芦名 雅 / 第18話

第17話 ここでは剣を抜くな

 肉まんを一個だけ蒸し器へ足す時は、いつも少し迷う。十二月の深夜、ミッドマート北森店のガラスの向こうは黒い森に変わっていた。入口近くではカイロや厚手の靴下の札が白く照らされ、レジ横では食べ頃の肉まんが二つ、湯気の向こうに並んでいる。俺は追加の一個を持ったまま、先輩へ声をかけた。 「先輩、肉まんあと二個です」 「一個追加」 「最近、一個ずつしか追加しませんね」 「廃棄出したくねえからな」 「堅実だ」 「バイトだぞ」  先輩はそう言いながら、レジ横の伝票へ目を落とした。俺は肉まんを一個だけ蒸し器へ追加する。異世界につながっていても、売れ残った中華まんは普通に廃棄になる。その現実感には、もう慣れた。ウィーン。自動ドアが開く。 「いらっしゃいませ」  入ってきた人間の男は、入口で店内を一周見渡した。濃紺の外套の下に革鎧を着け、銀色の胸当てと肩当てには、磨かれても消えない細かな傷がある。三十代半ばほどの、背の高いがっしりした男だ。腰の長剣を棚へ向けないよう身体を寄せる動きにも迷いがなく、短い焦げ茶色の髪の下から灰色の目がこちらを見た。 「温かい飲み物はどこだ」 「こっちです」  俺は迷わずホット飲料の棚を示した。剣を持った知らない男が来ても、最初に考えるのが接客になっている。少し前なら、腰の剣ばかり見ていた気がする。男は棚の前へ行き、缶コーヒーを一本取った。黒いやつ。 「それ、甘くないですよ」 「構わん」 「苦いですけど」 「その方がいい」 「了解です」  答えも短い。俺がかごを渡すと、男はそのまま弁当棚へ向かい、塩むすびを二個入れた。缶コーヒーと合わせて迷いなく選んでいる。カウンターへ戻った俺の横では、常連のリザードマンが先輩からチキンの紙袋を受け取るところだった。 「今日は三つでいいんですか?」 「うむ」 「仲間の分は?」 「今日は我だけだ」 「助かります」 「なぜだ」 「揚げる数の話です」  リザードマンの喉が低く鳴る。笑っているらしい。その横を、さっきの男が通った。リザードマンは一度だけ男の腰の剣を見たが、特に何も言わなかった。男の方も、二メートル近いトカゲ人間を見ても足を止めない。この店に来る客としては、それももう珍しくなかった。 ◇  午前一時を少し回った頃。最初の男は、まだ店内にいた。日用品棚の前で、使い捨てカイロを手にしている。 「これは何だ」 「袋を開けると温かくなるやつです」 「火は使わない?」 「使わないです」 男は袋の表と俺の指先を交互に見る。火がいらないところまでは分かったが、次は魔力の有無が気になるらしい。 「魔力も?」 「たぶん使ってないです」 「たぶん?」 「仕組みまで説明しろって言われると、俺も自信ないんで」 男は俺を見た。店員なのに知らないのか、と顔に書いてある。 「店員なのにか」 「売り方と使い方は分かります」  カウンターの中から先輩が言う。 「十分だろ」 「先輩が言うと説得力あるなあ……」 「何だよ」 「別に」  男はカイロを二つ取った。その時だった。ウィーン。自動ドアが開く。 「いらっしゃいませ」  俺が声をかけると、新しい客が入口で足を止めた。灰色がかった肌に黒い角が二本、耳の下で切り揃えた銀髪の間から後ろへ伸びている。以前の将軍とは違う男だ。細身だが黒い長衣の上に着けた胸と腹の防具は身体に沿い、腰には短く湾曲した剣がある。暗い赤色の目が、俺の方へは来ずに日用品棚を捉えた。  日用品棚で、カイロを持っていた男も手を止めた。互いの目が合っている。俺の背後では冷蔵ケースがいつもどおり唸っていたが、その音を避けるように二人の声が低くなった。 「……貴様」 人間の男の声が低くなった。さっきまで商品へ向いていた灰色の目が、入口の客だけを捉える。 「なぜここにいる」 「それはこちらの台詞だ、騎士団長」  騎士団長。その呼びかけで、俺は初めて男の立場を知った。だが訊き返す余裕はなかった。右手が剣へ下がり、魔族の男も半歩身体をずらして柄へ指を近づける。二人の間には、俺の立つ通路と棚の角がある。大剣の男に胸元を掴まれた時の感触が戻ってきて、俺は一歩、カウンターへ寄った。 「先輩」 呼び終えるより先に、レジの中から声が飛んだ。先輩は伝票を置き、二人の剣へ視線を固定している。 「ここでは剣を抜くな」  大きな声ではなかった。振り向くと、先輩は伝票を台へ置いていた。片手を空けたまま、二人の手元を見ている。さっき肉まんの数を答えた時と同じ声なのに、俺は返事を挟めなかった。その横で、リザードマンも紙袋を下げた。 「店の中では争わぬ」  常連のリザードマンまで口を開いた。