白井黒也 / 第9話

第8話「次の一手」

「――っ!」 息を呑むより先に、身体が跳ねた。 乱暴に浮上した意識のまま、荒く息を吸い込む。 肺が焼けるみたいだった。 「……っ、は……」 じっとりと嫌な汗が首筋を伝う。 開いた視界に飛び込んできたのは、白でも光でもなく、見慣れ始めた地下基地の景色だった。 ……戻ってきた。 そう理解した途端、張り詰めていた何かがわずかに緩む。 けれど、まぶたの裏にはまだ“白い何か”だけが焼きついていた。 輪郭は曖昧なくせに、不快感だけはやけに鮮明だ。 「…………」 喉の奥が、少しだけ苦い。 夢……そう呼ぶには、あまりにも後味が悪かった。 「……起きた?」 静かな声が、薄く残っていた嫌な感覚を現実へ引き戻す。 声のした方へ視線を向けると、モニターの光を横顔に受けた澪がいた。 寝る前と同じ場所。 変わらずそこにいる姿が妙に現実的で――少しだけ、安心する。 「……最悪な目覚めだ」 掠れた声が、自分でも驚くくらい素直に漏れた。 「嫌な夢でもみたの?」 「さぁ……夢か記憶か……もう、よくわかんねぇよ」 一瞬だけ、澪の表情が止まった。 けど、すぐにそれ以上は踏み込まず、そっとマグカップを差し出してきた。 「……はい」 ふわりと立ち上る、少し苦い匂い。 「……コーヒー?」 「インスタントだけどね」 「……あったのか」 「こういう場所ほど、そういうの大事なの」 受け取ったカップは、思ったより熱かった。 指先にじんわり伝わる温度が、嫌に心地いい。 恐る恐る口をつける。 「……可もなく不可もなくだな」 「贅沢言わないの」 「別に文句じゃねぇよ」 少し呆れたような澪の声。 そのやり取りが妙に“普通”で。 ついさっきまで胸の奥にこびりついていた得体の知れない寒気が、温かい苦味と一緒に少しずつ薄れていく。 状況だけ並べれば、全然笑えないはずなのに。 その一杯だけは、不思議なくらい“今ここ”に引き戻してくれた。 澪もまた、自分のカップを片手に壁へ軽く寄りかかる。 「……それ、飲み終わったら、これからのことを話したいの」 静かに落ちる声。 その言葉に、カップの中で揺れる黒い液体へ視線を落とす。 黒い水面が、わずかに揺れる。 まるで今の自分みたいだ、なんて柄にもないことを思った。 色々と、何ひとつ整理しきれていない。 でも、立ち止まったままじゃいられないことだけは、もうなんとなくわかっていた。 カップを傾け、残っていた苦味を喉の奥へ流し込む。 ぬるくなりかけたそれでも、不思議と頭は少しだけ冴えた気がした。 地下基地に響くのは、低い換気音と、機械の微かな作動音だけ。 そのわずかな静寂が、逆に“これから”を嫌でも意識させる。 休息は終わりだ。 カップを近くの机に置き、小さく音が鳴る。 その音を合図にするみたいに、俺は顔を上げた。 「……で、どうするんだ?」 「それなんだけど……しばらくは、ここで身を潜めようと思うの」 澪の声は静かだった。 まるで、それが今できる最善だと最初から決めていたみたいに。 「……なんでだよ」 思ったより低い声が出た。 それでも、澪は視線を逸らさなかった。 「それが一番、生存率が高いからよ」 「……生き延びるだけならな」 小さく漏れた言葉に、澪の眉がわずかに動く。 「今の貴方には必要なことよ」 「それじゃ何も解決しないだろ?」 思っていた以上に、言葉は止まらなかった。 昨日までなら、言われるまま隠れるしかなかったかもしれない。 けれど、頭の中にいるこいつらと、断片みたいな白い記憶と…NAB。 何もわからないまま、“とにかく逃げろ”だけで飲み込めるほど、もう何も知らないわけじゃない。 「……今は“解決”より“生き残る”ことを優先すべきなの」 「生き残って、その先は?」 澪が、ほんの少しだけ言葉を止める。 「状況を見て、動ける時を待つ」 「待ってるだけで、またNABが来たら?」 「だから隠れるのよ」 「……また逃げるのか?」 自分でも、少し意地の悪い言い方だと思ったけど、止める気はなかった。 澪は数秒だけ黙り込んで、それから小さく息を吐く。 