芦名 雅 / 第22話

第21話 朝七時の水野さん

 勇者だったという人に、肉まんの残りを数え直せと言われた。午前五時半のミッドマート北森店で、俺は保温ケースの前にしゃがんでいる。白く曇った扉の向こうには、奥へ寄って見えにくくなっていた一個があった。レジの中から榊原先輩が顎を引く。 「二個だろ」 「……二個でした」 「朝の分、追加しとけ」 「勇者だった人に肉まんで注意されるとは思わなかったなあ」 「勇者は数えられねえと思ってんのか」 「そういうことじゃないですけど」  先輩が元勇者だと聞いてから、何日か経った。あの朝、聞き間違いかと思って問い直した俺に、先輩は「他に何がある」と答えた。どこで、何と戦っていたのかまでは話さない。聞こうとすれば仕事を指されるし、俺も客の注文を放っておくわけにはいかない。結局、分かったのはあの二文字だけで、レジの中には今日も濃紺の猫エプロンがいる。 「でも、勇者だった人が普通にバイトしてるのは、まだ慣れませんよ」 「勇者で給料出るならそうしてる」 「現実的すぎる」 「肩書きじゃ家賃は払えねえからな」  扉を開けかけた手が止まった。冗談を返すつもりだったのに、俺の部屋の家賃が頭に浮かぶ。月末に残高を確認する時、先輩も同じような画面を見ているのだろうか。顔を向けると、先輩は追加する肉まんを作業台に置いていた。 「それ、置く場所空けろ」 「あ、はい」  俺は二個を取りやすい位置へ寄せ、新しく入れる分と区別した。ケースの曇りを拭くと、ガラスに自分の顔が映る。先輩の昔を知ったところで、俺の担当する仕事が減るわけでも、手際がよくなるわけでもなかった。  六時を過ぎて森が駐車場に戻る頃には、朝の仕込みもひと段落していた。ゴミ袋を運びに自動ドアを出ると、さっきまで店内にあった暖かさが背中から剥がれる。駐車場の白線の端には霜が薄くつき、山際の空はまだ灰色だった。袋を所定の場所へ運んで戻るだけで、指先がこわばった。 「先輩、外やばいです」 「冬だからな」 「その一言で済ませるには寒すぎません?」 「ドアの前に立ってる方が寒いぞ」  言われて、入口から離れる。先輩はカウンターで袋の補充をしていて、俺が指をこすり合わせていると、空になった段ボールを片づけるよう目で示した。勇者の便利な能力で暖めてもらえないか、などと聞きかけてやめた。さっきの家賃の話が、まだ少し耳に残っている。俺は段ボールを畳み、ホット飲料の前出しへ回った。  ココアの列を整えながら、昨夜の売れ方を端末で確かめる。少し前なら何がどこにあるかを覚えるので精いっぱいだったのに、今は空いた列を見ると、そこから取っていった手を思い出せる。大きな爪や、手袋や、鎧の袖口。ただ、その手のことを朝番へ説明するわけにはいかなかった。 ◇  六時五十分を少し回ったところで、バックヤード側から挨拶が聞こえた。水野さんは厚手の上着の襟に髪を挟んだまま、両手をこすっている。生成り色のトートバッグを肩から下ろすと、金具が小さく鳴った。 「おはようございます。今日はほんとに寒いですね」 「俺、ゴミ出しだけで帰りたくなりました」 「もう帰る時間じゃないですか」 「そうだった」 「夜勤明けの瀬尾さん、それよく忘れますよね」  笑いながら言って、水野さんは荷物を置きに入った。戻ってきた時には猫エプロンをつけ、髪も襟からきれいに出ている。俺がココアの残数を伝えると、彼女は受け取った端末と棚を見比べた。 「これ、また増やしたんですね」 「夜に結構出るんで。肉まんも」 「チキンもですね」 「そっちは、まあ、寒くなくても」 「一年中強い」  画面を送る指が止まり、水野さんが少し首を傾げた。 「この店、朝より夜の方が忙しくないです?」  聞き慣れた疑問なのに、返事がすぐ出なかった。レジの向こうの駐車場は空で、山道にも車の光はない。その景色を見たあとで夜の数字を見れば、俺だって不思議に思うはずだ。 「日によりますけど、一人でいくつも買う人がいるので」 「そんなに?」 「……揚げ物が好きな人とか」 「常連さんなんですね」 「そうですね」  リザードマンの顔を思い浮かべていた俺には、水野さんの次の言葉が少し遅れて聞こえた。 「朝も同じくらい用意しておいた方がいいのかなって、迷うんですよ。夜に足りなくなるなら、仕込み少なすぎるのかなと思って」 「ああ、そういう話ですか」 「どういう話だと思ったんです?」 「いや、車がないのに客が来るとか、そういう……」 「それも気になりますけど。私、探偵じゃなくて朝番なので」  水野さんは笑って、ホットスナックケースを指した。今並んでいる分で足りるのかを聞きたかったらしい。俺は表示を夜の時間帯から朝へ切り替え、二人で前の数日を見比べた。朝の売れ方なら、彼女の方がよく知っている。俺が追加しようか迷っていたチキンの数を指すと、すぐに首が横へ振られた。 「それは多いです。朝の人、夜中ほど食べないので」 「夜中の人が食べすぎなんですよね」 「どんな人たちなんですか、ほんとに」 軽い声だった。けれど、口を開いた時には喉の奥で言葉が引っかかった。名前を挙げずに済ませればいいという話でもない。俺が知っているのは、事情を知らない相手にこの店の秘密を話そうとすると、店に関する記憶が消えるということだ。水野さんと話しているこの朝まで、なくしてしまうかもしれない。 「……歩いて来る人もいますし」 「この山を?」 「元気な人が」 「すごく元気ですね」  自分でも苦しいと思った。