チキンの紙袋を片手に持ったまま。騎士団長の手が止まる。魔族の男も剣へ触れない。数秒。誰も動かなかった。俺だけが、肉まんの蒸し器の湯気を見ていた。この状況で、なぜか肉まんだけが平和だった。 「……この者が何者か分かって言っているのか」  騎士団長が先輩へ顔を向けた。先輩は視線を外さず、カウンターの内側に立っている。伝票は置いたままだった。 「知らん」 「知らない?」 騎士団長は一瞬だけ眉を寄せた。目の前の相手を知らないまま止めたことの方が、理解しにくいらしい。 「客だろ」  いつもの答えだった。魔族の男が鼻で小さく息を吐く。 「随分と呑気な店だ」 「買うなら買え。やるならここでやるな」  先輩が言う。常連のリザードマンも頷いた。 「ここで揉めれば、他の客が買い物できぬ」  理由が、ものすごく普通だった。騎士団長が店内を見る。白い床。商品棚。ホットスナックケース。猫のマークが付いた買い物かご。それから、剣の柄から手を離した。 「……承知した」 魔族の男も肩の力をわずかに抜く。それでも騎士団長から完全に目を外したわけではない。 「こちらも、店を壊すつもりはない」 「なら離れて買え」  先輩が言った。 「雑!」 思わず突っ込んだ。張りつめていた空気の中で、自分の声だけが妙にいつもどおりに響いた。 「分かりやすいだろ」 「そうですけど!」  騎士団長は何も言わず、日用品棚の奥へ移動した。魔族の男は反対側の菓子棚へ向かう。本当に、別々の棚へ行った。俺はしばらく二人を交互に見ていた。 「瀬尾」 「はい」 「客見すぎ」 「いや、見ますよ!」 「万引き疑ってんのか」 「そういう意味じゃないです!」  それからの十分ほど、俺は二人の間を横切るたびに足が遅くなった。騎士団長はカイロを二つ追加し、既に入っているコーヒーと塩むすびの横へ置く。魔族の男は菓子棚で迷った末、板チョコを二枚選び、飲料棚から温かいココアを取った。どちらも買い物は続けている。ただ、相手が棚の角へ近づくと、先にいた方が別の通路へ回る。  魔族がレジ側へ近づけば、騎士団長は少し止まる。一度だけ、二人が飲料棚の角で鉢合わせそうになった。騎士団長が止まる。魔族の男も止まる。俺まで止まる。三人で数秒、無言になった。 「……どうぞ」  先に言ったのは騎士団長だった。魔族の男の眉がわずかに上がる。 「譲られる筋合いはない」 「なら、先に行け」 「それを譲ると言うのだ」 「面倒くさいな、あの二人」  レジ脇を通りながら小声で言うと、先輩は二人を見たまま返した。 「放っとけ」 「こっちの通路塞がれてるんですけど」 「じゃあ言え」  俺は補充の箱を抱え直し、棚の角へ戻った。二人は互いの方を向いたまま、まだ道を譲り合っている。 「すみません、通路だけ空けてもらっていいですか?」  騎士団長と魔族の男が、同時に俺を見る。ちょっと怖い。でも、言わないと補充ができない。 「商品出したいんで」  俺が抱えていたペットボトルの箱を少し持ち上げる。二人は無言で左右へ分かれた。 「ありがとうございます」 俺はその間を通った。剣を持った敵同士らしい二人に道を空けてもらって、水を補充する。何をしているんだろう、俺は。箱を開け、一本ずつ棚へ並べる。背中に視線を感じたが、振り返らない。こういう時ほど、普通に仕事をした方がいい。少なくとも、手を止めて二人を見張るよりはましだ。補充を終えて戻ると、二人はもう別方向へ歩いていた。戦わない。でも、仲良くなったわけでもない。その距離感が、むしろ分かりやすかった。そのあと魔族の男が、温かいココアの缶を持って俺を呼んだ。 「店員」 「はい」 「これは甘いのか」 「かなり甘い方です」 「温かい?」 「そこから取ったなら温かいです」  男は缶を掌で包むように持った。防具に囲まれた身体の前で、白い缶が小さく見える。剣の柄へ近づいていた指が、今は温かさを確かめるように缶の側面を撫でた。 「悪くない」 「飲む前に分かるんですか?」 「冷えた夜に、温かいものを持てるだけでも違う」 「それは分かります」  外の森がどれほど寒いのか、俺には正確には分からない。でも自動ドアが開くたびに入ってくる冷気なら知っている。男はココアをかごへ入れた。その少し向こうで、騎士団長が一瞬こちらを見た。何も言わず、また自分のかごへ視線を戻す。先にレジへ来たのは魔族の男だった。 「こちらへどうぞ」  俺は商品を通す。板チョコ二枚。ホットココア一本。それから、いつの間に取ったのか、小袋のナッツ。ピッ。ピッ。ピッ。普通の会計音が鳴る。数歩後ろには騎士団長がいる。魔族の男は一度だけ振り返った。