「逃げることは、負けることじゃない。生きるための選択よ」 「……綺麗事に聞こえるな」 「綺麗事じゃない。現実よ」 その言葉は、思ったより重かった。 多分、澪は理屈で言ってるんじゃない。 本当にそうしてきたんだ。 そうしなきゃ、生き残れなかった側の言葉だ。 「現実、ね……」 否定しきれない自分がいる。 だけど同時に、その“現実”だけを受け入れるのも違う気がした。 「今の貴方は、自分が何者なのかも、NABが何をしたのかも、その全部を正面から受け止められる状態じゃない」 責めているわけじゃない。 むしろ、守ろうとしている。 だからこそ、少しだけ引っかかった。 「……だったら、いつならいい?」 「……え?」 澪は一瞬、返す言葉を見失ったみたいにわずかに目を揺らせた。 「澪も、こいつらも……何か知ってる」 無意識に、自分の頭へ軽く指を向ける。 澪の視線が、ほんの一瞬だけ変わった。 「……」 「なのに、誰も全部は教えてくれない」 「それは……」 言い淀んだ、その反応だけで、十分だった。 澪も、こいつらも、俺より“知ってる”。 「だったら、自分で動くしかないだろ」 「っ……翔」 澪の声が、まるでその先を言わせまいとするみたいに、少しだけ強く響く。 だけど、もう止まらない。 「知らないまま守られて、知らないまま逃げ続けて、それで終わりなんて嫌なんだよ」 自分でも驚くくらい、言葉は真っ直ぐだった。 怖くないわけじゃない。むしろ、怖い。 知った先に何があるのかもわからない。 けど、何も知らないまま全部を委ねる方が、今はもっと嫌だった。 「……知れば、今よりもっと危険になるかもしれない」 「もう十分危険だろ」 「……っ」 「追われて、狙われて、自分の頭ん中すら訳わかんねぇのに……これ以上“知らない方がいい”で済ませられるかよ」 地下基地の空気が、少しだけ張り詰める。 澪は何も言わない。 ただ、苦いものを飲み込むみたいに小さく目を伏せた。 「……本当に、無茶ね」 「そうでもしなきゃ、前に進めない」 それは強がりでも、勢いだけでもなかった。 多分ようやく、自分で選ぼうとしてる。 「…………」 沈黙が、静かにその場を満たす。 換気音だけが、やけに静かに響いた。 けど、その沈黙の中で、不思議ともう迷いは少なかった。 「俺は、自分が何者なのか知りたい」 言葉にすると、少しだけ実感が増す。 「NABが何をしたのかも……俺自身のことも」 胸の奥に残る、白い断片。 あれが何なのか。逃げるだけじゃ、多分一生わからない。 『……本当に、大丈夫?』 不安そうで、いつもみたいに少し弱々しい僕の声が聞こえた。 けど――だからこそ、その言葉は妙に胸に引っかかる。 大丈夫かなんて、正直わからない。 知った先に何があるのかも。 思い出した先で、自分がどうなるのかも。 「……大丈夫じゃなくても、行くしかないだろ」 『危険性は極めて高いでしょう。ですが、私はその意志を尊重します』 冷静で、淡々としていて、相変わらず現実的な声で賢者が続く。 止めるでもなく、ただ“理解した”みたいなその言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。 『……まったく、格好付けてますわね。でも、嫌いじゃありません事よ?』 お嬢が、呆れたように小さく息をつく。 「なんだそれ……」 思わず少しだけ気が抜けるが、その軽口すら不思議と悪くなかった。 『はっ、いいじゃねぇか!戦いが俺を呼んでるぜ!』 次の瞬間、戦闘狂の声が豪快に響く。 「お前は少し黙ってろ」 『なんだよ、ノリ悪ぃな!』 ……ほんと、こいつはどこまで行ってもこいつだ。 なのに、少しだけ笑いそうになる。 緊張も、不安も、怖さもある。 けど、頭の中まで張り詰めっぱなしじゃないのは――案外、悪くない。 そして。 『……ククッ。真実に、“耐えられる”といいけどね』 最後に響いたのは、悪の権化の声。 喉の奥をなぞるみたいな、薄く冷たい笑い。 一瞬だけ、空気が変わる。 軽口でも、冗談でもない。 まるで、何かを知っている側からの“忠告”みたいだった。 