水野さんは窓の外へ目をやり、それからカウンターの奥へ向き直る。 「榊原さんは、どう思います?」 「朝の数か?」 「それもですけど、お客さんがどうやって来るのか」 「入口から」 「そこは知ってます」  水野さんの肩が落ちた。先輩はそちらを見て、売上の画面を指す。 「仕込みは今までの朝の数でいい。足りなくなったら、その時増やせ」 「はい。……後半だけ普通に答えましたね」 「先に聞いた方には答えたぞ」  水野さんが俺を見る。助けを求められたというより、今の返事でいいと思います、と言いたい顔だった。俺は笑ってごまかす代わりに、朝用のチキンと、さっき仕込んだ肉まんの位置を伝え直した。彼女もそこは丁寧に確認する。端末を渡す指が離れたところで、ようやく肩の力が抜けた。  引き継ぎには、冬限定のチョコが二つ売れたことも添えた。水野さんは菓子棚へ行き、残っている箱の向きを直した。白い箱に銀色の細い線で雪の結晶が描いてある。正面を揃えたあとも、その一箱だけ、指がすぐには離れなかった。 「これ、やっぱりかわいいですね」 「俺、前に言われてから袋とか見るようになりましたよ」 「本当ですか?」 「一応。中身だけ見てた頃よりは」 「疑ってすみませんでした」 「もっと信用してくださいよ」  水野さんが小さく笑う。俺も棚の前に並び、箱を見た。銀色の線は、少し顔を動かすと光り方が変わる。派手に塗っていないのに、周りの菓子とは見え方が違った。 「こういうの好きだから、美大にしたんですか?」 「急ですね。……でも、順番としてはそうです。美大に入ったから好きになったんじゃなくて」  水野さんは箱を戻した。何を話そうか考える時も、指先だけは値札の陰に入った角を直している。 「小さい頃から絵を描くのが好きで、高校でもずっと描いてて。ちゃんと勉強してみたいなと思ったんです。好きなだけで何でも描けるわけじゃないので」 「勉強すると、変わるものなんです?」 「変わりますよ。何となくやっていたことに名前があったり、全然できてないのが分かったり」 「できてない方も分かるんだ」 「そっちの方が多いかもしれません」  笑ってはいたが、そのまま自分の手を見ていた。親指の脇に残った絵の具らしい色を、もう片方の爪で軽くこする。取れないと分かると、諦めて手を下ろした。 「課題とか、大変そうですよね」 「大変です。好きに描くのと、期限までに人へ見せられる形にするのって、別なんですよ」 「見せるって思うと、急に変なところが気になるとか?」 「そう、それです」  さっきまで箱に向いていた目が、俺へ向いた。 「直しているうちに、最初の方がよかったかもしれないって。戻したら、今度は直した方を覚えてて」  俺は棚へ伸ばしかけた手を下ろした。家のパソコンで何度もやったことだった。書いた一行を消して、言い換えて、元へ戻す。前の文章はもう残っていないのに、もっとよく書けていたような気がして、次の行へ進めなくなる。 「好きでも、そうなるんですね」 「好きだから、できないとへこむんだと思います」 「……分かる気がする」  答えてから、しまったと思った。水野さんは大げさに反応せず、俺の手元へ一度目をやった。品出しの途中でもないのに、指だけが何かを直すように動いていた。 「瀬尾さんも、何かやってるんです?」 「まあ、ちょっと。趣味みたいなものです」 「何です?」  小説、と言えば済む。異世界のことを話すわけではない。それでも、毎朝顔を合わせる相手に言うのは、思っていたより難しかった。何本も途中で止めたままの原稿が、いっぺんに机からこちらを見ている気がした。 「まだ言えるほどじゃないんで」 「言えるほど?」 「完成してないんです」  水野さんは少しだけ口を開き、それから閉じた。聞き返す代わりに、俺が手を置いていた棚の端から値札の角を起こす。 「じゃあ、完成したら言える?」 「……たぶん」 「覚えときます」 「忘れてくださいよ」 「今聞いたばっかりなのに?」  そこで二人とも笑った。笑えたことに、少し助けられた。レジの方へ目を向けると、先輩が伝票を収めていた。こちらを見た口元がわずかに動いた気がする。 「先輩、今笑いました?」 「七時だぞ」 「答えないんだ」 「帰るぞ」  時計を見ると、本当に勤務が終わっていた。俺はエプロンを外しにバックヤードへ戻った。上着を着て売り場へ出ると、水野さんはもうレジに入り、朝用の袋を揃えている。俺に気づくと、ホット飲料の棚を指した。 「帰り、何か買ってった方がいいですよ。今日ほんとに寒いので」 「店員に営業されてる」 「常連さんにだけ頼ってられませんから」  俺は温かいミルクティーを一本取った。カウンターへ置くと、水野さんが「あ、それなんですね」と言う。 「甘いの、選ぶんだなって」 「朝くらいいいでしょう」 「夜勤明けでしたね」  俺は笑って会計を済ませた。バッグを持ち直した時、完成したら、という言葉がもう一度浮かんだ。何も見せられない今から、その先のことを聞く人がいる。振り返って何か付け足そうとして、水野さんが朝の確認を始めているのを見てやめた。  自動ドアの前で、ミルクティーを両手に持ち替えた。外へ出ても指がすぐにはかじかまない。駐車場を渡りながら、今度は俺から、水野さんが描いているものを聞いてみようと思った。

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