騎士団長も見返す。何も言わない。 「お支払い、こちらです」  俺が精算機を示す。魔族の男は黒い革袋から暗い銀色の硬貨を出し、一枚ずつ入れた。ちゃりん。ちゃりん。機械は普通に受け付ける。 「袋、使いますか?」 「頼む」 俺はチョコとナッツを袋へ入れ、温かいココアは別に渡した。さっき剣へ伸びかけた手が、今は紙袋を受け取っている。 「熱いんで気をつけてください」 「分かった」  男は袋を受け取る。そして、自動ドアへ向かった。俺は一瞬、騎士団長を見た。追うのかと思った。でも騎士団長は動かなかった。魔族の男が振り返る。赤い目が、まっすぐ騎士団長を見る。 「外へ出れば、ここではないぞ」  挑発するような声だった。騎士団長の眉が動く。俺の胃も動いた気がした。 「お客さん」  先輩が言う。今度は魔族の男の方を見る。 「店の入口で始めるなよ」 「……分かっている」  魔族はそれだけ返した。自動ドアが開く。暗い森へ出ていく。ドアが閉じた。騎士団長は、すぐには動かなかった。 「お会計、こちらへどうぞ」  声をかけても、騎士団長は閉じたドアをしばらく見ていた。俺はかごを受け取りかけた手を止める。まだ外へ出るつもりなら、追うのかどうかなど訊きたくなかった。 「少し待たせてもらう」 「はい」 「今出れば、あれと鉢合わせる。店の前で騒ぎを起こすのは本意ではない」  そう言って、男はようやくかごを台へ置いた。剣ではなく商品の方へ戻った手を見て、俺も手を伸ばす。 「ありがとうございます」 「妙な礼だな」 「俺もそう思いました」  先輩が後ろで欠伸をする。 「会計するぞ」 「あ、はい」  俺は騎士団長の商品を受け取った。缶コーヒー。塩むすび二個。使い捨てカイロ四個。全部普通の商品だ。レジを通せば、騎士団長でも値段は同じ。ピッ。ピッ。電子音が続く。会計を終えた男は、温かい缶コーヒーを手にしたまま、店内でさらに数分待った。その間、常連のリザードマンは二個目のチキンを食べている。 「冷めますよ」  俺がコーヒーを見て言う。 「構わん」 「じゃあ、もう一本買います?」 「商売がうまいな」 「コンビニ店員なんで」  俺が言うと、先輩が小さく笑った。 「何ですか」 「いや」  騎士団長も、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。でも、それだけだった。魔族とのことを話すわけでもない。誰なのか説明するわけでもない。俺も聞かなかった。やがて男は入口へ向かう。 「世話になった」 「ありがとうございました」 「またどうぞ」  俺が言うと、一度だけ振り返った。 「……次は、あれがいない時にな」 「そこは俺には調整できないです」 「だろうな」  自動ドアが開く。濃紺の外套が暗い森へ消えた。ドアが閉じる。俺はしばらく外を見た。何も起きない。剣の音もしない。少なくとも、店の前では。 「先輩」 「ん」 「何で止まったんですかね、あの二人」 「知らん」  即答だった。 「いや、先輩が止めたんじゃないですか」 「ここでやるなって言っただけだ」 「それで止まるものです?」 「止まっただろ」 「結果論が強い」 常連のリザードマンが最後のチキンを食べ終える。騒ぎが収まるまで待っていたように、空の紙袋を畳んだ。 「この店で争う者は少ない」  俺はそちらを見る。 「やっぱり決まりなんですか?」 「決まりというより、皆が困る」 「皆が」 「店が壊れれば、買えなくなる」  リザードマンが空になった紙袋を見る。 「それは困る」 「理由、チキンですか?」 「重要だ」 「重要なんだ……」  先輩がレジの中から言う。 「お前も肉まんなくなったら困るだろ」 「俺はそこまで命懸けじゃないです」 「太るくらい食ってるのに?」 「その話まだ引っ張ります?」  リザードマンの喉がまた低く鳴った。俺は入口を見たが、剣の音も怒鳴り声も聞こえない。森の奥で何をしているかまでは分からなかった。  レジへ顔を戻すと、先輩は置いていた伝票を手に取り、さっきの続きを確かめていた。騎士団長が待っていたレジ前には、もう誰もいない。俺はそこを拭いてから、使われなかった方のレジへ空のかごを重ねた。 「店員」  リザードマンに呼ばれて顔を上げる。残った紙袋をのぞき、ホットスナックケースへ目を向けている。 「鶏は、まだあるか」 「ありますよ」 俺は今度こそ、剣ではなくケースの残数を見た。店内が平常へ戻ったかどうかは、その数字の方が分かりやすかった。

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