「……壊れる、ね」 その可能性がゼロだなんて、思ってない。 知れば後戻りできなくなるかもしれない。 思い出せば、今の自分じゃいられなくなるかもしれない。 それでも、知らないままでいるよりはいい。 「……上等だよ。壊れるかどうかも含めて――俺が決める」 その言葉は、静かな地下の空気をわずかに震わせながら、自分の中へ深く沈んでいった。 「……」 澪はすぐには何も言わなかった。 呆れているのか、困っているのか、それとももっと別の何かを考えているのか。 モニターの淡い光に照らされた横顔は、相変わらず簡単には読み取れない。 「……本当に。馬鹿ね、貴方」 その声には呆れが混じっていた。 けど、不思議と昨日みたいな突き放す冷たさじゃない。 むしろ――半分、諦めたみたいな。 「……よく言われる」 肩を竦めるように返すと、澪は小さく眉を寄せた。 「褒めてない」 「知ってる」 ほんの一瞬だけ、こんな状況なのに、少しだけ空気が緩む。 澪は手にしていたカップを静かに置き、壁から身体を離した。 「……そこまで言うなら、一つだけ当てがある」 「当て?」 「私がNABにいた頃、少しだけ関わりがあった人よ」 澪は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。 「元々は、NABにいた人間よ」 「……今は違うのか?」 「ええ。今は組織を離れてる」 その返答は短かった。 けれど、“ただ辞めた”だけじゃないことくらいは、澪の表情を見れば分かる。 「忠誠心で動くタイプじゃないの。必要なら組織すら利用する……そういう人」 「……随分胡散臭ぇな」 「否定はしないわ」 澪は小さく息を吐く。 「少なくとも、私より“組織そのもの”には詳しい」 安全な話じゃない。 むしろ危険な匂いしかしない。 だけど今の俺達には、“何も知らない”ことの方が危険だった。 「……信用できるのか?」 即座に返した問いに、澪は珍しく言葉を濁した。 「絶対、とは言えない」 「おい」 「でも、少なくとも、今ここで何もしないよりは前に進める可能性がある」 確証じゃない。安全保証でもない。 だけど今の俺たちに必要なのは、多分そういう“ゼロじゃない道”なんだろう。 「……なるほどな」 NABを壊滅させるとか、全部をひっくり返すとか――そんな話じゃない。 今必要なのは、まず“知るための手掛かり”だ。 「で、どこにいるんだ?」 「……随分、即決なのね」 「ここまで言っといて、やっぱやめますはダサいだろ」 「……はぁ」 呆れたように、それでいて少しだけ仕方なさそうに澪は深く息を吐いた。 「都内外れ。今の場所からなら、無事に移動できても半日はかかる」 「遠いな……」 「だから準備が必要なの」 その言葉と同時に、澪の視線が地下基地の設備へ向く。 「ルート確認、追跡対策、場合によっては偽装もいる」 「……結構大掛かりだな」 「相手はNABよ。むしろ、これでも足りないくらい」 軽く言うな、とは思った。 でも、軽く言ってるわけじゃない。 それだけNABは、“普通じゃない”。 「……準備が整い次第、出る」 「……ええ。なら次は、“逃げるため”じゃなく“知るため”に動くわよ」 その言葉が、静かな地下基地の空気をわずかに変えた。 休息は、終わった。 ここから先は。 誰かに守られるだけでも、何も知らないまま逃げるだけでもない。 誰でもない、この足で過去へ近づいていく。 ……たとえ、その先に何が待っていたとしても。
翔「……俺は知りたいんだ。自分のことを」 澪「問題なく協力者に会えるといいけどね」 僕『澪さん、それフラグだよぉ……』 賢者『真実へ辿り着く以上、危険は避けられないでしょう』 お嬢『スリルとロマンが待っていますわよ?』 戦闘狂『いいねぇ!ようやく動き出すって感じだ!』 悪の権化『……ククッ。地上へ出た先で、何を見るのかなぁ?』 翔「次回、第9話『地下からの出発』――覚悟はできてる」

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