」 「スープとは作り方が違います。今夜は、こっちが温め終わるまで待つだけです」 「待つことばかりだ」 「今度は、終わる時間が分かってますよ」  表示を示すと、男は残りの数字を見た。さっきの値引きと違い、一つずつ減っている。俺は箸を取り、使えるか尋ねた。木の二本を見て少し迷うので、フォークもあると伝えたが、男は箸を選んだ。 「やってみる。無理なら、その時頼む」 「では、こちらを」  渡したところで、男がレジ横の抹茶チョコへ目を留めた。包装の小窓には、薄い緑の四角が見える。聞かれて味と値段を伝えると、今度もシールの有無を確かめられた。 「これは、安くなってはいないです」 「分かった」  手が引かれた。けれど、釣り銭をしまった革袋へ指を当て、もう一度だけチョコを見る。その間にレンジが鳴ったので、俺は弁当を取り出した。肉とたれの匂いが、カウンターへ広がる。 「それも一つくれ」 「チョコですか?」 「ああ。気になった。おにぎりで浮いた分もある」 「弁当の時より早かったですね」 「一つ決めるのに、もう随分待っただろう」  そう返されて笑ってしまった。もう一度財布を開けるのも本人だ。節約した方がいいと止めるつもりにはならなかった。チョコの会計を済ませ、熱い容器へ触れないよう、パンの方の袋へ入れた。  男は給湯器脇の空いた台へ移り、弁当の蓋を外した。入口を塞がない位置に袋を寄せ、箸を割る。二本を持ち替え、肉をつまもうとしたところで、先端だけがすれ違った。 「……なるほど」 「何がです?」 「まだ口へ来ない」  冗談かと思ったが、顔は真剣だった。俺は自分の指で持ち方を示し、上の一本を動かすよう伝える。男は言われた形へ少しずつ直し、薄い肉を挟んだ。上げる途中で落ちたが、二度目はそのまま口へ運べた。 「うまい」  短い感想のあと、今度は聞かずに次を取った。そこで俺もレジへ戻った。しばらくして見れば、ご飯の方はまだぎこちないが、止まってはいない。時々お茶を飲み、おにぎりの包装だけは開け方を聞いてきた。順番を示すと、数字の形を目で追いながら、ゆっくり海苔を巻いた。 「安かった方も、今食う」 「はい。その方がいいです」 「明日のパンは残っている」  誰に弁明するのでもない声だった。袋の中を確かめてから、おにぎりへかじりつく。食べる予定は最初に来た時から変わったが、買ったものを忘れてしまったわけではなかった。  弁当の容器とおにぎりの包装を片付ける時、ごみ箱の場所は男が先に指した。捨てる所だけ確かめられ、俺は頷く。灰色の外套は濡れておらず、台に残ったのは小さな食べこぼしだけだった。 「次は、先に黄色い印を見る」 「ない日もありますよ」 「それは分かった。あれば見る、なければその時考える」  男はパンとチョコを入れた袋を持ち上げた。今日より上手に買い物する方法を決めた、というほど大げさな顔ではない。次に見る場所を、一つ覚えて帰るだけらしかった。 「では、また」 「ありがとうございました」  ドアが開くと、雨上がりの冷たい空気が入った。男は外套を寄せ、店の明かりの届くところで進む方向を確かめる。袋を持つ腕にかばう様子はなかった。俺が手を上げると、一度だけ返して森へ歩いていった。  棚へ戻った先輩の手に、黄色いシールが見えて、俺は思わず顔を向けた。 「今、貼るんですか?」 「道具しまうだけだ。お前まで気にすんなよ」  ロールをケースへ戻され、俺は笑った。さっきの客が見たら、きっと同じことを聞いただろう。焼肉弁当のあった一個分を空けたまま、俺は残っている商品の期限を確認した。 「食ってる時は、こっち見てなかったな」  先輩が言った。俺も空いた台へ目をやる。箸と格闘している間、男はもう値引きの作業を待っていなかった。 「次に来たら、俺の手元見そうですけどね」 「何も持ってなくてもか」 「黄色い物、全部疑われそう」  先輩は胸の三日月を見下ろし、面倒そうに鼻を鳴らした。俺は台を拭きに行った。パンの袋も、チョコの包みも、忘れず持って帰っている。拭き終わってから自分の腹が少し鳴り、今は誰にも聞かれなかったふりをして、布巾を畳んだ。

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